ヴィルヘルムの声
通信機がノイズを吐く。
ガルドはハンマーを止める。配電盤の制御基板は半分以上が砕けている。端子の残骸が足元に散らばり、ケーブルの断面から微かに煙が立っている。あと数分で接続回路の復旧は不可能になる。
ノイズの波形が変わった。
先ほどのヘルガとの通信は鋼城内部の直接回線だった。今の信号は違う。外部からの入力。鋼城の管制システムが死んでいるにもかかわらず、この通信が中枢区画まで届いている。指揮官専用回線。管制が死んでも最後まで届くたった1本の生き残り——30年前、設計図でこの線を見た。
「ガルド」
声が聞こえる。
ノイズの向こうから、低い声が中枢区画に響く。抑揚のない声だった。20年前から変わらない。その声を聞いた瞬間、ガルドの右手がハンマーを握り直す。
「聞こえているか」
「聞こえている」
ガルドはハンマーを右手に持ったまま答える。通信機をベルトから引き抜く必要はなかった。司令塔の専用回線は中枢区画のスピーカーに直結している。ガルドの声も、区画内のマイクが拾っている。
「接続者は全員切断した。制御基盤を壊している」
「知っている」
ヴィルヘルムの声は平坦だった。ガルドの行動を非難する調子はなかった。
「お前が来ることは分かっていた」
「止めなかったな」
「止める意味がなかった。接続者を守るために兵を中枢に送れば、その分外の防衛が薄くなる。カイ・セヴァルとリオン・アスフォードの部隊が外壁を突破した時点で、お前の侵入は時間の問題だった。兵力の配分は合理的に行った。結果として、お前がここに辿り着いた。それだけだ」
ガルドは黙って聞く。この男は嘘をつかない。
鋼城が揺れる。
床が15度傾き、ガルドの体が壁に押しつけられる。天井から金属粉が降り、スピーカーにノイズが走った。六脚の歩行が完全にバランスを失っている。24人の鋳脈者を失った鋼城は、もはや自重を支えることすら危うかった。
ヴィルヘルムの声が続く。揺れの中でも、声の調子は変わらなかった。
「ガルド。お前は何も変えられない」
ガルドはハンマーを配電盤の脇に置く。
「鋼城を一つ壊しても、次が作られる。グランヴェルトには設計図がある。イグニス・コンバーターは回収できなくとも、鋳脈の技術は残る。お前がここで壊した接続回路は、3年もあれば再設計できる。お前自身が一番よく分かっているはずだ。お前が設計した技術だからな」
否定できなかった。
ガルドは配電盤の残骸を見下ろす。自分が今砕いた基板の回路パターンは、30年前に自分がドラフトを引いたものの改良版だった。端子の配置。リレー素子との接続規格。全てがガルドの設計を踏襲している。壊しているのは、自分が作ったものだ。そして、ヴィルヘルムの言う通り、作った人間がいる限り、また作れる。
「人間は抑止力なしには殺し合いを止められない」
ヴィルヘルムの声には確信があった。演説ではなかった。信念だった。
「大崩落を見たはずだ、ガルド。お前も、テオも、私もいた。あの時何が起きた。旧世界の秩序が崩壊し、抑止力が失われ、全てが壊れた。鋼城はその再発を防ぐための装置だ。大きすぎるから壊せない。壊せないから秩序が保たれる。鋳脈者は犠牲だ。だが彼らの犠牲で、数百万の人間が殺し合わずに済んでいる」
「その理屈は聞いた」
ガルドの声は静かだった。
「30年前にも聞いた。テオの処置をした時にも。鋼城計画の設計図を見た時にも。お前はいつも同じことを言った。少数の犠牲で多数が生きる。数字で示せ。感傷では人は救えない」
「変わっていないからだ。人間が変わっていない」
ヴィルヘルムの声に苛立ちはなかった。疲れているように聞こえた。気のせいかもしれなかった。
「お前が接続者を6人解放した。あの6人はどうなる。灰域に戻るのか。灰域で何ができる。接続の後遺症を抱えて、まともに歩けるかも分からない体で。お前はあの6人を救ったつもりかもしれないが、あの6人はこれから灰域の過酷な環境の中で、壊れた神経を抱えて生きていくことになる」
ガルドは壁から背中を離す。
鋼城の揺れが収まっている。六脚の1本が完全に停止したのだろう。残りの5脚で姿勢を維持しようとしている。だが5脚での協調歩行は設計の想定外だ。長くは持たない。
「かもしれない」
ガルドは言った。
「お前の言う通りかもしれない。鋼城を壊しても次が作られる。あの6人が灰域で苦しむかもしれない。人間は抑止力がなければ殺し合うかもしれない。全部、お前の言う通りだ」
ガルドは足元に散らばった基板の破片を踏んだ。靴底で金属の欠片が砕ける小さな音がする。
「だが、あの子たちを今ここから出す。それが俺にできることの全てだ」
ヴィルヘルムの沈黙が長かった。
通信のノイズだけが中枢区画に響いている。低い、断続的なノイズ。鋼城の構造が軋む音と、スピーカーの電子音が混ざっている。
「論理ではないな」
ヴィルヘルムが言った。
「ああ。論理じゃない」
「テオも、そうだった」
ガルドの手が止まった。
ヴィルヘルムがテオの名を口にするのを聞いたのは、20年ぶりだった。ヴィルヘルムにとってテオは「設計データを持ち出して逃亡した契約傭兵」であり、それ以上でもそれ以下でもないはずだった。だがヴィルヘルムの声に、微かな屈折があった。名前を呼ぶ時にだけ現れる、ほとんど聞き取れないほどの揺らぎ。
「テオ・セヴァルは優秀な操手だった。冴覚と鋳脈の適性が共に最高値。あれほどの人材は二度と現れない。だがテオは最後に、論理ではなく感傷で動いた。息子を守るために設計データを持ち出し、逃げた。その結果、鋼城計画は5年遅延し、その5年の間に灰域で3つの集落が戦闘で壊滅した。テオが論理で動いていれば、あの3つの集落は存続していたかもしれない」
「テオを引き合いに出すな」
ガルドの声が低くなった。
「テオはお前の駒じゃない。あいつは自分で選んだ。息子を選んだ。それを数字で量るな」
「量らなければ、次に何人死ぬか分からない」
ヴィルヘルムの声が静かに返った。反論ではなかった。嘆きに近かった。
鋼城が大きく揺れる。
床の傾きが戻らなかった。右に20度。天井の照明が消え、非常灯の赤い光だけが中枢区画を照らす。壁の配管から蒸気が噴き出し、高温の白い霧が視界を遮った。ガルドは口元を手で覆い、蒸気の中で目を細める。
ヴィルヘルムの声が最後に聞こえる。
「イグニスを知ったあの日から、人類は後戻りできなくなった」
ノイズが激しくなった。声が遠くなっていく。司令塔の専用回線すら、鋼城の構造崩壊に耐えられなくなっている。
「ガルド。旧友。お前は間違っている」
通信が途切れる。
ノイズすら消える。スピーカーが沈黙し、中枢区画に残ったのは、鋼城が崩壊していく音だけだった。金属が軋み、構造材が折れ、蒸気が噴き出す音。3.2キロメートルの巨体が、自分の重さに耐えられなくなっていく音。
ガルドは通信機をベルトから外す。
ヴィルヘルムの専用回線ではなく、外部直接通信に切り替える。鋼城の管制システムを経由しない、短距離の直接通信。中枢区画から鋼城の外壁を透過して届く距離は限られている。だが、鋼城の外にいるはずの人間は、鋼城の装甲壁から200メートル以内にいるはずだった。
ガルドは通信機のスイッチを入れる。
「カイ」




