決戦前夜・カイとリオン
ケストレルの足元に座っていた。
鉄紺色の装甲が夜の闇に溶けかけている。18年分の修復痕が焚き火の遠い光にかすかに浮かび上がる。溶接の跡、色の違う継ぎ当て、右脛の新しい装甲板。この機体が辿ってきた時間が足元から見上げる角度でも読み取れる。
カイは地面に腰を下ろし、背中をケストレルの右足首の装甲に預ける。アルマナック合金は冬の夜気を吸って冷たいが、座り慣れた場所だった。この半年で何度もここに座った。考え事をする時、眠れない時、声を出したくない時。機体の足元はカイにとって一番静かな場所だった。
空を見上げても星はなかった。厚い雲が灰色の蓋のように空を覆っている。灰域の冬の夜空。雲が厚い日は星が見えないが、その分、放射冷却が弱くなる。雲がない夜は地面の熱が空に逃げて明け方には指先が動かなくなるほど冷え込む。雲が厚い夜は少しだけ暖かい。灰域で暮らしていれば誰でも知っていることだった。
風が止んでいた。
昼間は砂を巻き上げていた風が日没とともに落ち、空気が動かなくなっている。焚き火の煙が真っ直ぐ上に昇っている。遠くにあるストーンクロスの集落の中心から漏れてくる光が、荒野の端にいるカイの位置まで薄く届いていた。
明日、あの鋼城に向かう。
全長3.2キロメートルの巨躯。六脚で大地を踏みしめ、砲塔群とドール生産施設を備えた移動要塞。16機の残殻と汎殻であれに挑む。正規軍の銘殻部隊でさえ単独で攻略できるか怪しい相手に、灰域の寄せ集めで突っ込むのだ。
ガルドの顔が浮かんだ。
さっき作業場で頭を撫でられた。あの荒い手。油と金属粉が染みついた指先が髪をかき回した感触がまだ残っている。振り払えなかったし、振り払いたくもなかった。あの手はテオの機体を作り、テオに鋳脈を埋め、テオを壊した手だ。同時にカイの機体を直し続けた手でもある。
明日、あの手は鋼城の中に消える。帰ってくるかどうかは分からない。分からないことが多すぎる。確かなのは今ここに座っていること。ケストレルの冷たい装甲が背中にあること。空に星がないことだけだった。
右手の薬指と小指に微かな痺れが走った。冬の夜気が指先の血行を奪っている。手を握って開くと感覚が戻った。まだ動く。まだ操縦桿を握れる。
足音が聞こえた。
砂の上を歩く軽い足音。歩幅が一定で踵の下ろし方が静かだった。軍靴の音だ。セルヴィスの支給品のブーツは灰域の安全靴とは違う音を立てる。
カイは振り向かなかった。足音の主は分かっていた。
リオンがケストレルの足元に来て、カイの隣に少し間を空けて座った。地面に腰を下ろして膝を立てる。暗色の戦闘服にセルヴィスのブーツ。深い紺色の目がカイと同じ方向を見た。星のない空を。
しばらく二人とも何も言わなかった。
風のない夜の静けさが二人の間に横たわっている。遠くで灰域鴉が1声鳴き、乾いた声が闇に溶けて消えた。
「怖い?」
リオンが言った。
空を見上げたままの声は低く簡潔だった。報告するように問いかけるいつもの口調。だが声の端にわずかな揺れがあった。
「怖い」
カイは正直に答えた。
リオンの前で嘘をつく必要がなかった。この女の前で見栄を張っても意味がない。リオンはカイの操縦を見てきたし、冴覚を知っている。戦場での判断も震える手も何度も見ているのだ。
「私も」
リオンの声が少しだけ小さくなった。
カイは隣を見た。リオンは膝を抱えて空を見上げていた。長い黒髪がうなじの高い位置で結ばれている。横顔の輪郭が遠い焚き火の光にかすかに浮かんでいた。深い紺色の瞳に星の代わりに雲の暗さが映っている。
リオンが怖いと言うのをカイは初めて聞いたかもしれなかった。いや、一度だけある。だがあの時は敬語が崩れていた。今は崩れていない。崩れていないのに怖いと言ったのだ。
リオンの右手の甲に訓練中の火傷痕が薄く見えた。この暗がりでも分かるのは何度も見たからだ。セルヴィスの士官学校で鉄殻の操縦訓練を受けていた頃の傷。リオンはあの組織の中で戦い方を学び、あの組織の矛盾を目にしてあの組織を捨てた。捨てた先にあったのが灰域で、灰域にいたのがカイだった。
カイはリオンのことをまだ十分には知らない。8歳の時に見た焼ける集落の光景も父ケネスとの対峙も、リーヴとの士官学校時代も語られた断片でしか知らない。だがそれでいい。
沈黙が戻った。
だが居心地の悪い沈黙ではなかった。二人とも黙ることに慣れている。カイは言葉を選んでから話す人間で、リオンは必要なことだけを言う人間だった。
「終わったら」
カイが口を開いた。
「ラストヘイムに来いよ」
声に力は入れなかった。誘っているのでも頼んでいるのでもなく、ただ言葉にした。頭の中にずっとあったものをようやく外に出した。
リオンは答えなかった。
カイはそれでよかった。答えを求めて言ったのではない。リオンがセルヴィスを離脱した時から彼女には帰る場所がない。アスフォード家は体制側だ。軍を抜けた娘を迎え入れられるかどうかは分からないし、リオンは今の自分の場所を持っていない。
だから言った。ラストヘイムがある。あそこにはゲオルグがいてクレアがいて、壊れた水道管と錆びた屋根がある。立派な場所じゃない、灰域の小さな集落だ。だがカイが帰る場所だ。
リオンは黙ったままカイの隣にいた。
答えないことが答えなのか、まだ答えを持っていないのかカイには分からなかったが、どちらでも構わなかった。
離れなかった。
時間が過ぎた。どれくらい経ったのか分からない。焚き火の光が弱くなった気がした。誰かが薪を足さなかったのかもしれない。夜が深くなっている。雲は動かず風は止んだまま。灰域の冬の夜は長い。
カイはケストレルの装甲に預けた背中から合金の冷たさを感じていた。30年以上前の合金。今の技術では再現できない金属。この機体の骨格は父が乗っていた頃と変わっていない。コックピットの設計も操縦桿の手触りも。ガルドが作り、テオが使い、今はカイが座っている。明日もこの機体で戦う。この機体と隣にいるこの女と。
リオンの呼吸の音が聞こえた。静かな規則正しい軍人の呼吸だ。だがその規則正しさの中にわずかな乱れがあった。怖いと言った女の隠し切れない呼吸の乱れ。カイはそれを聞いていた。聞いているだけでよかった。
リオンが膝を伸ばして立ち上がった。カイはまだ座っていたため見上げる形になった。リオンの影がケストレルの足元の闇に重なっている。
リオンが一歩を踏み出す直前、手がカイの肩に触れた。
右手の指先がカイの左肩の上に置かれた。一瞬だけ。力は入っておらず触れただけだった。指の温度が冬の夜気の中でかすかに伝わった。リオンの手は冷たかったが、カイの肩に触れた場所だけが温かかった。
手が離れた。
足音が遠ざかっていく。軍靴が砂を踏む軽い音。一定の歩幅で振り返らない背中。暗色の戦闘服が夜の闇に溶けていく。リオンは振り返らない。いつもそうだ。この女は去る時に振り返らないが、離れる直前に何かを残す。言葉だったり視線だったり、今夜は肩への手だったり。
カイは肩に触れた場所に右手を置いた。
何も残っていない。指の痕も温度ももう消えている。
それだけで十分だった。




