地平の巨影
タリアの声が通信室の薄暗がりに響く。
「来た。西方第4中継点から応答あり」
16歳の少女は積み上げた通信機器の前に前のめりで座っている。左手でダイヤルを調整しながら、右手でメモ帳に走り書きする。耳には旧世界の規格品を改造したヘッドセットが押し当てられており、雑音の中から目的の信号を拾おうとしている。
カイは展望台の入口に背を預けて立っている。ストーンクロスの展望台は丘陵の頂上に据えられた旧世界の通信塔の残骸だ。鉄骨の骨格だけが残った構造体の2階部分にタリアが通信機器を持ち込み、臨時の受信拠点を作っている。床には配線が蛇のように這い回り、壁際には予備の乾電池と半田ごてが木箱に詰められていた。窓のない壁の隙間から2月下旬の乾いた風が吹き込んでいた。風に乗って錆苔の渇いた匂いが届く。
「第3中継点は沈黙。たぶん機器の凍結。第5中継点は応答あるけど、内容が途切れてる」
タリアはヘッドセットを片耳だけずらして言った。目は通信機のダイヤルから離さないままだ。
灰域の中継通信網はタリアが3年かけて構築したものだった。旧世界の通信塔の残骸を利用したリレー方式である。灰域の各所に散らばる廃棄された通信塔の残骸に手製の中継装置を取り付け、信号を30キロから50キロずつ受け渡す。電力は旧世界の太陽電池の再利用か廃棄鉄殻の動力炉から引いた微弱な電流を当てていた。中継点は全部で9箇所。最も遠い第1中継点は灰域の西端、グランヴェルト管区の東境から40キロほどの地点にある。
完璧な通信網ではなかった。天候や気温で中継点が沈黙することもあるし、旧世界の機器は修理を繰り返しても寿命がある。信号は中継を重ねるたびに劣化していくため、末端の中継点から届く音声は雑音に埋もれて半分も聞き取れないことがある。それでもこの通信網がなければ灰域の集落は孤立したまま、300キロ先で何が起きているかも知らずにいるしかなかった。
「繋がった。第2中継点」
タリアの声に緊張が混じった。第2中継点は西端に近く、グランヴェルトの管区境に最も近い位置にある監視拠点からの情報がそこを経由する。
ノイズの中から途切れ途切れの音声が流れた。タリアは聞き取った内容をメモ帳に書き写していく。やがて、その手が止まる。
「嘘でしょ」
呟きだ。タリアの顔から血の気が引いているのが薄暗い通信室の中でも分かる。
「タリア」
カイが声をかける。タリアは振り向かずヘッドセットを両耳に戻す。しばらく何かを確認するように頷いてメモを取り続け、それからゆっくりとヘッドセットを外した。
「カイ。リオンさんとマイロさんを呼んで」
* * *
4人が展望台に揃ったのはそれから20分後のことだ。
リオンは防寒外套の襟を立てたままタリアのメモ帳を受け取って目を通す。マイロは丸眼鏡の奥の細い目をさらに細めてタリアの説明を黙って聞いている。
「西方の中継点3箇所から、同じ内容の目撃報告が上がってます」
タリアはメモ帳のページを指で押さえながら言った。声を落ち着かせようとしているのが分かる。
「第2中継点の監視員、第4中継点の巡回組、それから第7中継点を経由した交易商の証言。3つの情報源が、同じものを報告しています。灰域の西方、グランヴェルト管区の東境から約200キロの地点に、巨大な移動構造物が確認されたと」
「移動構造物」
マイロが復唱した。穏やかな声に計算の気配がある。
「全長3.2キロメートル超。六脚歩行。移動に伴う地鳴りが、数キロ先まで届いている。第4中継点の巡回組は、7キロ離れた地点で振動を感知したと報告しています」
タリアはメモを読み上げた。その声は自分で口にした数字の重さに追いつけていないように聞こえる。
「鋼城モノリスだ」
カイは言う。
展望台に沈黙が落ちた。風が鉄骨の隙間を吹き抜けて低い音を立てる。通信機の真空管が微かに軋む音がその沈黙の底で鳴っている。
「進軍方向は」
リオンが訊く。メモ帳から目を上げてタリアを真っ直ぐに見る。
「東。灰域に向かっています」
リオンは頷いた。顔色は変わらない。
「進軍速度は分かるか」
「第2中継点の監視員が、12時間の間隔を置いて2回目視しています。その移動距離から推定すると、時速7キロから8キロ」
マイロが内ポケットからメモ帳と鉛筆を取り出した。鉛筆の先を舐めて数字を書き始める。
「200キロ。時速8キロで1日の進軍時間を16時間と仮定すると、1日の移動距離は約130キロ。ただし鋼城は六脚歩行だ。地形の影響を受ける。灰域西部の丘陵を抜けるのに速度が落ちるとして、平均を1日100キロと見積もっても――」
鉛筆が止まった。マイロは眼鏡の奥から顔を上げる。
「2週間。早ければ12日で、ストーンクロスの圏内に入る」
「2週間」
カイは繰り返した。自分の声が展望台の鉄骨に反射して冷たく響く。
2週間。それが灰域に残された時間だった。
カイは展望台の壁の隙間から外を見た。西の空。灰色の雲が低く垂れ込めて地平線が霞んでいる。何も見えなかった。200キロの彼方で3.2キロの巨人が大地を踏んでいるはずだが、ここからでは空と大地の境目すら曖昧だった。
だが、何かが違う。
空気だった。展望台に吹き込む風の中に普段とは違う微かな振動があるような気がする。鋼城の歩行が大地を伝わり、200キロの距離を経てなお空気を震わせているのだろうか。それとも知ってしまったことが感覚を歪めているだけなのか。カイには区別がつかなかった。
「交易商の証言に、もう一つあります」
タリアが言った。メモ帳の端に小さな文字で書き足された部分を読み上げる。
「鋼城の周囲に、大量のドールが展開している。護衛部隊の鉄殻も確認。進軍路上の集落2箇所が、既に避難を開始したと」
「踏み潰されたか」
マイロが訊く。声に感情はなく、ただ事実を確認する口調だ。
「まだ。でも、進軍路上にいる住民は逃げ始めていると」
「逃げる先は」
「東です。ストーンクロスかアイアンウェルに向かうしかない」
タリアの声が少しだけ震える。カイは彼女の横顔を見た。メモ帳を握る指が白くなっていた。
マイロが鉛筆をメモ帳に挟んで内ポケットに戻す。眼鏡を外して袖で拭いてからかけ直す。元教師志望の男の目には教壇ではなく戦場の地図が映っていた。
「バートン首長に報告する必要がある。それから、ボルトにも。2週間で何ができるか、すぐに計算を始めないと」
「分かった」
カイは頷く。そしてリオンを見る。
リオンは壁の隙間から西の空を見ている。灰色の髪が風に揺れて防寒外套の裾が翻っている。セルヴィスの機密資料で鋼城の仕様に触れたことがあるはずの彼女は、灰色の空の向こうに何かを見定めようとするような目をしていた。その目に恐怖はなかった。
「リオン」
カイが呼ぶと、リオンは視線を空から外さないまま答える。
「私が知っている限り、鋼城の正面装甲を貫通できる火力は、灰域にはない」
展望台から音が消える。
風の音も通信機の雑音も、4人の呼吸の音すらもリオンの一言が全てを飲み込んだ。
タリアがメモ帳を胸に抱えた。マイロの手が内ポケットの上で止まっている。カイは操縦桿を握るときの癖で右手の指を折り曲げた。薬指と小指に走る鈍い痺れが冬の冷気と混じって指先を冷たくする。
正面から貫けない。
ならば、どうするのか。
カイは西の空を見た。まだ何も見えない灰色の地平線を。あの向こうから3.2キロの巨人が歩いてくる。6本の脚で大地を踏み砕きながら。24人の鋳脈者を内部に繋ぎ止めたまま。
灰域の空気が微かに震えていた。




