最後の整備
作業場の空気が変わっている。
昨日まで漂っていた煙草の匂いがもうない。ガルドは今朝、胸ポケットから煙草の箱を出して棚の上に置いた。箱の中にはまだ5本残っている。だが鋼城の内部にはセンサーがある。煙草の残り香が衣服に染みついていれば通路の化学検知器に引っかかる可能性があるため、今朝を最後にしたのだ。
ガルドは台の上に広げた紙に目を落とした。
自分で描いた鋳脈接続中枢の概略図だ。ガルドの指が紙の上をなぞった。リレー素子の切断手順こそがすべての核心だった。
素子を乱暴に引き抜けば鋳脈者の神経系に致命的な逆流が起きる。接続状態のまま中枢装置を破壊しても同じことだ。24人が即死するか、二度と目を覚まさなくなる。ガルドが中枢に潜り込む理由は壊すためではなく、止めるためだった。
手順は決まっている。1番、2番、4番、3番の順だ。指はもう順番を覚えている。間違えれば繋がれた神経に逆流が走って死ぬ。電源を落としてからの猶予は6分。
紙の余白にはガルドの字で「1-2-4-3」と書き込まれていた。この4つの数字の順序を間違えれば人が死ぬ。
台の上に置いた絶縁手袋に、左手の中指と薬指を通した。感覚の鈍い2本の指が手袋の内側の縫い目を微かに感じ取る。この感触が端子の位置を教えてくれるのだ。目を瞑っても手が覚えているほど何度も練習している。
ガルドは手袋を外し、丁寧に畳んだ。
* * *
台の上の潜入装備をもう一度並べ直す。
ワイヤーソー、ハンマー、精密ドライバー6本、クリッパー、懐中電灯、予備電池、絶縫手袋、内部構造図。
全部で8つ。過不足はない。
ガルドはツールベルトに一つずつ収めていった。道具の配置は体に染みついており、手が迷うことはない。技匠の手は自分の道具の位置を寝ぼけていても間違えないのだ。
最後に作業場の隅に置いた工具箱を見る。
蓋の裏にテオの名前が刻まれた、古い金属製の箱だ。曲がったTの縦線にあの乱暴な字の面影がある。
この箱は持っていかない。鋼城の中では不要だ。
だが帰ってきたらまた開ける。そうするつもりでいたし、つもりでいることにした。
作業場の入口で足音が聞こえた。軽く歩幅の広い足音は、この半年で少し伸びている。
カイが入口に立っている。
17歳の少年は作業場を見回した。昨日までの煙草の匂いがないことに気づいたのか一瞬だけ鼻を動かしたが、何も言わなかった。暗い灰色の瞳が台の上に並んだ装備に向かい、そこで止まった。油と金属粉の匂いだけが残った作業場。煙草の消えたこの空間は、ガルドの場所でありながらどこか別の場所のようだ。
「準備は終わったのか」
「ああ」
ガルドはツールベルトの留め具を確認しながら答えた。
「中枢の停止手順は頭に入っている。あとは実行するだけだ」
カイは黙っている。しばらく立ったまま台の上の装備を見つめていた。ワイヤーソーやハンマーが何のための道具か、この少年は知っている。鋼城の中へ一人で入り、鋳脈接続中枢を止めるための道具。ガルドにしかできない仕事のための道具だ。
「俺も行く」とカイが言った。
ガルドは手を止めなかった。留め具を閉じてベルトを腰に巻き、位置を確かめた。重心が偏っていないか、走った時にがたつかないか。
「行かない」
「鋼城の中には護衛がいる。ドールもいる。一人じゃ」
「一人でやる」
ガルドの声は平坦だった。カイの目を見た。
「お前の仕事は外だ。護衛部隊を引きつけて、俺が中に入る時間を作る。16機の残殻と汎殻で鋼城の注意を外に向けさせる。それがお前の役割だ」
「だから、外を引きつけた後に合流すれば」
「合流する時間はない」
ガルドは首を振った。
「主電源を落としてからバックアップ起動まで6分。4分で24人のリレー素子を切断して、2分で退路を確保する。この6分間に、外の部隊が鋼城の護衛を引きつけていなければ成り立たない。お前が外を離れたら、その6分が崩れる」
カイの拳が握られ、指の関節が白くなっている。
「30年分の借りだ」
ガルドはカイから目を逸らさなかった。
「鋳脈を作ったのは俺だ。お前の親父に埋めたのも俺だ。鋼城にあの技術を渡したのも、元を辿れば俺の設計だ。24人の鋳脈者が今あそこに繋がれているのは、俺が作ったものの延長線上にある」
作業場の空気が重くなり、ランタンの光が壁に揺れた。
「自分で作ったものは、自分で終わらせる。それが技匠の筋だ」
カイは何も言えなかった。
言葉を飲み込む顔をガルドは見つめていた。テオに似ている。言い返したいのに言葉が見つからない時のあの顔だ。テオはそういう時に舌打ちして背を向けたが、カイは背を向けない。踏みとどまって何かを探しているものの、見つからないのだ。
ガルドは台を離れてカイの前に立った。
44歳の技匠と17歳の操手。身長差は12センチほどあるが、この半年で縮まった。もう少しすれば追いつかれるかもしれない。
ガルドはカイの頭に手を置き、乱暴に撫でた。技匠の手は荒い。油と金属粉が染みついた指先がカイの黒い髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「お前の親父にも、同じことをしたことがある」
カイの体が固まった。
「あいつも俺に向かって、行くなだの一緒に行くだの、いつも余計なことを言った。止めても聞かない。言い出したら梃子でも動かない。本当に面倒な男だった」
ガルドは手を離さず、カイも振り払わなかった。
「お前はあいつに似てきた。足音も、歩幅も、黙り込む顔も」
ガルドの声が少しだけ低くなった。
「だから信じている。外は任せた」
手を離した。
カイは髪が乱れたまま、黒い前髪が目にかかっている。暗い灰色の瞳でガルドを見つめ、何かを言いかけてやめ、もう一度口を開きかけてから結局小さく頷いた。
足音が遠ざかり、作業場に一人になった。
ガルドは乱れた自分の右手を見た。カイの髪の感触がまだ指先に残っている。左手の中指と薬指では感じられない種類の感触だった。テオの時も同じだった。出撃の前の夜、あの男の硬い髪を同じように乱暴に撫でたのだ。テオは笑って振り払ったが、カイは振り払わなかった。
テオは振り払って笑った。あの笑い方はガルドの知る限り、戦場でも作業場でも酒の席でも変わらなかった。何があっても笑う男だった。笑えなくなった時がテオの終わりだったのだ。右耳の感覚を失い、右手の指先が動かなくなってもまだ笑っていた。笑えなくなったのは鋳脈の侵食が脳幹に届き始めた頃だ。最後の半年、テオは笑わなくなった。
ランタンの光が揺れている。工具箱の蓋の裏にはテオの字がある。明日この作業場に戻れるかどうかは分からないが、工具箱はここに置いていく。
いつか誰かが開けるだろう。その時、蓋の裏のテオの名前を見て何を思うか。ガルドには分からないし、分からなくていい。




