決戦前夜・それぞれの夜
眠れない。
リオンが去った後もしばらくケストレルの足元に座っていたが、冷え込みが強くなってきたので立ち上がった。肩に触れられた場所の温度はとうに消えている。だが消えたことを確認するように左肩に右手を当てた。冬の夜気しかなかった。
カイはストーンクロスの集落の中を歩き始める。
目的地はなかった。ただ足が動いた。眠れないなら歩く。灰域の子供はそうやって夜を越える。
* * *
焚き火が見える。
集落の中央広場に近い空き地。崩れかけた石壁に囲まれた一角に小さな焚き火が燃えていた。火の前に座っているのは大柄な影だった。肩幅が鉄殻のコックピットに収まるぎりぎりの体。坊主頭に近い短髪。頭頂部の刀傷が火の光に赤く浮いている。
ボルトが酒を飲んでいる。
陶器の瓶を片手に焚き火を見つめている。
カイの足音に気づいたのかボルトが顔を上げた。小さいが鋭い茶色の目がカイを捉える。
「おう。眠れんか」
「ああ」
「そうだろうな」
ボルトは瓶を持ち上げる。
「飲むか」
「いい」
「そうか」
ボルトは瓶を口に運んだ。一口。顔をしかめた。辛い酒を旨そうに飲む男ではなかった。しかめ面のままもう一口。
「明日死ぬかもしれんのに、飲まないでどうする」
独り言のように言った。カイに向けた言葉ではなく、自分に言い聞かせているようだった。
カイは少しだけ立ち止まって焚き火の光の中にいるボルトを見た。39歳の傭兵頭。灰域で最も声の大きい男。その男が一人で静かに酒を飲んでいる。声が大きくない夜のボルトを見るのは珍しかった。
カイは黙って歩き出した。ボルトは引き止めなかった。
* * *
作戦室に灯りが点いている。
地下倉庫の入口からランタンの光が漏れている。階段を降りると木の台の上に灰域西部の地図が広げられていた。石がいくつも置かれている。16個の石と一つの空白。ゲルハルトの名が消えた空白はまだそこにあった。
マイロが椅子に座っている。
地図の上に突っ伏すようにして眠っている。丸い眼鏡がずれて鼻の頭で引っかかっていた。右手にはまだ鉛筆が握られている。メモ帳が開いたまま顔の横に置かれ、最後に書いた文字は途中で止まっていた。数字の羅列だ。
カイは作戦室に入らなかった。
入口から見ただけだった。マイロの寝息が地下倉庫の静寂に小さく響いている。教師志望だった男の几帳面さが眠っている姿にも表れていた。椅子の背もたれに体を預けず、地図の上に上体を倒して眠っている。
カイは静かに階段を上がった。
* * *
格納庫の方角から金属を叩く音が聞こえる。
一定のリズムではない。叩いて止まり、また叩く。整備の音だった。この時間にまだ整備をしている人間がいる。
岩壁の窪みを利用した簡易格納庫の中にシルフの細い脚部が見えた。装甲を限界まで削った異形の軽量機。骨格が露出した痩せた機体は闇の中で蜻蛉の骸骨のようだった。
トワが脚部の関節をハンマーで叩いていた。
黒のライダースジャケット。高い位置で結んだ黒髪。切れ長の一重瞼の目が関節部の微細な歪みを見つめている。ハンマーを置き、指先で関節の噛み合わせを確かめた。わずかに首を傾げてもう一度叩いた。
その合間に声が聞こえた。
低い声だった。歌だ。
トワが歌っている。整備の手を止めずに口ずさんでいた。歌詞は聞き取れなかった。旋律だけが金属を叩く音の隙間から漏れてくる。灰域の放浪民に伝わる旋律。長い音と短い音が交互に連なる、波のような歌。明るくはない。だが暗くもない。ただ遠い場所を思い出すような旋律だった。
トワの故郷がどこなのかカイは知らない。灰域の辺境だということだけは聞いた。もうない集落かもしれない。灰域の集落は消えることがある。人が去り、建物が崩れ、砂に埋もれて消える。
トワはカイに気づいていないようだった。あるいは気づいていて声をかけなかっただけかもしれない。
カイは足音を殺して通り過ぎた。
* * *
通りの角を曲がるとリントがいた。
石壁に背を預けて地面に座っている。膝の上にライフルの部品が並べられていた。分解したライフルを布で一つずつ拭いている。キャリバーの主武装ではない。リント個人のハンドガンだった。鉄殻を降りた後の最後の武器。
リントの手は迷いなく動いていた。部品を拭いて確かめ、元に戻す。分解と組み立て。繰り返し行ってきた動作が夜の暗がりの中でも正確だった。首に巻いた赤いスカーフがランタンの弱い光に暗く沈んでいる。妹の形見だ。
リントはカイに気づいた。目が合った。
何も言わなかった。カイも何も言わなかった。リントは視線を戻し、部品を布で拭く手を再開した。カイは歩き続けた。
* * *
集落の外れ、物資集積所の近く。
崩れた壁の陰に小さなランタンの光があった。ジェイスが木箱の上に座っていた。33歳の傭兵部隊長。がっしりした体格に短い角刈りの黒髪。膝の上にメモ帳を置いて何かを書いていた。
手紙だった。
鉛筆の先が紙の上を走っている。書いては止まり、止まっては書く。言葉を選んでいるのが分かった。ジェイスの右手首にくたびれた革のブレスレットが巻かれている。妹のサーラが幼い頃に作ったものだ。
誰に宛てた手紙なのかカイには分からなかった。妹かもしれないし、部下かもしれない。あるいは届かない相手への手紙かもしれない。
ジェイスは書く手を止めず、カイが通り過ぎるのを視界の端で見送った。
* * *
通信塔の残骸が夜空に向かって伸びていた。
鉄骨の骨格だけが残った構造体の2階部分に薄い光が漏れている。タリアの臨時受信拠点だった。
階段を上がった。
タリアが通信機の前にいた。16歳の少女はヘッドセットを首にかけたままダイヤルをゆっくりと回していた。全周波数の確認だ。一つずつノイズの中に信号がないかを聞いている。最終確認だった。明日の出撃後、この通信網が部隊を繋ぐ生命線になる。中継点の状態を一つ残らず把握しておく必要がある。
メモ帳が机の上に開いている。中継点の番号と状態がタリアの字で書き込まれていた。第1中継点、応答あり。第2中継点、応答あり。第3中継点、機器凍結により不安定。第4中継点、応答あり。几帳面な字だった。
タリアはダイヤルを止めた。ヘッドセットを外して首にかけたまま振り返った。
カイが階段の上に立っているのを見て少し目を見開いた。
「カイ。どうしたの、こんな時間に」
「眠れなくて。歩いてた」
タリアは通信機の前の椅子から体を半分ずらしてカイを見た。茶色の瞳がランタンの光に明るく映っている。そばかすのある顔が少しだけ柔らかくなった。
「みんな眠れないみたいだね。ボルトさんも焚き火の前で飲んでたし、トワさんもまだ整備してた」
「知ってる。見てきた」
タリアは小さく頷いた。通信機に視線を戻してメモ帳のページをめくった。中継点の一覧を確認している。だが確認はもう終わっているはずだった。何度も確認した内容をもう一度確認している。
タリアがメモ帳を閉じ、鉛筆を机の上に置いてカイを見た。
「ちゃんと帰ってきて」
声は震えていなかった。タリアの声はいつも通りだった。明るくもなく、暗くもなく。「壊れたらあたしが直せないからね」と付け加えるような軽口もなかった。ただ、そのまま言った。
カイは頷いた。
声が出なかった。
頷くことしかできなかった。タリアの茶色の瞳がランタンの光の中でカイを見ていた。幼馴染の目だった。物心ついた頃からそこにあった目。ラストヘイムの朝に、廃材置き場の隅に、通信塔の残骸の中にいつもあった目。
カイは帰る場所を持っている。ラストヘイムがある。ゲオルグがいて、クレアがいて、タリアがいる。
だから帰らなければならない。
階段を降りた。冬の夜気が頬に当たった。風はまだ止んでいる。雲は動かない。ストーンクロスの集落に明日を待つ灯りが点々と散らばっていた。
明日、この中の誰かがいなくなるかもしれない。
焚き火の前のボルト。地図の上のマイロ。故郷の歌を歌うトワ。武器を拭くリント。手紙を書くジェイス。通信機の前のタリア。
全員が帰ってくる保証はどこにもない。
カイはケストレルの方角に歩き出した。鉄紺色の機体が夜の闇の中に影だけを立てている。明日、あの操縦桿を握る。そして鋼城に向かう。
足が止まらなかった。止める理由がなかった。怖い。だが足は動く。それだけが今のカイにある全てだった。




