去る者の重さ
ボルトが唾を吐いた。
「あてにしてなかった」
ストーンクロスの集会所。昨日の作戦室と同じ地下倉庫だった。天井の低い石壁の部屋にランタンの光が揺れている。湿気を含んだ冷たい空気と人の体温が混じり合った淀んだ匂い。中央の木の台には灰域西部の地図が広げられたままだが、今日は地図の上の石が一つ減っていた。マイロが第2群の配置を示す石を動かし、遊撃枠に置いていた小石を取り除いている。ゲルハルトの名が消えた空白が地図の上に残っている。
「グランヴェルトの犬が灰域のために戦うなんざ、最初から信じちゃいない。来ないなら来ないで、計算が楽になる」
ボルトの太い腕が台を叩いた。木の台が揺れて地図の端が丸まった。弾薬の箱が滑りかけて、マイロが片手で押さえた。
カイは壁際に立っていた。昨日と同じ位置。だが昨日とは違い壁に背を預ける余裕がなく、肩に力が入っている。ゲルハルトが去った荒野の光景がまだ目の裏に残っている。
リントは黙ったまま集会所の入口近くの柱に背を預けて腕を組んでいる。
20歳の青年の顔にいつもの苛立ちはない。ボルトの声を聞きながら何かを噛み締めているような表情だった。
「リント」
カイが声をかけるとリントの目が向いた。
「あんたは何も言わないのか」
リントはしばらくカイを見つめ、腕を組んだまま言った。
「戦えないなら、邪魔にならない場所に行く。それも一つの選択だ」
ボルトが振り返る。
「甘いことを言うな、リント。戦えないんじゃなくて、戦わないんだ。あの男は」
「同じことだろう」
リントの声は静かだった。
「撃てない人間が戦場に立ったら、隣にいる奴が死ぬ。あの男はそれが分かっているから去った。戦わないことと、逃げることは違う」
ボルトが口を開きかけて閉じた。太い首を振って地図に視線を戻す。反論はしなかった。できなかったのかもしれない。
カイはリントの横顔を見ている。
* * *
マイロが地図の上の石を並べ直している。
丸い眼鏡の奥の目が数字を追っている。メモ帳に何かを書き込み、消し、また書く。鉛筆の芯が紙を引っ掻く小さな音が地下倉庫の沈黙に響いた。教師志望だった男の几帳面さが作戦の修正作業に表れていた。
「ゲルハルトの離脱を織り込みます」
マイロの声には感情がなかった。数字を数字として扱う声だった。
「当初、ゲルハルトには遊撃枠を想定していました。第1群と第2群の間を自由に動き、戦況に応じて加勢する役割です。バスティオンの火力と装甲なら、それが最も効率的だった」
マイロがメモ帳のページをめくる。
「遊撃枠をトワに再割り当てします」
「トワに」
カイが声を出す。
「トワのシルフは軽量機だ。バスティオンの代わりは務まらない」
「務まりません」
マイロは頷き、否定しなかった。
「バスティオンは重装近接格闘機です。シルフは一撃離脱の軽量機。運用思想が根本から違う。バスティオンが遊撃すれば、一度の介入で敵を押し返せた。シルフでは押し返せない。代わりに、撹乱と牽制で戦場の流れを動かすことはできる。押す力ではなく、引く力で味方を助ける」
マイロが地図の上に新しい石を置いた。第1群と第2群の中間からやや後方の位置。
「トワには機動力を活かして、両群の間を走ってもらいます。通信が途切れた時の連絡役も兼ねる。ゲルハルトのような一撃の重さはないが、トワの脚の速さは別の形で戦力になる」
「数字の上では」
ボルトが腕を組んだ。
「1機減った事実は変わらんぞ」
「変わりません」
マイロはメモ帳を閉じる。
「17機が16機になりました。正確に言えば、戦闘に参加できるのは15機と鹵獲汎殻2機の17機だったのが、銘殻1機が抜けて残殻14機と汎殻2機の16機です。銘殻の1機減は、残殻の3機減に相当する。それが数字の上の重みです」
沈黙が落ちる。
マイロの言い方は冷たかったが誰もが分かっている数字だった。バスティオンの装甲と火力は灰域の残殻3機分を軽く超える。アルマナック合金のフレームにガルドが設計したコックピット。30年以上の改修を経た重装近接格闘機は灰域の寄せ集めでは代替しようがない。その穴はトワの機動力では埋まらない。
マイロが眼鏡を指で押し上げた。
「作戦の基本構造は変えません。第1群の正面陽動、第2群の護衛部隊突破、第3群の潜入支援。変わるのは遊撃枠だけだ。それ以外の配置を動かすと、全体のバランスが崩れる」
「要するに、穴が開いたまま突っ込むということだな」
ボルトの声に皮肉はなく確認だった。
「そうです」
マイロも飾らなかった。穴が開いたまま戦うのが16機の現実だった。
リントが柱から背を離した。
「やれることをやるしかない。数字の話は終わりだろう」
それだけ言って地下倉庫から出て行った。足音が階段を上がっていく。重くはないが迷いのない足音だった。
ボルトが鼻を鳴らす。
「あのガキ、少しはましなことを言うようになったな」
マイロが小さく頷いて地図の上の石を見つめている。16個の石と1つの空白。マイロの目が空白の位置で一瞬止まったが、それ以上は誰も何も言わなかった。
* * *
夜になる。
ストーンクロスの空に星はなかった。厚い雲が灰色の蓋のように空を覆い、焚き火の光だけが集落を照らしている。冬の終わりの風が乾いた灰域鴉の鳴き声を運んできた。遠い。声は聞こえるが姿は見えない。
カイはケストレルのコックピットに座っていた。
エンジンは切ってあり計器の光もない。暗いコックピットの中に自分の呼吸の音だけが響いていた。狭い空間には油と金属の匂いが染みついている。シートの革は擦り切れ、左の肘掛けには補修テープが巻かれていた。ガルドが鋳脈接続機構を外した跡に増設された計器パネルが薄い闇の中で沈黙している。
操縦桿に手を置いた。革の表面が掌に馴染む感触。使い込まれた革は体温を吸ってすぐに温かくなる。この手触りはガルドが設計した時から変わっていないのだろう。テオも笑いながらこの操縦桿を握った。
笑いながら機体に乗る男。
ゲルハルトの声が頭の中で繰り返されていた。
父の笑顔をカイは知らない。母が生きていた頃の記憶にも笑っている父の顔はぼんやりとしか残っていない。はっきり覚えているのは背中だけだ。まだ暗い朝に出かけていく背中。夕方に疲れた足取りで帰ってくる背中。そしてある日、帰ってこなくなった背中。
ゲルハルトが見ていたテオとカイが覚えているテオは同じ人間なのだろうか。
戦場では笑い、家では背中を向けていた二つの顔を持つ父。どちらが本当の姿だったのか今のカイには分からない。分かるのはどちらの父ももういないということだけだ。
右手の薬指と小指に微かな痺れが走った。冬の夜気がコックピットに入り込んで指先を冷やしている。
カイは目を閉じた。
暗闇の中に二つの背中が浮かぶ。一つは父の背中で、もう一つは今日去っていった老兵の背中。
焚き火の光がコックピットの隙間から薄く差し込んでいた。灰域鴉の声がまた聞こえた。今度は少しだけ近い。




