鶺鴒の最終調整
煙草の煙が仮設作業場の天井に溜まっていた。
ガルドは口元の煙草を指で挟み、灰を足元のブリキ缶に落とした。左手の中指と薬指の古い火傷痕がランタンの光に白く浮いている。指先の感覚が鈍い2本の指でも煙草を落とすような真似はしない。14年間毎日やっている動作だ。体が覚えている。
作業場はストーンクロスの倉庫の一角を間借りしたものだった。石壁に囲まれた狭い空間に工具と部品と油の匂いが充満している。壁際に並べた木箱の上に精密工具が整然と並び、床には図面を広げた台が二つ。一方にはケストレルの駆動系統図。もう一方にはガルドが手書きで描いた紙が何枚も散らばっていた。
ガルドは台の前に屈み込み、紙の一枚を指でなぞった。
鋼城モノリスの内部構造図。ガルドが記憶を頼りに描いたものだ。正確な設計図面は手元にない。だがガルドはかつて鋼城計画に関与していた。内部の整備通路の配置、動力炉への接続回廊、そして鋳脈接続中枢の位置。記憶は20年以上前のものだが構造の骨格は変わっていないはずだった。建造後に改修できる部分とできない部分がある。通路の配置は後者に属する。鋼城の骨格構造を変えるにはヴィルヘルムにそこまでの資源はない。
「第3ドール射出口から入る」
ガルドは煙草を咥えたまま呟いた。独り言だった。作業場には自分しかいない。
指が紙の上を滑った。射出口から整備通路への接続点。通路を北に200メートル。分岐を右。動力炉の外周回廊を半周。そこから中枢区画への隔壁が2枚。1枚目は手動開閉式。2枚目は電子錠。電子錠は鋼城の内部電源に依存している。電源を落とせば開く。電源を落とすには外周回廊の配電盤にアクセスする必要がある。
40分。射出口から中枢までの所要時間。途中でドールや警備兵に遭遇する可能性を加味して50分が現実的な見積もりだ。だがマイロには40分と伝えた。
ガルドは紙の束を揃え、作業着の内ポケットに折り畳んで入れた。
* * *
ケストレルの背部に回った。
仮設作業場の隣にケストレルの後半身が突き出している。壁の穴から機体の背部と脚部が倉庫内に収まり、前半身は外に出たままだった。倉庫が狭くて全身を入れられなかったのだ。だが背部の作業には十分だった。
ガルドは梯子を登り、背部スラスターユニットの点検ハッチを開けた。肩甲骨にあたる位置に斜めに配置された2基の主スラスター。高速機動時に翼のように展開する構造がこの機体の名の由来になっている。鶺鴒。旧世界の鳥の名だ。
推進剤の残量計を確認した。左スラスターが72パーセント。右が68パーセント。偏りがある。右スラスターの噴射弁に微細な詰まりがあって燃焼効率が落ちている。ガルドは工具ベルトから細いワイヤーブラシを抜き、噴射弁の内壁を丁寧に擦った。カーボンの堆積物が黒い粉になって落ちる。
「30年前の合金だ。今の技術じゃ再現できない」
スラスターの外殻に手を当てた。アルマナック合金の手触りは現代の鋳造合金とは違う。粒子が細かく表面が滑らかで、指先に微かな冷たさを返してくる。この合金を精製した炉はもうどこにもない。
噴射弁の清掃を終え、残量計をもう一度確認した。左72、右68。補充用の推進剤はストーンクロスにある分で足りるが満タンにする意味はない。推進剤を満載すれば機体が重くなる。カイの戦い方は回避と瞬間加速に依存している。重い機体はカイの冴覚が読んだ回避タイミングに体が追いつかない。
8割。それがガルドの答えだった。推進剤を8割に抑え、残りの重量を機動性に回す。
* * *
梯子を降りて作業場に戻った。
台の上にもう一つの荷物が置いてあった。ガルド自身の装備だ。
鋼城内部への潜入用。軽量の作業着に腰のツールベルト。ベルトには精密工具の代わりに切断用のワイヤーソーと小型のハンマーが追加されている。隔壁の手動開閉レバーが錆びついていた場合の備えだ。胸ポケットの煙草は置いていく。煙の匂いは鋼城内部のセンサーに拾われる可能性がある。
ガルドは装備を一つずつ確認しながら台の上に並べた。ワイヤーソー。ハンマー。精密ドライバーの6本セット。配電盤の端子を外すためのクリッパー。懐中電灯。予備の電池。鋳脈接続中枢のリレー素子を安全に切断するための絶縁手袋。
絶縁手袋を手に取って指を通した。ぴったりと嵌まる。自分の手の寸法に合わせて自分で縫ったものだ。左手の中指と薬指は感覚が鈍い。その分は他の指で補う。手袋をしたままでもリレー素子の端子を手探りで外せる。何度も練習した。目を瞑っても10秒で1本。24人分で4分。
作業場の入口で足音がした。
カイだ。
17歳の少年が作業場の入口に立っている。油と煙草の匂いが染みついた空間を見回し、台の上に並んだ装備に目を止めた。
「最終調整か」
「ああ」
ガルドは煙草に火をつけた。明日からは吸えない。最後の1本にするつもりはなかったが吸えるうちに吸っておく。
「背部スラスターの噴射弁を掃除した。右が少し詰まっていた。推進剤は8割で止めてある。満タンにするな。重くなる」
「分かった」
カイの視線が台の上の装備に戻った。ワイヤーソー。ハンマー。絶縁手袋。カイは何も言わなかった。
「この機体」
カイが言いかけて止まった。言葉を探しているようだった。ガルドは煙草の煙を吐いて待った。
「この機体、あんたの最後の仕事になるかもしれないな」
ガルドは手を止めなかった。絶縁手袋を外して丁寧に畳み、ツールベルトに収めた。煙草の先端が赤く灯り、薄い煙が天井に向かって昇っていく。
「最後の仕事は、中枢を壊すことだ。この機体じゃない」
声は平坦だった。
カイは何も言わなかった。しばらく作業場に立っていたがやがて小さく頷いて出て行った。足音が遠ざかる。17歳の足音は軽い。だがテオの足音に似てきた。歩幅と踵の下ろし方が。
* * *
一人になった作業場でガルドは工具箱を閉じた。
古い金属製の工具箱だった。蓋の表面は傷だらけで塗装は剥がれ、角が潰れている。20年以上使い続けた箱だ。中の工具は何度も入れ替わったが箱だけは変わっていない。
蓋を閉じる時、裏側に文字が刻まれているのが見えた。
金属に直接、鋭い工具の先で彫り込んだ文字。乱暴な筆跡だった。技匠の手とは思えない荒い彫り方。だがそれは技匠が彫ったものではない。
テオ・セヴァル。
テオが自分の名前を彫ったのだ。いつだったか。たぶん酒に酔った夜だった。「俺の名前を入れておけ、ガルド。お前が俺の技匠だって証拠だ」。笑いながら言って、ガルドが止める前に工具の先端で蓋の裏に名前を刻んだ。雑な字だった。Tの縦線が曲がっている。
ガルドは工具箱の蓋を閉じた。
煙草の最後の一口を吸い、ブリキ缶に押し付けて消した。明日からはこの匂いがない場所に行く。
ランタンの光が整然と並んだ潜入装備を照らしていた。
ガルドは作業場の壁に背を預けて目を閉じた。眠れるとは思わなかった。だが目を閉じることはできる。暗闇の中にテオの乱暴な筆跡が浮かんだ。曲がったTの字。それだけで十分だった。




