鋼の巨人
地平線が、歪んでいた。
灰域の平原は果てまで平坦なはずだ。灰色の大地が空と溶け合う一本の線。カイはケストレルのコックピットから、その線を何百回と見てきた。だが今、地平線の中央に、あるはずのない隆起があった。
山だ。
最初はそう思った。灰域に山はない。あるのは崩れた建造物の残骸と、風に削られた岩盤と、錆苔に覆われた瓦礫の丘だけだ。だが計器が示す距離は12キロ。12キロ先に、空を遮る影がある。
鋼城モノリス。
灰色の空の下に、それは立っていた。
立っている、という表現が正しいのかどうか分からなかった。全長3.2キロ。全高800メートル。6本の巨大な脚柱が大地を踏み、その上に台形の城壁構造が聳えている。砲塔群が前面に並び、側面に副砲が列を成し、上面には対空砲台が林立している。距離12キロの彼方にあって、なおケストレルの視界の大半を占めていた。空が、足りない。鋼城が空を食っている。
通信が入った。
「全機停止。現在位置で展開」
ボルトの声だった。太い声に装飾はない。だが声の底に、普段とは違う重さがあった。カイはケストレルのスロットルを絞り、機体を停止させた。足元の灰が舞い上がり、コックピットの外装カメラに薄い灰色の幕がかかった。
灰域連合の全機が停止していく。
左側にリオンのポラリスが立っている。白銀の装甲が曇天の下で鈍く光り、右腕の穿月銃が地面に向けられていた。リオンは何も言わなかった。通信機の向こうから、微かな呼吸音だけが聞こえた。
右側にボルトのハウラーが膝をついた。継ぎ接ぎだらけの装甲が軋み、右腕のパイルバンカーが大地に突き立てられた。その後方に、レイダーズの残殻が並んでいる。フランの機体、ジップの片腕の機体、ストーンクロス防衛隊の残殻6機。トワの機体が少し離れた位置に停まり、周囲を警戒していた。
13機。
寄せ集めの13機が、灰域の平原に散開していた。統一された塗装はない。銘殻が2機、残殻が11機。全ての機体に修理の跡がある。溶接の痕、色の合わない交換パーツ、錆を削り取った装甲の凹み。どれも完全な状態の機体ではなかった。
その13機の前に、鋼城が立っている。
見上げた。
首が痛くなるほど見上げても、鋼城の全容は視界に収まらなかった。6本の脚柱の1本1本が、直径80メートルはある。脚柱の表面に刻まれた整備用のハッチが、この距離では点にしか見えない。あのハッチ1つが、鉄殻が通れるほどの大きさだということを、ルイの資料で知っていた。脚柱の根元から上に目を移すと、台形の城壁構造が空を塞いでいる。前面の800ミリ主砲が4門、砲身を灰色の空に向けていた。あの砲の射程は40キロ。今いる位置は、とうに射程の内側だった。
鋼城が動いている。
時速8キロ。人間の早歩きと変わらない速度だった。だがあの質量が動いているという事実が、速度の概念を書き換える。脚柱が大地を踏むたびに、地面が陥没し、灰の雲が脚柱の周囲に立ち昇る。その灰の雲が風に流され、数キロ先まで薄い霞となって漂っている。鋼城は移動するだけで、周囲の大地を変えていた。
* * *
距離が縮まるにつれて、空気が変わっていた。
計器には出ない。温度計も気圧計も風速計も、異常を示していない。だがケストレルの操縦桿を握る手に、微かな振動が伝わっていた。地面から来ている。鋼城の脚柱が大地を踏むたびに、数キロ先の地面が震えている。その振動がケストレルの脚部フレームを通じて操縦桿に届いている。一歩ごとに。規則的に。巨大な心臓の鼓動のように。
ガルドの声が、通信に入った。
「空気が重い」
短い言葉だった。ガルドはカイの後方、輸送車の助手席にいる。鋼城に潜入するための装備と、30年前の記憶を抱えて。ガルドの声には、いつもの皮肉がなかった。代わりに、カイが聞いたことのない種類の緊張があった。技匠としての緊張ではない。30年前にあの鋼城の設計に携わった人間が、自分の作ったものと再び向き合う緊張だった。
「イグニス・コンバーターが動いてる。この距離で振動が伝わるのは、コンバーターの稼働が活発化してるからだ。鋼城が戦闘態勢に入ってやがる」
カイは計器の青い光を見つめた。動力炉の出力表示。燃料残量。弾薬数。速射砲の残弾は68発。右腕の突撃銃に装填された弾倉は3本。全てが足りない数字だった。だがケストレルの動力炉は安定して回っている。ガルドが組み上げた駆動系が、低い唸りを胸郭の奥で響かせている。
鋼城の周囲に、影が動いていた。
センチネル・ドールだ。全高3メートルほどの自動砲台型が、鋼城の脚柱の根元に密集して配備されている。望遠光学系が捉えた映像では、ケーファーの四脚型ドールも混じっていた。甲虫のような低い姿勢の群れが、大地を這うように巡回している。数えるのを途中でやめた。数えても意味がないほどの数だった。
そしてドールの群れの奥に、鉄殻の影があった。
シンダー。グランヴェルトの鋼城護衛部隊。ゼルマ・ヴォルフの銘殻ライムを先頭に、汎殻ヴァルカンの編隊が整然と並んでいる。暗緑色の機体が灰色の大地の上で黒く見えた。その編隊の少し離れた位置に、もう1機。銀灰色の装甲。弧月刀を腰に佩いた細身の銘殻。アルベルト・ヴァイスのミラージュ。
カイの指先が操縦桿の上で強張った。右手の薬指と小指に走る痺れが、一瞬だけ鋭くなった。冴覚の代償が、ミラージュの姿を見た瞬間に疼いた。冴覚と鋳脈の両方を持つ操手。カイにとって最も厄介な相手の一人だった。
* * *
沈黙が落ちた。
通信機が静かだった。灰域連合の全員が、鋼城を見上げていた。
カイは自分の呼吸を聞いた。コックピットの中で、自分の肺が空気を吸い、吐く音。ケストレルの駆動音がその下で低く響いている。計器の青い光がコックピットの内壁を照らし、カイの手の甲に薄い光の筋を落としていた。
3.2キロの巨人が、灰域の大地を踏んでいる。
あの中に、24人の鋳脈者が繋がれている。あの中に、ガルドが設計した鋳脈接続中枢がある。あの中を、ガルドが止めに行く。
ガルドの声が聞こえた。通信ではなかった。あの夜、作業場で聞いた声が、記憶の中で反響していた。
中から壊すしかない。
「カイ」
リオンの声だった。通信機越しの、静かな声。
「見えるか。鋼城の左脚部、第3関節の装甲が薄い。ポラリスの穿月銃なら、あの距離からでも抜ける」
戦術的な発言だった。セルヴィスの士官として訓練された目が、鋼城の弱点を探している。リオンは恐怖を見せない。見せないのではなく、恐怖を分析に変換している。それがリオンの戦い方だった。カイは知っている。
「見えてる」
カイは答えた。自分の声が思ったより低いことに気づいた。
ボルトが通信を開いた。
「ガルド。改めて聞く。中に入れるか」
「入れる。左腹部の第3ドール射出口。射出サイクルの間隔は90秒。その間に滑り込める。中に入れば、中枢までの経路は頭に入ってる。40分だ。40分稼げ」
「40分か」
ボルトの声が低く笑った。笑いの中に、計算があった。13機で40分。センチネル・ドールの群れとシンダーの護衛部隊を相手に、40分間ガルドの潜入経路を守る。数字だけ見れば成り立たない作戦だった。だがボルトは30年間、数字が成り立たない戦場で生き延びてきた男だった。
「やってやるさ。レイダーズの看板がある」
通信にノイズが走った。周波数が切り替わる。バートンの声が、全軍の回線に乗った。
ストーンクロスから通信を送っているのだろう。バートンは鉄殻に乗らない。操手ではない。首長として、後方で灰域の民間人を守りながら、前線に言葉を送る。それがバートンの戦い方だった。
「聞こえるか。灰域連合の全員に告げる」
55歳の男の声は、静かだった。高ぶりがない。震えもない。ストーンクロスの集会場で聞いた時と同じ声だった。事実を述べるように、言った。
「灰域の歴史は灰域が書く。戦え」
短かった。
それだけだった。演説ではなかった。鼓舞でも激励でもなかった。ただ一つの事実と、一つの命令。灰域の歴史は灰域が書く。戦え。
通信が切れた。
* * *
カイは操縦桿を握り直した。
右手の痺れが指先を冷たくしている。薬指と小指の感覚が鈍い。次に冴覚を使えば、もう少し深いところまで持っていかれる。分かっている。
計器の青い光を見た。
ケストレルの動力炉が低く唸っている。テオが座っていた椅子に、カイが座っている。テオが握っていた操縦桿を、カイが握っている。ガルドが組み上げた駆動系が、鉄紺色の装甲の内側で鼓動している。
前方に鋼城がある。
3.2キロの巨人が、灰域の空を覆っている。その影が大地に落ち、灰色の平原を黒く染めている。センチネル・ドールが蠢き、シンダーの鉄殻が構え、ミラージュの銀灰色の装甲が灰色の空気の中で揺らめいている。
カイはスロットルを押し込んだ。
ケストレルが一歩を踏み出した。足元の灰が跳ね上がり、鉄紺色の装甲に薄い灰の層が降りかかった。右に、ポラリスが動いた。左に、ハウラーが立ち上がった。後方で残殻の駆動音が重なり、13機の鉄殻が灰域の平原を前に進み始めた。
鋼城の影が、頭上に広がっていく。




