戦場の翌朝
目を開けて最初に見えたのは灰色の空だった。
朝なのか夕方なのかも分からない。鋼城モノリスの崩壊で巻き上がった粉塵が大気に漂い、太陽の位置すら判別できない。ただ空が白んでいるから朝なのだろうと、カイは鈍い頭で判断する。
地面は冷たかった。
野営地と呼ぶには粗末すぎる場所だ。鋼城の残骸から500メートルほど離れた荒れ地に残殻や汎殻の外装パネルを風除けとして並べ、その陰に毛布を敷いただけの空間。くすぶる焚き火の煙が風に流され、鋼城の残骸へと細く伸びている。
体が動かない。
動かないのではなく動かす理由が見つからなかった。こめかみの奥で脈拍と同期するように明滅する痛みは冴覚を酷使した代償だ。昨日の戦闘で何度発動させたのかすら覚えていない。灰色の静寂が何度も視界を塗り替え、脅威の色を浮かび上がらせては体を動かす。泣きながら。涙で計器が見えなくなりながら。
頭痛はいつか引く。
だがもう一つの痛みは引かない。
周囲には人の気配がある。
右側では壁代わりのパネルに背を預けたリオンが目を閉じていた。寝ているのか起きているのかは分からない。解けて肩にかかる黒髪をいつものようにうなじで結ぶ余裕すらなかったのだろう。右頬にある薄い擦り傷はポラリスのコックピット内で顔をぶつけた痕かもしれない。
呼吸は穏やかだ。生きている。
その事実だけが今のカイにとって意味のある情報だった。
リオンの右手が膝の上で開かれている。ポラリスの操縦桿を何時間も握り続けた手だ。指の関節は赤くなり薬指の爪が割れていたが、戦闘中あの手がカイの視界から消えることは一度もなかった。ポラリスはケストレルの隣で最後まで戦い続けたのだ。言葉は交わさず通信も最低限だったが、ただ一緒にいてくれた。
野営地には30人ほどの生存者がいる。
灰域連合の戦力は出撃時の半数以下にまで減っている。残殻は全機が損傷し、無事に自力歩行できる機体は片手で数えるほどしかない。汎殻も3機を完全に喪失している。人員の被害は鉄殻の損耗に比べれば軽微だったが負傷者は多く、クレアの設営した簡易野戦医療所には包帯と鎮痛剤を求める列ができていた。
少し離れた場所にも他の生存者たちがいる。
毛布にくるまって横たわるボルトは、あの巨体が丸くなると意外なほど小さく見えた。不自然な角度で毛布から突き出した左腕には包帯が巻かれ、表面に赤い染みが滲んでいる。戦闘中にハウラーのコックピットハッチが歪み、脱出時に腕を挟んだのだと誰かが言っていた。
トワはシルフの外装板に背を預け、膝を抱えて座ったまま眠っていた。いつもの鋭い目が閉じられていると29歳の女にしては幼く見える。破れた戦闘服の左肩からは鎖骨の古い貫通傷の痕が露出していた。
仰向けに寝転がるリントの首には赤いスカーフが巻かれたままで、風に端をはためかせている。妹の形見を、戦闘中も決して外さなかったのだろう。
カイは何も感じなかった。
悲しいとか辛いといった名前のある感情が存在しない。昨日は泣いた。鋼城の残骸の前で膝をつき、声が出なくなるまで泣いて全部吐き出した。体の中にあった水分を使い切ってしまったかのように今は乾ききっている。
ガルドがいない。
その事実が頭の中で文字として存在しているだけだ。
10歳の時から7年間、ガルドはそこにいた。テオが帰ってこなかった後、ラストヘイムでカイの隣にいた大人だった。工具の握り方や残殻の配線の読み方を教え、「ネジを舐めるな。工具が泣く」と何度も叱った。言葉が下手な代わりに手を動かす男だった。
その手が、もうない。
* * *
ボルトが起きる。
毛布を跳ね除けて左腕の包帯を一瞥し、右手だけで上体を起こす。目が合った。
「おう。起きてたか」
声が掠れている。あのボルトの声が、掠れている。
右手で腰のポーチを探って平たい金属のフラスコを引き出すと、蓋を開けてカイへ差し出した。
「飲め。ストーンクロス・エールだ。こんな時のために取ってあった」
アルコールの匂いが漂う。カイは首を振った。
「飲めない」
「そうか」
ボルトはフラスコを引き戻して自分で一口飲んだ。顔をしかめており、美味くはなさそうだ。
「ガルドの野郎はな」
ボルトが呟き、フラスコを膝の上に置いて鋼城の残骸を見た。
「俺が初めてあの男に会った時、ケストレルの脚部の関節を直してた。素手で。工具が足りなかったんだと。指が火傷だらけだった。それでも直した」
カイは黙って聞いている。ボルトの声は掠れたままだ。傭兵頭の目に湿ったものが浮かんでいたが涙にはならなかった。ボルトはフラスコの蓋を閉め、腰のポーチへ押し込む。
トワが目を開け、膝を抱えたままカイを見る。
「泣きたいなら泣け」
短い言葉だった。トワらしかった。
「もう出ない」
「そうか」
トワはそれ以上何も言わず、膝を抱えた姿勢のまま鋼城の残骸へと視線を向けた。朝の光に照らされた巨大な残骸が荒野に横たわっている。3.2キロメートルの体躯が大地に倒れ、六脚の断面が空を向いている。灰域鴉が残骸の上を旋回し、黒い翼で灰色の空を切っている。
リントが起き上がった。
周囲を見回してからカイの顔を見て何か言いかけたが、口を開いてすぐに閉じた。言葉が見つからなかったのだろう。
リントは黙ってカイの隣に来ると座った。
肩が触れるほど近い距離だった。何も言わない。かつてカイに突っかかっていた22歳の青年が今は何も言わずにそこにいて、カイの隣で同じ方向を見ていた。鋼城の残骸と灰域鴉、そして灰色の空を。
カイは何も言わなかった。
リントも何も言わなかった。
焚き火の残り火が時折ぱちりと音を立てる。
風が吹く。鋼城の残骸の方から金属の粉塵を含んだ乾いた風が吹き抜ける。リントの赤いスカーフがはためき、カイの前髪が右目にかかったが払わなかった。
* * *
夜になった。
野営地では焚き火が新たに組み直されて小さな炎が揺れ、生存者の何人かが交代で見張りについている。暴走ドールは全機停止したはずだが、灰域には別の危険が潜んでいた。野盗や獣、あるいは鋼城の崩壊で不安定になった地盤の崩落だ。
カイは一人でケストレルの脚元にいる。
ケストレルは立ったままだ。コックピットのハッチは開きっぱなしで機体のあちこちに被弾痕があり、左肩の装甲が剥がれて内部のフレームが露出している。右脚の関節部には亀裂が入っていたが、まだ立っていた。
その右脚の付け根に工具箱が置かれている。
ガルドの工具箱だった。
鋼城に入る前、ガルドがケストレルの脚元に置いていったのだ。「重いからな。中に入る時は身軽な方がいい」と言い、ツールベルトだけを腰に巻いてあの暗い通路に消えていった。
カイは工具箱の前にしゃがみ込み、留め金を外して蓋を開ける。
中は整然としている。
柄の太さ順に並んだ6本の精密ドライバー。ワイヤーストリッパー、ラチェットハンドル、トルクレンチ、テスター。絶縁テープ、ハンマー、ワイヤーソー。それぞれの工具が決まった場所へ収まり、使い込まれた金属の表面が焚き火の明かりを鈍く反射している。
どの工具にも、ガルドの手の形が染みついている。グリップの握り癖、ドライバーの柄についた親指の圧痕、ハンマーの柄に巻かれた滑り止めのテープ。左利きのガルドが左手で握りやすいよう、全ての工具が微妙に調整されている。
カイは1本の精密ドライバーを手に取った。
冷たかった。




