老兵の退場
ケストレルの左膝関節に砂が噛んでいた。
カイは布切れに油を染み込ませて関節の隙間を拭いていた。2月の乾いた風が荒野の砂を巻き上げ、装甲の継ぎ目という継ぎ目に錆色の粉が入り込む。偵察から戻って半日も経たないのにもう関節部が軋み始めている。灰域の砂は機体を蝕む。放っておけば駆動部に食い込んで関節が固着する。ガルドに任せてもいい作業だが、カイは自分でやることにしていた。自分の機体の不調は自分の指で覚えておきたかった。
鉄紺色の装甲に午後の薄い陽光が当たっていた。18年分の修復痕が光の角度で浮き上がる。溶接で埋めた弾痕や色の異なる装甲板の継ぎ当て。右脛の外装だけが妙に新しいのは、先の戦闘で砕けた装甲をコンラッドの鉄資源で作り直したからだ。
ストーンクロスの外れにある荒野に面した平地。ケストレルは集落の格納庫に入りきらないためここに立たせていた。他の残殻は集落内の簡易格納庫や岩壁の窪みに収められているが、ケストレルの全高は銘殻の規格だ。灰域の手狭な設備では露天に置くしかない。
足音が聞こえた。
砂を踏む重い靴音だ。一歩ごとに間隔が開いている。急いでいない歩き方だが迷いもない。目的地が決まっている人間の足音だ。
カイは布から手を離してケストレルの脚部の影から身を出す。
ゲルハルト・ナルセンが荒野の中に立っている。
グランヴェルトの軍服を着ていた。濃灰色の詰襟に胸元の鉄殻のエンブレム。だがエンブレムの表面は擦り減って何の紋章だったのか判別しづらくなっている。30年近い歳月が布と金属の両方を磨り減らしていた。右肩がわずかに下がっている。旧傷の影響で腕を完全には上げられない肩だ。左頬から顎にかけての古い裂傷痕が午後の光に白く浮いている。
腰の旧式ハンドガンだけがいつもと変わらない位置にあった。
「久しぶりだな、小僧」
ゲルハルトの声は低く、枯れた土に落ちるように静かだった。カイが覚えている酒場で大声を上げる豪快な声とは違う。
「ナルセン」
カイは油で汚れた手を作業着の裾で拭いた。
「何の用だ」
「用がなきゃ来ないさ。戦の前に、顔を見に来た」
ゲルハルトはケストレルを見上げた。鉄紺色の機体が荒野の空を背に立っている。46歳の老兵の目がゆっくりと機体の全身を辿った。頭部のブレードアンテナ、肩甲骨の位置に配置された背部スラスター、逆関節に近い高跳躍型の脚部。視線が止まったのはコックピット周りの装甲だった。
「変わったな、こいつも」
「ガルドが直した。鋳脈の接続機構を外して、計器を増やした」
「ああ、知ってる。だがそうじゃない」
ゲルハルトが目を細めた。
「外は変わった。装甲も、武装も、脚も腕も。だがコックピット周りだけは昔のままだ。ガルドの設計がそのまま残っている。あいつらしい」
カイは何も言わなかった。ゲルハルトがこの機体を知っている理由は分かっている。テオの機体だったからだ。ゲルハルトはテオと共に戦場に立った男だった。
* * *
ゲルハルトは荒野の岩に腰を下ろした。
46歳の体が石の上に重く沈む。革のブーツの底に灰域の砂がこびりついており、踵を石にぶつけて落とした。
「お前の親父に会った時のことを覚えている」
唐突だった。前置きも脈絡もなかった。ゲルハルトは西の空を見ていた。鋼城が進んでくる方角だ。まだ何も見えないが、地平線の色が昨日よりも少しだけ濁っている気がした。
「テオは笑いながら機体に乗る男だった」
カイの胸の奥で何かが引っかかった。
「笑いながら」
「ああ。コックピットに座る時、いつも笑っていた。口の端がこう、片方だけ上がるんだ。不敵とかじゃない。楽しそうだった。あの機械に乗ること自体が、あいつには嬉しかったんだろう。俺にはそう見えた」
ゲルハルトは目を閉じた。まるで20年前の光景を瞼の裏に映しているかのようだった。
「俺とテオが初めて組んだのは、東部の掃討作戦だった。灰域の端、今でいうドライベッドのあたりだ。テオはまだ鋳脈を入れる前で、汎殻に乗っていた。俺より2つ年下のくせに、妙に落ち着いた奴だった。戦場に怖がりもしない。かと言って、無謀でもない。ただ当たり前のように機体に乗り、当たり前のように動かし、当たり前のように帰ってきた。それが俺には不気味だったよ」
ゲルハルトが薄く笑った。笑い皺が左頬の傷痕と交差する。
「あとで分かった。あいつは怖くないんじゃなかった。怖さを、笑うことで制御していたんだ。笑っていないと、体が動かない。そういう男だった」
カイは黙っていた。父の笑顔を知らない。
「俺が覚えている父さんは」
言葉が喉に引っかかった。カイは一度息を吸い、もう一度言い直す。
「いつも背中を向けていた」
ゲルハルトが振り向いてカイの目を見る。
「出かける時の背中しか覚えていない。行ってくるとも、帰ってくるとも言わなかった。ただ背中が遠くなって、小さくなって、消えた。それだけだ」
風が吹く。乾いた砂が二人の間を流れる。ゲルハルトは何も言わず、しばらくの間は風の音だけが荒野に落ちていた。
「そうか」
ゲルハルトの声は小さかった。
「テオは、笑いながら戦場に行って、黙って帰っていたんだな。帰る場所では笑えなかったのか」
「ナルセン。あんたは何をしに来た」
カイの声が硬くなった。世間話のためだけに戦の前に荒野まで来る男ではない。
ゲルハルトは立ち上がった。軍服の裾についた砂を払ってカイに向き直る。46歳の老兵の目は疲れていた。戦場で鳴らした男の目ではなく長く歩き過ぎた旅人の目だった。
「俺はもう、どちらの味方もできん」
声に装飾はなかった。
「お前の側にも立てないし、ヴィルヘルムの側にも立てない」
カイは拳を握った。右手の薬指と小指に走る痺れが指の付け根まで広がる。
「あんたは鋼城を護衛する命令を受けているんじゃないのか」
「受けている。だが従えない。あの鋼城の中に24人の人間が繋がれている。俺はあの計画の中身を知った時から、もう剣を振る理由を見失った」
ゲルハルトの右手が腰のハンドガンに触れた。触れただけで抜かない。30年分の戦場を経た手だった。何人の命をこの手で断ったのか。ゲルハルト自身にも正確な数は分からないのだろう。
「鋳脈者を24人、機械に繋いで動力にする。その事実を知った上で、あの城を護れと言われても、俺の中の何かが拒んでいる。理屈じゃない。30年殺してきたが、あれだけは違う。あれは戦争じゃない」
ゲルハルトの声が低くなった。
「かと言って、お前の側に立つ資格もない。俺はグランヴェルトの兵士だ。30年、あの旗の下で戦った。その旗を捨てて、昨日の敵に並ぶ。そんな器用な真似は、俺にはできん」
正直な男だとカイは思った。敵にも味方にもなれないと戦場の前に言いに来る。逃げるなら黙って消えればいい。バスティオンを駆って灰域の果てまで走れば誰にも追いつけない。だがゲルハルトは来た。面と向かって言いに来たのだ。
「あんたが抜けたら、戦力が1機減る。バスティオンは重い。穴を埋められる機体は灰域にない」
「分かっている」
「分かっていて、来たのか」
「ああ」
ゲルハルトが背を向けた。
軍服の背中が荒野の光の中に立っている。右肩が下がった左右非対称の背中だ。革のブーツが砂を踏む音が一歩ずつ遠ざかる。
「俺はもう、誰も撃てん」
振り返らず声だけが届いた。風に削られたような乾いた声だった。
カイは動けなかった。
ゲルハルトの背中が小さくなっていく。右肩が下がった疲れた歩き方だが背筋は曲がっていない。
行ってくるとも帰ってくるとも言わない。ただ遠ざかって小さくなり地平線に溶けていく。
カイは立ち尽くしていた。右手の痺れはいつの間にか消えている。代わりに胸の奥へ重い何かが沈んでいた。鉄の塊のように胸の底に沈んでいる。
風が止んだ。
荒野が静かになる。ゲルハルトの姿はもう点にもならないほど遠かった。西の地平線に向かって歩いている。鋼城が来る方角だが、ゲルハルトはもうあの鋼城とは戦わない。鋼城の向こうに何があるのかも関係のない男になった。
カイはケストレルの脚部に手を当てた。鉄紺色の装甲が午後の陽光で温まっている。手のひらに微かな振動が伝わった。風に揺れる機体の震えだ。荒野に立つ鉄殻は砂に晒されながらも倒れない。この機体も父がかつて笑いながら乗った機械だ。笑わなければ体が動かなかった男の最後の居場所だった。
布切れを拾い上げた。油が染みた布は冷たくなっている。
関節に噛んだ砂はまだ取り切れていなかった。カイは膝をつき、もう一度布をケストレルの関節に押し当てた。




