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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
残鳴の先へ

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|鋼城《こうじょう》の内側

整備用ハッチの内側は暗かった。

 ガルドは片手でペンライトを握り、もう片方の手で通路の壁面を伝いながら歩く。ハッチを閉めた瞬間に外の戦闘音が遠ざかり、代わりに鋼城の内部から伝わる低い振動だけが残った。6本の脚が大地を踏む振動。それが足裏から脛骨を登り、骨盤を伝って胸骨に届く。鋼城の歩行が生身の骨に響いている。

 整備通路は幅1.2メートル、天井までの高さは2メートルに満たない。鉄殻ではなく人間が通ることを前提に設計された空間だった。壁面は灰色の鋼板で覆われ、等間隔に番号が刻印されている。旧世界の区画コードだ。指先で刻印の溝をなぞると、30年前と同じ深さだった。書体まで変わっていない。

 ガルドの足音だけが通路に響く。

 靴底が金属の床を踏むたび、くぐもった反響が通路の先に吸い込まれていく。ペンライトの光が壁面を滑り、配管の影が奥に向かって延びている。天井に沿って走る配管のフランジボルトに指先が触れると、ねじ山の感触がひっかかった。旧世界の規格だ。グランヴェルトの規格とは微妙に違う。30年前に自分が選んだボルトだった。

 旧世界が作った通路だった。

 鋼城の外殻、動力系統、武装。それらは全てグランヴェルトの技術者が設計している。だがこの整備通路だけは違う。旧世界の研究施設から回収された設計図をほぼそのまま転用している。壁面の鋼板の厚さ、通路の幅、天井の高さ。全てが旧世界の工業規格に準拠している。ヴィルヘルムが鋼城を建造した際、内部の整備通路だけは旧世界の設計をそのまま使った。外殻も武装も俺たちが描いたが、この通路の図面だけは1本も引き直せなかったのだ。

 ペンライトの光が壁面の刻印をひとつずつ照らしていった。C-01、C-02。区画コードが通路の進行方向に沿って番号を増やしていく。ガルドは足を止めずに番号を読み取った。現在地を把握するためではなく、30年以上前の記憶を確認するためだ。記憶の中の通路と目の前の通路が一致していることを、ひとつひとつの番号で確かめている。

 床面には汚れがあった。

 油の染みだった。作動油が漏れた痕跡だ。古い染みの上に埃が積もり、その上にまた新しい油滴が落ちている。何年も同じ場所が漏れ続け、誰も直していない。だが技匠の目には見過ごせない不具合だった。ガルドの指がツールベルトのレンチに触れる。直したい衝動を抑えた。今はそれどころではない。


 通路が分岐する。

 左は動力区画に向かう主通路、右は排気系統の点検路だ。ガルドは迷わず左を選んだ。30年以上前にこの場所を歩いた時の記憶が足を導いている。

 鋼城計画の初期段階。ガルドはまだグランヴェルトの技術者だ。鋳脈のリレー素子の設計を担当し、鋼城の神経系統を構築する中核メンバーの一人だった。この通路を何度も歩き、整備通路の壁面に手を当てて配管の配置を確認し、ケーブルの取り回しを検討した。あの頃のガルドは自分が設計しているものが何をもたらすのか、まだ理解していない。

 壁面に手を触れる。

 金属は冷たかったが、その奥に微かな熱があった。通路の鋼板を透過してくる熱。機関部の排熱ではない、もっと深い場所から伝わる低い温度の熱だった。鋼城の胎内で何かが脈打っている。ガルドには冴覚がなく、イグニスの圧を感じ取る能力もない。だがこの熱だけは技匠の指先が拾い上げた。金属の温度を読むことは技匠の基本だった。

 通路が下り勾配に変わった。

 鋼城の外殻から内部に向かって緩やかに降りていく。天井の配管が太くなり、本数が増える。冷却系の配管が左側壁面を埋め尽くし、右側壁面にはケーブルの束が鉄製のラックを埋めていた。

 歩き続けた。

 通路は真っ直ぐで、前方にも後方にも人の気配はない。整備通路は無人になるよう、自分がそう設計したからだ。


 * * *


 振動が変わった。

 六脚歩行のリズムが微かに乱れる。鋼城の脚の1本が地形の起伏を踏んだのかもしれない。その揺れが通路全体を揺さぶり、ガルドの体は壁面に傾いて肩が鋼板にぶつかった。衝撃は軽いが、鋼城の質量から生まれる揺れには人体の筋力では抗えなかった。

 3.2キロメートルの鉄の塊が歩いている。

 その中にガルドは一人でいる。

 足元の振動が骨を伝う。膝が、腰が、肋骨が鋼城の歩行を受け止めている。鉄殻に乗っている時とは違う振動だった。鉄殻のコックピットには緩衝機構があり、操手の身体を揺れから守る設計になっている。だが整備通路にはそれがない。鋼城の歩行振動がそのまま人体に伝わり、内臓が揺れる感覚があった。

 煙草が吸いたかった。

 胸ポケットに箱がある。いつもなら無意識に手が伸びているが、ここでは火を使えなかった。鋼城の内部には可燃性の作動油と潤滑油が充満しており、整備通路は換気が限られているため、火花一つで大事になりかねないからだ。ガルドは胸ポケットの箱の感触だけを確認して手を戻した。

 煙草の代わりに鋼城の匂いを吸い込んだ。金属と油と、微かに甘い匂い。冷却水に添加された防錆剤の匂いだ。旧世界のレシピで調合されたもので、この匂いも30年前と同じだった。鋼城計画の試作段階で、ガルドはこの匂いの中で毎日作業をした。配管の接合テスト、ケーブルの導通チェック、リレー素子の動作試験。あの頃はテオがまだ隣にいた。彼が煙草を嫌がるので試作棟の中では吸わないようにしていたが、テオがいなくなってからガルドは場所を選ばずに吸うようになった。

 深部に進むにつれ、空気が変わった。

 温度でも湿度でもなく、言葉にできない何かが空気に混じっていた。ガルドの肺が無意識に吸い込む量を減らし始め、呼吸が浅くなっていた。

 ガルドには冴覚がなく、イグニスの圧など生まれてこのかた感じたことがなかった。

 だがこの空気は重かった。

 胸の奥に沈むような圧迫感があり、息を吸うたびに肺の底へ沈澱物が溜まるような感覚がある。冴覚ではない、もっと原始的な何かだった。洞窟の奥に何かがいると感じる時のあの本能的な警戒だ。ガルドの体が鋼城の深部に潜む何かに反応している。

 イグニス・コンバーター。

 鋼城の最深部に安置された旧世界の遺物。あの装置が稼働し、周囲にイグニス場が形成されている。冴覚を持たない人間でも、ここまで深く入り込めば影響を受けるのだろう。ガルドはそう推測した。原理を知らないため推測しかできない。旧世界の技術者でさえ完全には理解できなかったものを、ガルドが理解できるはずもなかった。

 足を止めなかった。

 呼吸は浅く胸は重いが、足は止めない。ここまで来るのに30年以上かかった。テオが消え、カイが育ち、自分が設計した技術が人間を繋ぎ止める鎖になった。その鎖を断ち切りに来たのだ。

 ツールベルトの工具が歩くたびに微かに揺れる。精密ドライバー、ヘキサゴンレンチ、ニッパー、ケーブルカッター。鋳脈のリレー素子を解除するために必要な工具を全て持ってきていた。自分が設計したロック機構であり、解除手順は誰よりも知っている。設計者にしかできない精密な手技で一人ずつ外すのが、ガルドの仕事だった。

 通路の先が暗かった。

 ペンライトの光が届く範囲の先に壁面の番号が見える。C-14区画。医療区画に隣接する通路だ。鋳脈接続中枢まであと3つの区画。

 ガルドは歩き続けた。


 その時、通路の奥から音が聞こえる。

 声だった。

 人間の声だった。言葉にならない、低く引き延ばされた呻き声だ。通路の壁面に反響し、輪郭を失いながらガルドの耳に届く。

 ガルドの足が止まった。

 呻き声がもう一度聞こえる。痛みの中にいる男の声だった。助けを求めているのか、ただ痛みを吐き出しているのかは判別できない。声は壁と配管に反射して正確な発生源は分からないが、方向は分かった。鋳脈接続中枢の方向だった。

 あの声は接続者のものだ。

 24人の鋳脈者が拘束され、後頭部からケーブルで鋼城に繋がれている。意識が朦朧とし、痛みだけが鮮明な状態で鋼城の動力源として使われている。あの呻き声はその中の一人が漏らしたものだった。

 呼吸は浅い。胸は重い。指が一度だけペンライトの表面を滑り、ガルドは握り直した。

 呻き声が三度目に聞こえた時、ガルドは歩き始めた。

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