壊れた残殻
リオンが去り、コルヴァスが撤退した翌日。
カイは壊れた残殻の前に立っていた。
左腕はなかった。肩関節の付け根から先が、遊肢の射撃で砕かれている。破断面の金属が鋭く突き出し、内部の配線が乾いた風に揺れていた。断面に指で触れると、金属の冷たさの奥に、焼け焦げた樹脂の匂いがした。高温の砲弾が金属を貫いた痕跡だ。右脚の膝関節は、外装パネルがひしゃげて内部フレームが露出している。触れると、軸受けが嫌な音で軋んだ。あの20年前の量産型から引き抜いた中古品。カイが朝から削り直した部品。それが、限界を超えていた。
装甲健全度は赤と黄色の点灯だらけだ。胴体装甲の3枚のうち、もう1枚が欠けた。2枚しかない。残った装甲にも亀裂が走り、指で叩くと鈍い音がした。金属疲労が進んでいる。次の衝撃で割れる。
朝の空気は冷えていた。秋が深まっている。吐く息が白くなりかけている。砂と鉄錆の匂いに、朝露が湿った土の匂いが混じっていた。指先が悴んで、金属に触れると余計に冷たさが染みた。遠くから木槌の音が聞こえる。集落の誰かが、壊れた外壁の修復を始めている。その音に混じって、子供の声が聞こえた。怯えの残る声。昨日までとは違う朝の音だ。
ガルドが黙って残殻の前にしゃがみ込んだ。赤葉の煙草を咥え、左手の火傷痕のある指で関節部を触診する。金属の表面を爪で引っ掻き、接合部に耳を近づけ、指先で内部の応力を推し量る。「骨を読む」。技匠の基本技能だ。関節部に頬を寄せ、目を閉じ、指先の感触だけで内部の状態を把握していく。ガルドの火傷で鈍くなった指先が、それでも金属の声を聞き分ける。
長い沈黙の後、ガルドは立ち上がった。膝の砂を払い、煙草を一度深く吸った。
「直せるが、時間がかかる。部品も足りない」
煙草の灰を落とす。灰が風に散った。
「正直に言えば、この機体はもう限界だ」
カイは残殻の胴体に手を触れた。鉄の冷たさが掌に伝わる。朝の冷気を吸った金属は、指の熱を奪う。この機体は寄せ集めだった。左腕は別の機体から移植し、胴体装甲は欠けたまま。関節のあちこちに錆苔がこびりついている。コックピットのシートは破れた箇所を布で繕い、操縦桿のグリップは摩耗して樹脂の地が見えている。まともな鉄殻とは呼べない。それでもカイの全てだった。この機体で廃材を運び、野犬を追い払い、集落の外縁を巡回してきた。
カイは残殻のコックピットを覗き込んだ。シートの革が裂けている箇所に、昨日の戦闘で飛んだ破片が刺さっていた。あと少しずれていたら、カイの腿に刺さっていた。装甲が薄い。コックピットの防護が足りない。頭では分かっていたことが、体で理解できた。
「あの遊肢の前じゃ、何もできなかった」
カイは呟いた。声が乾いていた。朝の冷気が喉を刺す。
「冴覚で読めても、機体が追いつかない。先が見えても、体が動かなきゃ意味がない」
ガルドは何も言わなかった。煙草の煙を吐き、壊れた残殻を見つめていた。操縦桿の振動が伝わる手。計器が叫ぶ前に体が反応する感覚。それと、現実に追いつかない機体の限界。その間に挟まれた絶望を、ガルドは知っている。かつてテオも同じことを言ったからだ。
ガルドの目が、一瞬だけ遠くなった。過去を見ている目だ。この目を、カイは何度か見たことがある。テオの話題が出た時。工具箱の蓋を撫でている時。遺灰酒を飲みすぎた夜、作業場で一人のガルドの横顔。あの時も、こんな目をしていた。
カイはそれに気づいたが、今は問わなかった。問えば、ガルドは答えない。それも7年間で学んだことだ。
* * *
クレアの診療所に戻った。
消毒液の刺すような匂いが鼻をつく。朝でも薄暗い部屋の中、灯油ランプの黄色い光が壁の棚を照らしている。瓶詰めの消毒液が光を反射し、琥珀色に揺れていた。
クレアはカイの頭部を改めて診察した。ペンライトで瞳孔を確認し、指でこめかみを触れ、反射テストを行う。冷たい指が額に触れるたびに、カイの五感が微かに跳ねた。まだ過敏だ。
「頭痛はまだある?」
「鈍いのが残ってる」
「それが冴覚の残滓よ。昨日の使用分が、まだ脳に負荷として残っている」
クレアは丸眼鏡を押し上げ、カルテに何かを書き込んだ。ペンが紙を引っ掻く乾いた音がする。灰域の診療所にカルテがあること自体が、クレアの几帳面さを物語っている。棚に並んだカルテの束。何年分あるのか。この集落の住民の体の記録が、全てここにある。
「次に使う時は、もっと意識的に制御しなければ壊れる。発動の兆候を感じたら、意図的に深呼吸して脈拍を落とせ。冴覚は脳の過負荷だ。心拍を下げれば、脳への血流量を抑えられる」
クレアの声は淡々としていた。だが、その「淡々」の裏に、何かを必死に押し込めているような硬さがあった。包帯を巻く左手の曲がった薬指が、微かに震えている。
「冴覚って、何なんだ」
カイは改めて尋ねた。クレアが昨夜語った断片を、もう一度整理したかった。
「一部の人間が持つ、五感を超えた知覚能力」
クレアはカルテから目を上げた。丸眼鏡の奥の暗い灰色の瞳が、カイを真っ直ぐに見た。
「先天的な素養と、極度のストレスで発現する。脳の情報処理が通常の数倍速で行われて、無意識下の微細な情報を統合する。空気の流れ、機械音の変化、相手の呼吸パターン。それを直感的な判断に変換する」
「超能力か」
「違う」
クレアの声が即座に返った。断定的な声。これについては、曖昧さを許さない口調だった。
「人間の感覚器官が極限まで研ぎ澄まされた状態。超常現象じゃない。脳が持つ潜在的な処理能力の、異常な解放。発現率は極めて低い。世界に数百人いるかどうか」
クレアは一拍置いた。椅子の上で姿勢を正し、声のトーンを変えた。
「セルヴィスが冴覚持ちをどれほど渇望しているか、あなたには想像もつかないでしょう。冴覚に加えて鋳脈を施せば、最強の操手になる。セルヴィスにとって、あなたの冴覚は金の卵よ。気をつけなさい」
金の卵。
その言葉が、消毒液の匂いの中で重く響いた。カイの中で、リーヴの穏やかな声が蘇った。「セルヴィスに来い。お前の力は灰域で腐らせるには惜しい」。あの言葉の意味が、今になって重みを増す。あの穏やかな声の裏にあった圧。カイの冴覚を知った上での、品定めの目。
カイは自分の手を見つめた。工具で鍛えられた手。爪の間に黒い汚れが染みついている。鉄粉と砂と錆の手。前腕から手首にかけて腱が浮き出ている。この手に宿っているものが、あの巨大な組織に狙われる価値を持つ。
ガルドが診療所の入り口に立っていた。腕を組み、壁に背をつけている。赤葉の煙を吐いた。煙が天井に漂い、消毒液の匂いと混じる。苦い煙と薬品の匂いが重なって、診療所の空気が一段重くなった。
クレアとガルドの目が合った。一瞬の沈黙。クレアの曲がった薬指が、ペンを強く握りしめた。ガルドは目を逸らした。暗い茶色の瞳が、壁際の棚のカルテの束に一瞬だけ止まった。
加害者同士の沈黙。カイにはそう見えた。鋳脈という技術の両面に関わった二人。ハードウェアを作った男と、その医療面を担った女。二人がこの集落で顔を合わせている理由を、カイはまだ知らない。
だが今は問わない。
夜になった。
ガルドの作業場で、二人は壊れた残殻の右脚関節を分解していた。ガルドがスパナで固着したボルトを回し、カイが外装パネルを支える。金属が軋む音。油の匂い。作業場に充満する金属粉の匂いが、鼻の奥にまで染みている。
ガルドが作業を中断し、カイを見た。炉の火が二人の顔を照らす。炉の中で燃える廃材が爆ぜ、火の粉が散った。赤い光がガルドの深い皺を照らし出す。
「カイ。お前の親父の話を、そろそろしなきゃならん」
火の粉が夜空に舞い上がった。ガルドの顔は、今まで見たどの表情よりも老けていた。皺が深く刻まれた顔に、疲労と覚悟が同時に浮かんでいた。煙草の先端が赤く光り、闇の中でゆっくりと灰に変わっていく。その赤い光が、ガルドの暗い茶色の瞳に映り込んでいた。




