ヴィルヘルムの退場
通信が入ったのは、崩壊の翌日の午後だった。
カイはケストレルのコックピットにいる。機体の状態を確認している。左肩の装甲は完全に失われ、右脚の関節部に入った亀裂は自力で修復できる範囲を超えている。センサー類の半数が故障し、通信系統も断続的にノイズが混じる。ガルドがいれば2日で直す。ガルドがいれば。
その思考を打ち消す前に、通信パネルが点滅する。
周波数が違った。灰域連合の通信網ではない。暗号化の方式も異なる。グランヴェルトの軍用回線だった。
一瞬、開くかどうか迷った。グランヴェルトの軍用回線がカイに直接繋がってくる理由は一つしかない。
カイは通信を開く。
「カイ・セヴァル」
声は低く、平坦だった。感情の起伏がない。声のトーンが上がることも下がることもなく、一定の速度で言葉を並べる。聞いたことがある声だった。鋼城の司令塔から発信された指示音声。戦闘中に傍受した通信の断片。
ヴィルヘルム・ブラント。
「生きていたか」
「あんたもな」
カイの声は乾いている。怒りが湧くかと思ったが、湧かなかった。疲弊が感情の手前で全てを止めている。
「鋼城が崩壊する前に出たのか」
「司令塔の脱出機構は設計段階から組み込まれている。崩壊の12分前に離脱した。クルトが操縦した」
クルト・ベルナー。ヴィルヘルムの右腕。鋼城の司令塔には脱出用の小型機が格納されている。ヴィルヘルムは最初から負けた場合の撤退手順を用意している。合理的な男だ。自分の命を計画の中に組み込み、失われるべきでない資産として管理している。
「なぜ通信を寄越した」
「伝えることがある」
ヴィルヘルムの声が、僅かに間を置く。通信の遅延ではなかった。言葉を選んでいる。
「お前の父親は、かつて俺の計画を壊した」
テオ・セヴァル。カイの父。鋼城計画の設計データを持ち出してグランヴェルトから逃亡した男。ヴィルヘルムにとっては、20年以上前に計画を頓挫させた人間。
「鋼城の設計図面、制御系統の仕様書、鋳脈接続プロトコルの技術文書。テオはその全てを持ち出した。復元に15年かかった。15年だ。その間に大崩落の余波で38の集落が消え、4000人以上が死んだ。鋼城があれば、その半数は救えた」
数字だった。ヴィルヘルムは数字で語る。死者の数。年数。集落の数。感傷を排除し、事実と因果関係だけを並べる。
「そして今、息子が同じことをした」
カイは黙っている。
「テオが壊し、カイが壊した。親子で、同じ計画を止めた。偶然にしては出来すぎている」
「偶然だ」
カイは言った。
「親父の計画なんか知らない。俺は俺の目の前にあったものを止めただけだ」
「その『目の前にあったもの』が何であるか、お前は理解しているか」
ヴィルヘルムの声は変わらなかった。怒りも嘲笑もなかった。
「鋼城は抑止力だった。次の大崩落に耐えるための、人類が持ち得る最大の盾だった」
「人を部品にして動く盾だ」
「そうだ」
否定しなかった。ヴィルヘルムは鋳脈者の犠牲を否定しなかった。隠しもしなかった。カイの胸の中で、怒りとは別の感情が渦巻く。否定してくれた方が楽だった。
「24人の人間を接続し、その神経をイグニス・コンバーターの制御に使った。その24人の生涯は鋼城に捧げられた。自由も健康も奪われた。それは事実だ」
ヴィルヘルムの声には、24人の鋳脈者を一人ずつ数えたような重みがあった。軽んじているのではなかった。カイにはそれが分かった。ヴィルヘルムは犠牲の重さを知った上で、その犠牲を選んでいた。ラースの涙も、ミーナの虚ろな目も、全て計算に入れた上で。
「俺は大崩落で妻と二人の子供を失った」
唐突な言葉だった。カイは息を止める。
「あの時、避難民の列を選別した。全員は運べなかった。トラックは3台しかなく、避難民は200人いた。60人を選んだ。残りの140人を置いていった。妻と子供は、140人の側にいた」
通信のノイズが波のように寄せる。ヴィルヘルムの声は変わらなかった。
「60人は生き延びた。140人は全滅した。俺が選んだから、60人が生きた。俺が選ばなければ、200人が全滅していた。その計算を、俺は今も間違っていなかったと思っている」
カイの指が操縦桿を握り締める。
「だがあんたの妻子は」
「計算の外に置いた。置かなければ、判断が鈍る。判断が鈍れば、60人が死ぬ」
声のトーンは一切変わらなかった。だがカイの耳には、その「変わらなさ」自体が叫びに聞こえた。
通信にノイズが走った。距離が開いているのだろう。ヴィルヘルムの脱出機は、既にグランヴェルトの管区方面へ向かっているはずだった。
「だが問う。お前たちは、次の大崩落が来た時、何で人を守る」
カイは答えなかった。
「旧世界は制御に失敗して崩壊した。イグニスの反応を制御できなかったからだ。次に同じことが起きない保証はどこにもない。鋼城はその時のための備えだった。24人の犠牲で何万もの人間を守る。その計算が間違っているなら、正しい計算式を示してくれ」
カイは黙っている。
答えられなかった。
24人の犠牲が間違っていると叫ぶことはできる。人を部品にするなと叫ぶことはできる。だが――
コックピットの計器パネルが薄暗く光っている。故障した計器が3つ。表示が消えたモニターが2つ。ガルドが整備するたびに、この狭い空間は一つずつ正確になっていった。ケストレルの癖を知り尽くした技匠の手が、一つずつ調整してきた。その手はもうない。
カイは口を開く。
「計算式なんか知らない」
声が掠れている。
「でも、人を部品にする計算式は間違ってる。それだけは分かる。ガルドが命をかけて止めたんだ。あの人が間違ってたとは、俺は思わない」
通信の向こうで、短い沈黙があった。ノイズだけが流れる。
「答えは出ないだろう。今は」
ヴィルヘルムの声に、初めて微かな色が混じった。嘲りではなかった。何と呼ぶべきか、カイには分からなかった。
「出たら教えてくれ。カイ・セヴァル」
通信が切れる。
* * *
コックピットの中が静かになった。
ノイズすら消えた通信パネルの前で、カイは操縦桿を握ったまま動けなかった。
ヴィルヘルムは倒されていない。
鋼城は崩壊した。鋳脈者は解放された。だがヴィルヘルムは生きている。脱出し、撤退し、グランヴェルトの管区に戻っていく。政治的な影響力がどれだけ残っているかは分からない。だが生きている。そして問いを残していった。
お前たちは、次の大崩落が来た時、何で人を守る。
カイには答えがなかった。
だがその先は白紙だった。
次の大崩落。次の災害。次の危機。それに対して、カイは何を差し出せるのか。鋳脈なしで。鋼城なしで。冴覚と腕だけで、何を。
コックピットから降りる。
ケストレルの脚元に、ガルドの工具箱があった。
昨夜開けた時のまま、蓋が半分開いている。焚き火の煤が蓋の表面に薄く積もっている。カイは蓋を閉じる。留め金をかける。
工具箱を持ち上げる。重かった。ガルドの手癖で整頓された工具の重み。鉄と合金と、使い込まれたグリップの革。
答えはない。
だがこの箱は、ここにある。




