巨人の足音
灰域西部の丘陵は錆苔に覆われている。
冬枯れした赤茶色の岩肌がうねるように連なっている。灰原草すら生えない痩せた土地だ。風が吹くたびに錆苔の破片が舞い上がり、乾いた鉄の匂いが鼻を刺した。
カイはケストレルのコックピットから丘陵の頂を見上げた。岩の間に旧世界の送電鉄塔の残骸が突き立っている。鉄骨の骨格だけが残り、送電線はとうに朽ちて消えた。錆に蝕まれた鉄塔が風に軋む音が、通信回線を切った静寂の中に響いている。
隣にトワのシルフが立っている。
骨格のような細身の機体が丘の斜面に片膝をついている。装甲を限界まで削った軽量機は岩場に溶け込むように低い姿勢を取り、単眼カメラで西の地平線を睨んでいた。
「ここから先は徒歩だ」
トワの声が通信に入る。
「残殻のシルエットは目立つ。丘の向こう側に出たら、ドールの哨戒範囲に入る」
カイはハッチを開けてコックピットから降りた。鉄錆色の地面に靴底が着く。岩肌は乾いており、踏むと錆苔がぱりぱりと割れた。2月の風が防寒着の隙間から入り込んで肌を刺す。革製のケースに入った双眼鏡を首から提げ、丘の斜面を登り始めた。
トワが先に立っている。黒のライダースジャケットに腰のコンバットナイフ。長身の女傭兵は岩を一つ越えるごとに足を止め、周囲を確認してから次の一歩を踏んだ。身を低くして岩の影に沿って移動する様は、14年間の傭兵生活が染みついた動作だった。
丘の中腹でトワが手を上げた。停止の合図だ。カイは足を止め、トワの視線の先を追う。
丘の斜面に轍があった。鉄殻の足跡ではなく車輪の跡だ。幅の広い轍が2本、丘の北側を巻くように続いている。避難した集落の住民が荷車で通った跡だろう。轍の脇に子供の靴が片方だけ落ちていた。小さな革靴が錆苔の上で乾いている。靴を拾いに戻る余裕もないほど急いで逃げたのだ。
トワは靴を一瞥しただけで登り始め、カイもそれに続いた。
丘の頂に辿り着き、岩の隙間に身を伏せて双眼鏡を覗く。
西の地平線が歪んでいる。
最初、カイはそれが砂嵐だと思う。灰域の西から立ち上る巨大な砂塵の壁に、地平線の色が変わっている。灰色の空と鉄錆色の大地の境界が黄土色の靄に呑まれていた。
だが砂嵐ではない。砂塵の中に影がある。地平線を跨ぐような途方もなく巨大な影だ。建物に似ており、遠くの都市の廃墟が陽炎に揺れているように見えた。しかし廃墟は動かない。
あの影は動いている。
双眼鏡の倍率を上げると、砂塵の向こうに輪郭が浮かび上がる。
台形の巨塊だった。上部に城壁のような構造物が連なり、側面に砲塔の列が並んでいる。前面に突き出た主砲塔群の影が砂塵越しにぼんやりと見えた。
あれは機体ではない。リオンから聞いた情報が頭の中で反芻された。前面に800ミリ要塞砲4門、側面に300ミリ連装砲24門、対空砲128基。内部にドール生産施設を備え、搭載員は約8000名。24名の鋳脈者が6つの区画に分かれて巨体を制御している。
脚が見えた。胴体の下部から伸びる6本の巨大な脚柱が大地を踏みしめている。一歩ごとの地響きが、15キロ以上離れたここまで伝わってきた。微かな振動が岩肌を伝ってカイの腹の底を揺さぶる。脚が持ち上がるたびに足元から砂塵が噴き上がり、巨大な脚柱が次の一歩を落とすまでの間、数百メートルの高さまで舞って鋼城の胴体を覆い隠す。それが6本の脚で交互に繰り返される。大地を踏み砕きながら、あの巨体は歩いていた。
「……見えるか」
トワが隣で双眼鏡を覗きながら言った。声は平坦だったが普段より僅かに低い。
「足元だ」
カイは双眼鏡を脚部の根元に合わせる。
蟻だった。鋼城の脚柱の周囲を無数の小さな影が蠢いている。四脚で駆ける犬型の影に、六脚で這う甲虫型の影。ヤークトとケーファーだ。ドールの群れが鋼城の足元を取り囲み、進軍に随伴している。一体一体は鉄殻の半分にも満たない小さな機体だが、その数が異常だった。数百機では利かない。脚柱の根元から地面に広がるドールの群れは、上空から見れば黒い染みのように見えるだろう。
あれが毎日増える。鋼城が歩き続ける限り、腹の中からドールが吐き出されるのだ。1日にポーンが288体、ケーファーが72体だとマイロが言っていた。戦えば戦うほど敵が増える。そんな戦いをどう終わらせるのか。
「15キロ先か」
カイは双眼鏡から目を離した。腕が微かに震えていた。寒さのせいではない。
「進軍速度は」
「マイロの計算では時速6キロから8キロ。休まない。鋳脈者が交代で制御している限り、あれは止まらない」
時速8キロ。人間の早歩きと変わらない。だが全長3.2キロメートルの巨体が一歩ごとに大地を砕きながら進むその歩みは、速度の問題ではなかった。
トワが双眼鏡を下ろして目を細める。
「護衛部隊の鉄殻が見える。鋼城の上部甲板に6機。発着甲板で待機している。あれがシンダーだろう」
ゼルマ・ヴォルフが率いる護衛部隊。銘殻を含む精鋭だ。鋼城に近づくにはまずあの部隊を突破しなければならない。その先にドールの群れが控え、さらにその先に800ミリの要塞砲がある。何重もの壁だった。
丘の下から通信が入った。雑音混じりの低いボルトの声が、携帯無線機から漏れる。
「カイ。聞こえるか」
「聞こえている」
「偵察隊が戻った。進路上の集落の状況を報告する」
カイは双眼鏡を下ろして無線機を耳に当てた。トワも同じ姿勢のまま、双眼鏡越しに鋼城を見続けている。
「ヘイズクロフトとリッジウェイ。鋼城の進路上にあった2つの集落だ」
ボルトの声に普段の豪快さがない。
「住民は避難済みだ。3日前にマイロが伝令を出していた。全員、東の集落に逃げている」
「集落は」
「残っていない」
沈黙が落ちた。風が錆苔の破片を巻き上げてカイの頬を掠める。
「踏み潰された。建物も、畑も、井戸も、全部だ。鋼城の脚が通った跡は、幅200メートルの溝になっている。ヘイズクロフトは30世帯の集落だった。石壁の家と、灰原草の畑と、20年かけて掘った井戸があった。今は何もない。地面ごと消えた」
ボルトの声が途切れた。無線の向こうで息を吐く音が聞こえる。
「リッジウェイも同じだ。50世帯。交易路の中継地で、旅人の宿もあった。偵察隊が上空から確認した。脚の跡しかない。瓦礫すら残っていない。踏み潰されたんじゃない。練り込まれたんだ。1200万トンの重さで、地面に」
カイは目を閉じる。
ヘイズクロフトとリッジウェイ。どちらも訪れたことのない集落だ。だが灰谷の集落を思い出す。旅の途中で見た小さな集落。石壁の家と灰原草の畑、そして井戸の周りに集まる人々。「また来てね」と言ったあの少女の声が、不意に耳の奥で響いた。
30世帯と50世帯。合わせて200人か300人か。マイロの判断が3日早かったおかげで全員が逃げられた。だが20年かけて築いた暮らしは鋼城の一歩で消えたのだ。
あれは戦闘ではない。
災害だ。
技量も勇気もあの脚の下では意味をなさない。ただ踏み潰されるだけだ。
「ボルト」
「ああ」
「進路の先に、まだ集落はあるか」
「ストーンクロスまでの間に3つ。全てに避難勧告を出してある。だが、ここを通り過ぎたら次はストーンクロスだ」
ストーンクロス。800人が暮らす集落。バートンが15年かけて壁を築き、交易路を整えて人を集めた場所。ラストヘイムと同じように、カイにとっての「帰る場所」になりつつある場所だ。あの壁があの巨体の前で何の意味を持つというのか。
通信が切れる。
カイは再び双眼鏡を目に当てた。鋼城モノリスは変わらず歩いている。あの速度、あの方角で、あの巨体が進み続ける。止める手段がなければ3日後にはストーンクロスの哨戒圏に入る。
風が強くなった。送電鉄塔の残骸が軋む音が丘の上に響いた。錆びた鉄骨が風に揺れ、かつて電線が繋がっていたはずの腕木が何も掴めないまま空を指している。旧世界にはあの鉄塔の列を通じて電気が流れていた。集落と集落を繋いで灯りを届け、機械を動かしていた。大崩落がその全てを断ち切ったのだ。
そして今、旧世界の遺産が新たな形で灰域を脅かしている。鋼城の心臓にはイグニス・コンバーターがある。旧世界の研究機関が造った装置だ。あれがある限り鋼城は止まらない。
トワが双眼鏡を下ろす。切れ長の目が西の地平線を見据えている。砂塵の壁とその中を歩く巨影。風に靡く黒髪の下で、トワの表情はいつも通り読めなかった。
「あれを止めるのか」
その声には初めて躊躇いが混じっていた。14年間の戦場を生き延びた女傭兵の静かな声に、カイは思わずトワの横顔を見る。
カイも同じだ。
止めなければならないことは分かっている。
丘を降りる。残殻の待つ場所へ。
ストーンクロスに戻れば作戦会議が待っている。リオンの知識、マイロの頭脳、バートンの政治力、そしてボルトの武力。灰域が持つ全てを束ねて、あの巨人に挑まなければならない。
カイはケストレルのコックピットに乗り込んでハッチを閉じた。計器が一つずつ点灯していく。燃料残量、機関温度、関節負荷。全て正常だ。だがこの機体であの巨体に何ができる。全高11メートルのケストレルと全長3200メートルの鋼城。蟻と山の戦いだ。
だが蟻には蟻の戦い方がある。テオがそうだったように。ガルドが技術でそれを支えたように。リオンが知識を持ち寄り、トワが戦場を教え、ボルトが拳を握ってマイロが道を描く。一人ではただの蟻だ。だが蟻が束になれば、山を崩すことだってある。
そう信じなければ操縦桿は握れない。
西の地平線にはまだ砂塵が見えていた。
操縦桿を握る掌が、汗で滑った。




