父の影
夜の作業場は、油と金属粉と赤葉の匂いで満ちていた。
ガルド・ヴェッセンは残殻の脚部を分解した棚の前に座り、遺灰酒の瓶を手に取った。芋から作ったラストヘイムの蒸留酒。琥珀色の液体が灯油ランプの光を受けて揺れた。一口含む。喉が焼ける。舌の上に芋の甘みが一瞬広がり、すぐにアルコールの鋭さに変わった。胃に落ちると、腹の底から熱が広がる。
カイは作業台の向かいに座っていた。工具袋を膝に乗せ、ガルドの言葉を待っている。灯油ランプの光が、二人の間の作業台に散らばった工具を橙色に染めていた。スパナ、ペンチ、旧世界の六角レンチ。ガルドの作業場に並ぶ工具の半分は、この集落に流れ着く前から持っていたものだ。壁際には残殻から取り外した脚部関節が、分解された状態で棚に並んでいる。金属の表面に油が薄く光っていた。
「テオはただの傭兵じゃなかった」
ガルドの声は低く、作業場の壁に吸い込まれるように響いた。その声を聞いた瞬間、カイの背筋が伸びた。ガルドの声は普段、どこか投げやりな軽さがある。だが今夜の声は違う。言葉の一つ一つに重さが乗っている。7年間溜め込んだ重さだ。
炉の中で廃材が爆ぜ、火の粉が一つ飛んだ。
「グランヴェルト工業連盟。聞いたことがあるか」
「鉄殻を作ってるところだろう。灰域にも部品が流れてくる」
「そうだ。鉄殻の設計・製造で最大手の統治機構体だ。テオはそこと傭兵契約を結んでいた」
ガルドは遺灰酒をもう一口飲んだ。瓶が棚に戻る。ガラスと金属がぶつかる、乾いた音。瓶の底に残った琥珀色の液体が、ランプの光を透かしてゆっくり揺れた。
「ただの契約傭兵じゃない。テオはグランヴェルトが進めていたある計画に、深く関わっていた」
カイは黙っていた。灯油ランプの炎が揺れるたびに、ガルドの皺の影が動いた。目尻の深い皺。口元に刻まれた線。44歳の男の顔は、今夜は10年分老けて見えた。
「そしてその計画に反旗を翻した。何かを持ち出して、逃げた」
「何を持ち出したんだ」
「それは、まだ言えない」
ガルドの目がカイを射た。飄々とした普段の目ではなかった。暗い茶色の瞳の奥底が、凍りついている。炉の火が瞳に映り込んで、琥珀色の光が揺れた。
「だが、テオは灰域を守るために動いていた。自分のためじゃない。お前のためでもない。灰域に住む全ての人間のためだ。それだけは信じろ」
カイの胸の奥で、何かが軋んだ。信じろ、と言われても、7年間何も知らされなかった事実は消えない。
「なら、なぜ消えた」
声が自分でも驚くほど硬かった。作業場の空気が張り詰める。炉の火が一瞬弱まり、二人の影が揺れた。
「灰域のためなら、ここにいればよかった。俺と一緒に、ここにいればよかったじゃないか」
ガルドの手が、遺灰酒の瓶を握りしめた。指の関節が白くなる。左手の中指と薬指の火傷痕が、ランプの光に照らされた。あの火傷は、いつ負ったものなのか。カイは初めてそれを問いたくなった。
「……あいつを追う連中がいたからだ」
ガルドの声が、初めて掠れた。煙草を灰皿に押しつけた。火が消え、最後の煙が天井に昇っていく。煙の筋が崩れ、消えた。
ガルドは新しい煙草に火をつけなかった。マッチ箱を手の中で転がしている。
「ここにいれば、お前とこの集落が巻き込まれる。あいつは、お前を守るために消えた」
守るために消えた。
その言葉を、カイは飲み込むのに時間がかかった。守ってくれた。だが置いていかれた。10歳の自分が毎日、集落の外を見つめていた。父が帰ってくる道を見つめていた。朝の霧の中、夕暮れの砂塵の中、嵐の夜でさえ外壁の隙間から闇を覗いた。いつか帰ってくる。明日こそ帰ってくる。あの日々が、「守られていた」時間だったと言うのか。
感謝と怒りと寂しさが同時に押し寄せて、カイは目を閉じた。こめかみの奥で、また鈍い脈動が始まった。冴覚の残滓か、感情の昂りか、区別がつかない。
「なぜ7年も黙っていた」
「お前を戦場に引きずり出したくなかったからだ」
ガルドの答えは即座だった。だがその即座さの中に、長い年月をかけて練り上げられた言い訳の匂いがした。カイはそれを感じ取った。冴覚のせいか、それとも7年間ガルドの隣にいたからか。
嘘ではない。だが全てでもない。隠していることがある。カイには分かった。ガルドの指が遺灰酒の瓶を握る力。目を逸らすタイミング。声の掠れ方。7年間見てきたガルドの仕草が、今夜は全て違って見える。この男は、自分が何を隠しているかを知られていることを、知っている。
だが今夜は、これ以上問い詰める気力がなかった。体が重い。頭の芯に鈍い熱が残っている。
ガルドは遺灰酒を飲みながら、テオとの日々を断片的に語り始めた。声が少しだけ柔らかくなった。酒のせいだけではない。
「灰域を二人で駆け回った。若い頃だ。テオの残殻は俺が手入れしていた。あいつは操縦桿を握るのが好きだった。飯を食うのも忘れて鉄殻に乗り続けるような男だ。俺が引きずり降ろさなきゃ夜通し動力炉を回してた。水も飲まずに操縦桿を握り続ける男だった」
ガルドの声に、久しぶりに柔らかさが戻った。
「テオの笑い方は独特だった。声を出さずに、口角だけ上がる。目が細くなって、皺が増える。お前はあいつに似てる。顔じゃなくて、手だ」
カイは自分の手を見た。指が長い。前腕から手首にかけて腱が浮き出ている。鉄粉と砂が爪の間に入り込んでいる。ランプの光が手のひらの皺を照らす。左の掌に、幼い頃に廃材で切った薄い傷跡がある。工具を握り続けてきた手。父と同じ手。父と同じ癖を持つ手。血が繋ぐものは、こんなところにも宿っているのか。
「あいつは右手の親指を操縦桿の上に乗せる癖があった」
ガルドの目が、カイの右手を見た。炉の火が、カイの指先を赤く照らしている。
「お前もやってるだろう」
カイは息を呑んだ。自分の癖に、今まで気づかなかった。操縦桿を握る時、右手の親指が自然に上面に乗る。教わった覚えはない。父から受け継いだものが、体に刻まれている。7年前に消えた人間の癖が、17歳の自分の指先に残っている。その事実が、胸の奥を温めると同時に、痛みに似た何かを残した。
テオの工具箱が、作業場の隅に置いてあった。ガルドがいつも大事にしている古い金属箱。その中に、カイが見たことのない精密な部品が光っていたことを思い出した。ガルドが「それは、まだ早い」と言って閉じた箱。
「あいつの工具は、俺が全部持ってる」
ガルドは工具箱に手を伸ばし、蓋を撫でた。金属の冷たさが、火傷痕のある指先に伝わっている。箱の角の凹み。使い込まれた金属の表面。ここにもテオの手の跡がある。
「いつか返すつもりだった。返せなくなった」
ガルドの声に、酒では溶かしきれない硬さが残っていた。工具箱から手を離し、遺灰酒の瓶に戻る。もう一口。瓶が軽くなっている。
カイは工具箱を見つめた。古い金属の表面に、幾つもの凹みと擦り傷がある。テオがこの箱を持って歩いた。この箱を開けて、工具を取り出し、鉄殻を直した。父の指がこの金属に触れていた。7年前の指紋が、まだこの表面に残っているのだろうか。
炉の火が弱まってきた。ガルドが廃材を一本投げ入れると、火の粉が舞い上がり、一瞬だけ作業場が明るくなった。二人の顔が赤く照らされ、壁の影が揺れた。
カイは暗い空を見上げた。作業場の天井の隙間から、灰色の夜空が覗いている。星は見えない。雲が厚い。風が作業場の壁を叩き、隙間から冷気が流れ込む。炉の火が揺れた。外では灰域の夜の風が砂を運んでいる。鉄錆の匂い。砂塵の匂い。この集落を包む、いつもの夜の匂い。
父が見た景色は、この空の向こうにある。
カイは立ち上がった。椅子が後ろに軋んだ。
「……行くよ」
カイは呟いた。声は小さかったが、作業場の壁に反響した。
ガルドは遺灰酒の瓶を握ったまま、何も言わなかった。止めなかった。止められないことを、知っている顔だった。炉の火だけが、二人の間で音を立てていた。廃材が燃える低い音と、灰が崩れる音。7年分の沈黙が、その音の中に、ゆっくりと溶けていった。




