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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄錆の邂逅

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軍人の選択

リオンが集落の中を歩いてきた。

 軍服の裾が風に揺れている。灰青色の制服は砂埃で汚れ、右腕の包帯が痛々しい。だが背筋は真っ直ぐだった。磨かれたブーツが砂を踏む音だけが、妙に規則正しく聞こえる。軍人の歩き方だ。カイはガルドの作業場の前で、壊れた残殻(ざんかく)の部品を布に包む手を止めた。油のついた布が手のひらに張りつく。


 集落の広場では、マーサが怯える子供たちを抱きしめていた。白髪を丸く結い上げた小柄な老女の腕が、3人の子供をまとめて包んでいる。手編みのマフラーが風に揺れ、子供の頬を撫でた。ゲオルグが住民に「大丈夫だ」と声をかけ続けている。68歳の大男の右頬の火傷痕が、夕陽に照らされていた。引き攣れた皮膚の上を、橙色の光が滑る。懐中時計を握る左手が、いつもより強く握りしめられていた。

 夕陽が灰域(アッシュランド)の空を染めていた。灰色の雲の裂け目から差す光が、瓦礫の上に長い影を落としている。砂と鉄錆の匂いに、どこかの家から焚き火の煙が混じっていた。

 リオンはその光景を見渡した。深い紺色の目が、一人一人の顔を辿っていく。怯える子供。柵を直す老人。瓦礫を運ぶ若者。200人の集落が、壊された日常を懸命に繕おうとしている。


「カイ・セヴァル」


 リオンがカイの前に立った。

 二人の距離が、初めて2メートルを切った。リオンの影がカイの足元に落ちている。消毒液の匂いが微かに漂う。クレアの診療所の匂いだ。それに混じって、セルヴィスの軍服が帯びている微かな機械油の匂い。カイの世界にはない匂いだった。

 リオンの顔が近い。色白の肌に、数日分の砂埃が薄く積もっている。灰域(アッシュランド)に来る前は、こんな肌ではなかったのだろう。

「コルヴァスに合流する」

 リオンの声は平静だった。軍人の声だ。

「私が出れば、この集落にはもう手を出さない。リーヴはそう約束した」

 カイは何も言わなかった。リオンの目を見つめた。紺色の瞳の奥に、何かが揺れていた。あの冷たい軍人の表情ではない。砕けかけた氷の下に、熱が透けている。


「……あなたたちを見捨てたのは、私たちだ」

 リオンの声が、僅かに震えた。敬語が崩れかけている。それが「本音のリオン」の合図だと、カイはまだ知らない。

統治機構体(とうちきこうたい)が管区を作り、灰域(アッシュランド)を見捨てた。あなたたちを無籍民にした。鉄殻(てっかく)を持つ側が、持たない側を切り捨てた。それは――私たちの罪だ」

 カイの喉が詰まった。この女が何を背負っているのか、この数日の滞在で断片的に感じていた。参謀長の娘。セルヴィスの少尉。灰域(アッシュランド)を「不安定要素」と教わって育った人間。それが今、目の前で「私たちの罪」と言っている。

 風がリオンの黒髪を揺らした。うなじの高い位置で結んだ髪が、頬にかかる。夕陽がリオンの横顔を照らし、色白の肌に影を落とした。紺色の瞳が濡れている。泣いているのではない。光の加減だ。だがその瞳に映っているのは、カイではなく、この集落の全てだった。崩れた壁。修復に追われる住民。泣き止んだ子供の顔。

「でも、私は」

 リオンの声が途切れた。唇が震える。右手の甲に、訓練中の火傷痕が夕陽に照らされていた。

「もう見捨てない」

 その言葉が出た瞬間、リオンの目が揺れた。自分の声に驚いたように。何を言っているのか、自分でも分かっていないのだろう。だが口をついて出た。その言葉は、この数日間で見たもの全てが押し出したものだった。壊れた水道管を直す少年の手。灰色のパンを分け合う食卓。焚き火を囲んで語られる旧世界の話。

 カイは、何も言えなかった。言葉が見つからないのではなく、言葉にしてしまえば壊れる何かがあった。


 リオンはカイに背を向けた。一歩。二歩。足音が、砂を踏む乾いた音を立てる。カイはその背中を見つめた。灰青色の軍服。真っ直ぐな背筋。うなじの高い位置で結んだ黒髪が、風に揺れている。肩が微かに強張っている。振り返りたいのを堪えているのが、背中越しに伝わった。

 ゲオルグが去っていくリオンの背中を見て、呟いた。

「あの子は、自分の信じるものが壊れた顔をしていた」

 カイは何も言えず、ゲオルグの横顔を見た。火傷の引き攣れた右頬。左耳の欠損。大崩落(ダウンフォール)を生き延びた老人は、全てを見てきた目で、若い軍人の背中を見送っていた。



 * * *



 カイはリオンがポラリスのコックピットに乗り込むのを見上げた。

  鉄殻(てっかく)の足元から見上げるポラリスの全容は、改めて見ると威圧的だった。残殻(ざんかく)とは装甲の滑らかさからして違う。薄いのに隙がない。楔形の胸部装甲が弾を逸らすための角度で傾き、関節部の可動域を覆うカバーの精度が桁違いだった。排気口の位置の合理性。全てが、この機体を作った組織の技術力を物語っている。リオンはあの中に帰っていく。あの精密な箱の中に。

 ハッチが閉まる。金属が噛み合う音が、乾いた空気に響いた。薄く鋭い装甲が、リオンの姿を飲み込む。

 起動シークエンスの低い唸りが始まった。機関が温まっていく振動が、地面を通じてカイの足裏に伝わる。安全靴の底を通しても分かる、規則正しい脈動。セルヴィスの鉄殻(てっかく)は、起動音からして残殻(ざんかく)とは違う。雑音がない。精緻な歯車が噛み合うような、澄んだ振動だった。

 カイが応急修理した左脚関節が、ゆっくりと動き始めた。保つか。保ってくれ。あの関節には灰域(アッシュランド)の工具で調整した軸受けが入っている。セルヴィスの純正品とは程遠い代物だが、カイの手が組み込んだものだ。

 ラストヘイムの外縁に、リーヴの銘殻(めいかく)の黒い影が待っていた。フィンの汎殻(はんかく)もその横に停止している。2つの影が並んで立つ姿は、門番のようだった。


 ポラリスが歩き出した。一歩ごとに大地が揺れ、砂埃が舞い上がる。鉄殻(てっかく)の足裏が踏み締めた地面が窪み、乾いた土が四方に弾ける。カイはその背中を見つめた。

 ポラリスの頭部が、一度だけ振り返った。背面モニターでこちらを見ているのだろう。カイには、コックピットの中のリオンの表情は見えなかった。だが振り返ったという事実が、何かを語っていた。

 崩れかけた外壁。廃材で組まれた屋根。200人の集落。この数日間、リオンはここで灰域(アッシュランド)パンを食べ、鉄味の水を飲み、焚き火を囲んだ。マーサが温かいスープを差し出し、ゲオルグが「客人、遠慮なく食え」と声をかけた。セルヴィスの軍用糧食よりずっと粗末で、ずっと温かい食事を。

 だがあの最後の言葉――「もう見捨てない」――は、軍人の台詞ではなかった。あれは軍服の下にいる一人の人間の言葉だった。その言葉を聞いた時の胸の痛みを、カイはまだうまく処理できていない。


 ポラリスがラストヘイムの外縁を越えた。外壁の修復跡が遠ざかっていく。住民が打ちつけた板が、夕陽に照らされて白く光っていた。砂塵が機体の輪郭を薄くしていく。リーヴの銘殻(めいかく)が向きを変え、3機が並んで歩き始めた。足音が重なり、大地を揺らす振動がゆっくりと遠ざかっていく。

 やがて、完全に見えなくなった。砂塵だけが残り、それも風に散った。

 カイは砂塵の向こうを見つめ続けた。夕陽が沈みかけ、灰色の空に紫の筋が走っている。どこかで灰域(アッシュランド)鴉が鳴いた。低く掠れた声が、夕闇に溶けていった。

 ガルドが作業場の入り口に立っていた。赤葉(レッドリーフ)の煙草を咥え、カイの横顔を見ている。何も言わなかった。だがその沈黙は、いつもの飄々とした沈黙ではなく、何かを待つ沈黙だった。

 マーサが広場から歩いてきた。子供たちを落ち着かせ終えたのだろう。小柄な体が、杖をつきながらカイの横に立った。手編みのマフラーが風に揺れる。

「あの子は、ここに置いていったものがある」

 マーサの声は静かだった。カイは振り返った。マーサの黒い目が、カイを見上げていた。皺だらけの顔に、微笑みとも哀しみともつかない表情が浮かんでいる。

「あの子は、ここで初めて人を人として見た。それは持ち帰れない。ここに残るものだよ」

 マーサの言葉が、夕暮れの風に乗って消えた。カイには、その意味が完全には分からなかった。だがリオンが去り際に見せた表情を思い出す。あの震える唇。崩れかけた壁のような目。

 カイは振り返らず、消えた砂塵の先を見続けていた。暗くなりかけた空の下で、砂の匂いと、どこかから漂う煮炊きの匂いだけが残っている。

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