最後の通信
ガルドの声がコックピットに入ってくる。
カイは操縦桿を握ったまま、一瞬体が硬直する。ケストレルの通信系統にノイズ混じりの直接通信が割り込んでいる。鋼城の管制システムを経由しない短距離回線。鋼城の内部から、装甲壁を透過して届いている。信号強度は弱かった。だがガルドの声は聞き間違えようがなかった。
「カイ」
「ガルド」
カイは即座に応答する。ケストレルは鋼城の外壁から150メートルの位置にいる。暴走したセンチネル・ドールの残骸が周囲に散らばっている。制御を失った歩哨ドールが無差別に砲撃を開始し、カイとリオンが処理した直後だった。ケストレルの装甲に40mm弾の擦過痕が3本走っている。右脚のサーボモーターが異音を発している。
鋼城が傾いている。
六脚のうち少なくとも2脚が停止しているのが外からでも分かった。巨体が右に傾き、装甲壁の表面から固定されていなかった資材や機材が落下し始めている。3.2キロメートルの巨体が、ゆっくりと崩れかけている。
「聞こえるか」
ガルドの声には疲労があった。だが落ち着いている。作業場で工具の整理をしている時と同じ声だった。ラストヘイムの工房で、カイが持ち込んだ残殻の部品を広げながら、「どこが壊れた」と訊く時の声と同じ温度だった。
「聞こえてる」
「接続者は全員解放した。ユリアが連れて出ている。ラースも歩けている。ミーナは意識がないが、脈はある。6人とも、生きている」
「分かった」
「それから、接続回路の制御基盤は壊した。もう修復できない。鋼城が残っても、この中枢で人間を繋ぐことはできない」
カイは頷く。通信の向こうに頷きは伝わらない。だが声が出なかった。ガルドの声の調子が、報告だった。任務を終えた人間が、結果を伝えている。やるべきことを全部やった人間の声だった。
そして。
「お前の親父に、ようやく顔向けができる」
カイの呼吸が止まった。
操縦桿を握る指が、白くなるまで食い込んだ。ヘルメットの中で自分の呼吸音だけがやけに大きい。
ガルドの声が穏やかすぎる。皮肉がない。軽口がない。こんなガルドの声を、カイは聞いたことがなかった。
「待て」
カイの声が裂ける。
「出てこい。まだ間に合う」
「間に合わない」
ガルドの声は静かだった。
「中枢区画から鋼城の外壁までの通路が3箇所で崩壊している。第2区画の回廊は天井が落ちた。第6区画は通れない。ユリアたちが使ったルートも、もう塞がっている。ユリアたちが通過した直後に、天井の梁が落ちた。俺が見送ってから、5分も経っていない」
「別のルートがある。整備用通路がまだ残ってるかもしれない。鋼城の設計を知ってるだろう。お前なら見つけられる」
「見つけた。3本あった。全部、崩れた」
カイの歯が噛み合った。奥歯が軋む音が頭蓋骨に響く。
「俺が行く。ケストレルで外壁を壊して、中まで」
「やめろ」
ガルドの声が初めて強くなった。
「ケストレルで装甲壁を貫通させる気か。あの装甲は75mmじゃ抜けない。無理に突っ込めばケストレルが潰れる。お前ごとな」
「それでも」
「聞け、カイ」
ガルドの声が戻った。強さが消える。穏やかさだけが残った。その穏やかさがカイの胸を刺す。怒りなら返せる。命令なら反論できる。だが穏やかさには何も返せなかった。
カイの脳裏に、ラストヘイムの工房が浮かんだ。油と金属粉の匂い。棚に並んだ精密工具。ガルドが煙草を咥えながらリレー素子の図面を広げている背中。カイが10歳の時、父が帰ってこなくなってから、あの工房がカイの居場所だった。ガルドは何も言わなかった。「お前の親父のことは知らない」とも「大丈夫だ」とも言わなかった。ただ工具を渡して、「ここのボルトを締めろ」と指示した。カイの手が何かを作っている間だけ、父のことを忘れられた。ガルドはそれを知っている。だからカイに工具を握らせた。7年間ずっと。
「だがな、カイ」
ノイズが走った。ガルドの声が遠くなり、また近づく。
「お前は間に合った」
「何が」
「お前は、親父と同じ道を選ばなかった」
カイの手が震えた。操縦桿を握る手が震えている。右手の痺れが手首から肘に広がっている。冴覚のせいではなかった。体が震えているのだ。
「テオは鋳脈を受けた。俺が施した。テオの体は壊れた。テオの息子のお前にも、同じ選択が来た。鋳脈を受けるか、受けないか。お前は受けなかった」
「それは」
「鋳脈なしで、ここまで来た」
ガルドの声が、微かに揺れた。ノイズではない、とカイは思った。
「残殻に乗って。冴覚だけで。鋳脈も遊肢もなしで、鋼城の前まで来た。テオにはできなかった」
カイは声が出なかった。
コックピットの中で、涙が落ちる。計器パネルの上に、一滴。ヘルメットのバイザーの内側に、水滴が張りついている。
「それだけで十分だ」
ガルドの声が小さくなっている。鋼城が軋むたびに、声が削られていく。
「ガルド」
カイは叫んだ。
「出てこい」
「カイ」
「出てこい。頼むから」
「ケストレルを頼んだぞ。お前の親父の機体だ。俺が鋳脈を外して、お前に合うように直した。あの機体は、お前のために作り直した最後の仕事だ」
「そんな話をするな。今するな」
「工具はラストヘイムの工房の棚の3段目だ。全部使え。精密ドライバーの2番は先が減ってるから、削り直してから使え」
カイの視界が歪んだ。涙が止まらなかった。バイザーの内側が曇っている。計器の数字が読めなくなっている。
「やめろよ」
カイの声が掠れる。
「帰ってきて、自分で使えよ。あの工具は、お前のだろう」
通信のノイズが激しくなった。ガルドの声が遠くなった。だが最後の言葉は聞こえる。
「ガルド」
「いい子だったよ、カイ」
通信が途切れる。
ノイズが消える。ガルドの声が消えた。コックピットの中に残ったのは、ケストレルのエンジン音と、カイ自身の呼吸音と、嗚咽だけだった。
ヘルメットの中で叫んだ。
声になっていなかった。喉の奥から出た音は言葉ではなかった。ガルドの名前を呼ぼうとしたのかもしれない。父の名前を呼ぼうとしたのかもしれない。何も呼べなかった。ただ音が出る。喉が裂けそうな音だった。
コックピットの壁を拳で叩く。左手で。操縦桿を握る右手は離せなかった。離したら、全部が止まる。自分が止まる。だから右手だけは操縦桿に残す。左手で壁を叩く。1回。2回。3回。拳の皮が裂けたかどうか分からなかった。手の感覚が消えている。
涙が計器パネルに落ちる。速度計の表示窓に涙が溜まり、数字が歪んで見える。
通信を呼び直す。
直接通信の周波数に合わせる。ノイズだけが返ってくる。もう一度。周波数を微調整する。ノイズ。ガルドの声はなかった。鋼城の装甲壁の内側から、もう何も届かなかった。
カイは通信機のスイッチを握ったまま、30秒間動けなかった。
ガルドがいない。
工房にいない。棚の前にいない。煙草を咥えて図面を広げている背中がない。カイがどんなに壊れた部品を持ち込んでも、「見せてみろ」と言って手を伸ばしてくれた人がいない。父が消えた時、ガルドがいた。ガルドが消えた今、誰がいる。
操縦桿を握る右手の指先が白かった。爪が掌に食い込んでいた。
通信が入った。
別の声だった。
「カイ」
リオンの声だった。
カイは答えられなかった。
「カイ、ドールが来る」
モニターの端に、動くものが映った。鋼城の装甲壁の裏側から、ケーファー・ドールが2体、這い出してくる。制御を失った鋼城から放出されたドールだ。味方識別が機能していない。目についたものを撃つ。
カイは歯を食いしばった。
涙が止まらなかった。バイザーの内側が曇ったままだった。計器の数字は読めなかった。
だが手は動く。
右手が操縦桿を引く。左手がスロットルに伸びる。拳の皮が裂けている感触があった。構わなかった。ケストレルの脚部が地面を蹴り、機体が前に出る。サーボモーターの異音が響いたが、脚は動く。FALKEの照準がケーファーの頭部に合った。涙の向こうに、敵機の輪郭だけが見える。
引き金を引いた。




