リーヴの視線
リオン・アスフォードは、ポラリスのコックピットに座っていた。
計器の柔らかい光が顔を照らしている。精密な画面の一つ一つが、セルヴィスの技術力を静かに主張していた。機関温度計、装甲健全度、弾薬残量。数字と波形が整然と並ぶ空間。深い紺色の目が、通信パネルの波形を追っていた。セルヴィスの暗号化通信。コルヴァスの周波数帯。リオンの指が操作盤を叩くと、通信回線が開いた。指先に操作盤の滑らかな樹脂の感触がある。灰青色の制服の袖口が、操作盤の端に触れて微かに擦れた。
「リーヴ」
声は平静だった。軍人としての訓練が、震えを押し殺していた。口の中が乾いている。唇を舐めると、灰域の砂の味がした。
「リオンか」
リーヴ・シェイドの声は、相変わらず穏やかだった。通信越しでも、その穏やかさの裏にある圧がリオンの肌を刺す。通信機のスピーカーから流れる声は、雑音混じりなのに妙に鮮明だった。銀灰色の髪と琥珀色の瞳。リオンは同期の顔を思い浮かべた。微笑みを浮かべているのだろう。その笑顔が目に届いていないことを、リオンは知っている。
士官学校の食堂で隣に座っていた日々が蘇る。リーヴは食事中も穏やかに笑っていた。だがその笑い方には、いつも空腹を知っている人間の影があった。灰域で物乞いをしていた少年が身につけた、相手の機嫌を損ねないための笑顔。リオンが気づいたのは、同期になって3ヶ月が経った頃だった。
「自分はここにいる。回収に来たなら、集落に手を出す必要はない」
「分かっている。最初からそのつもりだ」
リーヴの声に、嘘はなかった。コルヴァスの任務はリオンの回収であって、灰域の集落の制圧ではない。
「だが、報告はする」
リーヴの声のトーンが、僅かに変わった。穏やかさの底に、冷たい刃が覗いた。
「灰域の冴覚持ちの少年。あれは面白い。セルヴィスに報告する」
リオンの背筋が冷えた。コックピットの空調が肌に当たっているはずなのに、背中だけが氷を押し当てられたように冷たい。指先が操作盤の上で止まった。
カイの存在が、セルヴィスに知られる。あの17歳の少年の名前が、セルヴィスの情報網に載る。あの少年の名前が、セルヴィスの書類の上に載る。
「リーヴ。あの少年は民間人だ」
「民間人で冴覚持ちだ。鋳脈なしでフィンを退けた。お前がそれを知らないわけがない」
リオンは唇を噛んだ。操縦桿を握る右手の甲に、訓練中の火傷痕がある。指先に力が入った。革の操縦桿グリップが、手のひらに食い込む。
「お前こそ聞きたい。まだ鋳脈を拒み続けるのか」
リーヴの問いは、通信越しでも重かった。
鋳脈。後頭部から頸椎に埋設する生体合成リレー素子。機体のセンサー情報を操手の身体感覚として脳にフィードバックする外科技術。利点は反応速度の飛躍的向上。代償は――神経劣化。
「あなたの体がどうなっているか、私は知っている」
リオンは静かに言い返した。声は震えなかった。だが心臓が跳ねていた。
リーヴの沈黙が、一瞬だけ長くなった。通信のノイズだけが、コックピットの中に流れた。
士官学校の食堂で、リーヴが箸を落としたことがある。左手の指先が滑ったのだ。金属の箸が陶器の皿に当たる、硬い音。食堂の喧騒に紛れて、周囲は気づかなかった。リーヴは「癖だ」と言い繕い、右手で箸を拾い直した。その動作は滑らかだった。何度も経験している動作だった。
だがリオンは見ていた。リーヴの左手の指先が、一瞬だけ不自然に開いたのを。力を入れているのに、指が言うことを聞かない。脳が「握れ」と命じた信号が、指先に届く前に消えている。あれが鋳脈の代償の始まりだと、リオンには分かっていた。14歳で鋳脈を受けた少年。20歳の今、味覚を大幅に失い、左手の触覚が鈍り始めている。食事は栄養摂取でしかなくなり、食堂で何を食べても同じ表情をするようになった。かつてはリオンに「この煮込みは塩が強すぎる」と不満を漏らしていた少年が、今は何も言わずに食器を空にする。
「お前の冴覚は、鋳脈なしでは宝の持ち腐れだ」
リーヴの声が戻った。穏やかな、刃のような声。
「セルヴィスの最高戦力になれる素養を持ちながら、お前はそれを拒んでいる。もったいないと思わないか」
「もったいない、で人の体を壊すの」
「体は道具だ。使い潰してこそ価値がある」
通信越しでも、その言葉の硬さが伝わった。声に宿る確信。あるいは、確信であらねばならないという切迫。
リーヴの言葉に、リオンは何も返せなかった。その言葉を本気で信じているのか、信じなければ自分の選択が全て無意味になるから信じているのか。どちらなのか、リオンには判断がつかない。14歳の少年に、拒否権があったのか。灰域の孤児が「自分で望んだ」と言う時、そこに本当の選択があったのか。リオンはその問いを、士官学校以来ずっと飲み込んでいた。
フィンの声が通信に割り込んだ。
「隊長、これ以上の滞在は不要です。回収して帰投しましょう」
事務的な声だった。だが、カイとの戦闘で予想外の苦戦をした焦りが、僅かに滲んでいた。残殻に乗った灰域の少年に後退を強いられた。フィンにとって、それは受け入れがたい事実だったはずだ。
「了解した。リオン、30分後にこちらに合流しろ。それまでに出てこなければ――」
「出る」
リオンは短く答えた。声は揺れなかった。軍人の声だ。だが操縦桿を握る手が白くなっている。革のグリップに爪が食い込んでいた。
30分。それはラストヘイムとの最後の30分だ。
通信を切った。通信パネルの波形が平らになり、静寂が戻った。
コックピットの中は静かだった。精密な計器の光だけが、リオンの顔を照らしている。ポラリスの装甲の内側。セルヴィスの技術の結晶。鉄殻の中で最も安全な場所。空調の微かな振動が、シートの革を通じて背中に伝わっている。人工的に調整された空気の味。無味無臭。灰域の砂と鉄錆の匂いが恋しいと感じる自分に、リオンは驚いた。
だが今、リオンが見ているのは計器ではなかった。
コックピットの小さな窓から、ラストヘイムの集落が見える。崩れた外壁。廃材で組まれた住居。夕食の支度をしているのか、どこかから煮炊きの匂いが風に乗って流れてくる。乾燥豆と干し肉の、あの質素な匂い。ドライベッド・シチューの湯気が、集落のどこかの煙突から細く立ち上っている。
あの場所で過ごした数日間が、セルヴィスでの18年より長く感じた。セルヴィスの食堂には清潔な白い皿があり、味の調整された食事が出る。だがあの集落のドライベッド・シチューの方が、味を覚えている。乾燥豆の素朴な甘み。干し肉の塩気。鉄味の水。手で千切った灰域パンの硬さ。
灰域は「無秩序な荒野」だと教わってきた。ここにあるのは、そうではなかった。廃材で作られた屋根の下に、人の暮らしがある。壊れた水道管を夜中に直す少年がいる。怯える子供を抱きしめる老女がいる。
あの少年が体を張って守ろうとした場所。壊れた残殻で、銘殻に立ち向かった。
カイ・セヴァル。
リオンはその名前を、初めて心の中で呼んだ。
通信パネルの波形が揺れた。セルヴィスからの捜索信号が、断続的に入り続けている。無機質な電子音が、一定の間隔でコックピットに響く。
30分。
リオンは深い紺色の目を閉じ、もう一度開いた。
軍服の襟に触れた。指先に灰青色の布地の硬い質感がある。この服を着ている限り、自分はセルヴィスの軍人だ。この服を着たまま、あの集落に何ができる。
コックピットの隅に、小さな傷がある。装甲の内側に走った亀裂。ラストヘイムに墜落した時についたものだ。あの日から全てが変わった。整然とした計器の世界から、砂と鉄錆の世界へ。セルヴィスの秩序から、灰域の混沌へ。だが混沌の中に、秩序にはない温かさがあった。
まだ答えは出ない。だが、問いは生まれた。セルヴィスの軍人として、それだけで十分だった。




