灰域の旗の下に
ストーンクロスの集会場には人が溢れていた。
旧世界の講堂を再利用した建物だ。壁面には読めない文字が刻まれた配電盤の残骸が並び、天井の照明は半分以上が切れている。生きている灯りだけが集まった人間たちの顔を斑に照らしていた。
カイは講堂の奥の壁際に立って腕を組んでいた。右手の薬指と小指にまだ薄い痺れが残っている。クレアの診療所で処方された神経回復剤を飲み続けているが、完全には戻っていない。冴覚の代償だ。次に使えばもう少し深いところまで持っていかれると分かっていた。
講堂の中央にはバートンが立っている。
55歳の首長は背筋を伸ばし、灰域にしては清潔な外套を羽織っていた。白髪交じりの黒髪を丁寧に整え、短い顎髭の下の唇を薄く引き結んでいる。商談でも政治交渉でもない、もっと奥に何かを沈めた顔だった。
バートンの前に並んでいるのは灰域連合の全戦力だった。
右側には大柄な体を革の外套に包んだボルトが立ち、両腕を胸の前で組んでいる。その後ろにはレイダーズの隊員たちが控えていた。壁に背を預けるフランは左腕を布で吊っている。肩の弾創はまだ塞がりきっていないが、その目は据わっていた。カイはフランの目を知っている。元農民がそういう目をするようになったのは、3年前に残殻に乗り始めてからだと聞いていた。その隣には最年少17歳のジップがいる。カイと年の近い彼の顔には新しい擦過傷が赤く残り、口元だけが場違いに笑っていた。
左側に立つトワは壁に肩を預けて片足を後ろに引き、興味なさそうに天井を見上げている。だがカイには分かる。トワの目は天井など見ておらず、講堂の出入り口を視界の端で押さえているのだ。29年間も戦場で生き延びてきた人間の癖だった。
長机の前に座るマイロは灰域の地図を広げていた。丸い眼鏡の奥の細い目が地図の上を行き来している。手元には鉛筆が3本あり、書き込みの跡が地図の上に蜘蛛の巣のように走っていた。鋼城の予想進軍路、各集落の人口、使用可能な残殻の数、弾薬の在庫。全てが数字で書き込まれ、その横にはマイロの癖である小さな注釈が並んでいる。
講堂の扉が開いた。
冷たい外気が流れ込み、灯りが揺れる。
コンラッドだった。
防寒着の襟を立てた小柄な男が講堂に入ってくる。旧傷のある左膝を僅かに引きずっていた。その後ろにはアイアンウェルの輸送隊である3人の男が続く。背中に鉄板を束ねた荷を背負い、両手には木箱を抱えていた。
「遅くなった」
コンラッドの声は低く疲れていた。穏やかな丸顔には普段より深い皺が刻まれている。
「アイアンウェルの残りだ。鉄材が620キロ。弾芯用の硬化鋼が180キロ。装甲板の予備が4枚。これが最後だ。坑道の奥はもう掘り尽くした」
輸送隊の男たちが木箱を床に降ろすと、鈍い音が講堂に響いた。620キロの鉄の重みだ。
バートンが頷く。
「ありがとう、コンラッド」
「礼はいい。これで負けたら、礼も何もない」
コンラッドは右手の結婚指輪を無意識に回しながらマイロの地図の前に座った。穏やかな目が地図の上の数字を読み取り、一瞬だけ細くなる。数字の意味を理解した顔だった。
* * *
ボルトが一歩前に出た。
「戦力確認だ」
太い声が講堂に響く。ボルトの声には装飾がない。必要なことを必要な音量で言うだけだ。
「レイダーズ。稼働機4。俺のハウラー、マイロのリレイ、フランとジップの残殻。ディノの機体は動力炉がやられてる。部品取りに回した」
ボルトの視線がフランに向く。
「フラン。左腕は」
「撃てます」
フランの返答は短かった。左腕を吊った布の下で指が動いているのが見える。操縦桿を握る動作だ。肩は動かなくとも指は動く。残殻の射撃は指で行うのだ。
「ジップ」
「機体の右腕が肘から先がないっす。でも、左腕と脚は動きます。速射砲も左側は生きてます」
ジップが笑った。片腕の残殻に乗る17歳が笑っている。なぜ笑えるのかカイには分からなかった。自分は笑えない。退いたら次はないと知っているからだ。
「ストーンクロス防衛隊の残殻が6機。うち完全稼働は4。残り2機は脚部に問題があるが、固定陣地なら使える」
マイロが眼鏡を押し上げながら地図の上に数字を書き加える。
「トワの機体を含めて11機。銘殻はケストレルとポラリスの2機。合計13機」
13機。
鋼城モノリスの護衛部隊はそれだけで20機を超えると聞いている。
マイロが続けた。
「弾薬は各機平均で速射砲120発分。予備弾薬は今コンラッドが持ってきた硬化鋼で追加生産できるが、せいぜい全機に30発ずつ。燃料はストーンクロスの備蓄が残り40時間分。長期戦は不可能です」
数字が並んでいく。マイロの鉛筆は止まらない。書き込むほどに足りないものの輪郭がはっきりしていく。
バートンは黙って聞いていた。全ての報告が終わるまで一言も挟まなかった。
* * *
沈黙が落ちた。
講堂の灯りが微かに明滅する。電力供給が不安定なのだ。ストーンクロスの発電設備は旧世界の残骸を修理したものであり、負荷がかかると電圧が揺れる。
バートンが口を開いた。
「数字は聞いた」
静かな声だった。声量は大きくないが講堂の隅まで届く。55年を生きた男の声だった。クレスタの管区長を務め、それを捨てて灰域に出た男の声だ。
「足りないものだらけだ。機体も弾も燃料も。我々には何もない。国もない。軍もない。旗もない。名前すらない」
バートンの目が講堂の人間を一人ずつ見た。ボルトを、マイロを、フランを、ジップを、トワを、コンラッドを。そして壁際のカイと、その隣に立つリオンを。
「だが、ここが我々の土地だ」
声は変わらない。高ぶりもしなければ震えもしない。ただ事実を述べるように言った。
「30年前に統治機構体が見捨てた土地だ。灰に埋もれ、鉄が朽ち、水が涸れた土地だ。誰も欲しがらなかった土地だ。だが我々はここで生きてきた。ここで飯を食い、ここで子を育て、ここで死んだ仲間を埋めた。この土地は我々のものだ。奪われてたまるか」
フランは目が据わったままバートンを見つめていた。ジップの笑みは消えて唇が引き結ばれ、コンラッドの指は結婚指輪の上で止まっている。
言葉が喉の奥に落ちていく感触があり、爪が食い込むほど右手を握りしめていた。
ボルトが笑った。
低い、腹の底から出る笑いだった。
「寄せ集めの連合軍か」
両腕を組んだままボルトの口元が歪む。歪み方は粗野だったが目は笑っていない。その笑っていない目の奥に、灰域で30年を生き延びた傭兵の覚悟が座っていた。
「だが、俺たちは最初から寄せ集めだ」
誰も反論しなかった。
マイロが眼鏡の奥で目を細める。トワが天井から視線を下ろして初めてまっすぐ前を見た。コンラッドが小さく息を吐き、白い息が講堂の冷たい空気に溶けて消えた。
カイの隣にはリオンがいた。
防寒外套の下で腕を体の横に下ろしている。表情は動かない。セルヴィスの軍人として訓練された顔だ。だがカイは気づいていた。リオンの右手の指先が微かに握られ、外套の布地を掴むように指が動いていることに。
カイは講堂の中を見渡した。
灰域の傭兵がいた。ボルトの下で戦ってきた男たちやフランの吊られた左腕、ジップの擦過傷。ディノの機体から取り外された部品も、格納庫のどこかで別の残殻の一部になっている。
元セルヴィスの士官、リオン・アスフォードがいた。かつて穿月銃をこちらへ向けていた女が今は外套の裾を薄く握っている。
マイロの地図の上にはクレスタの情報屋ルイ・ヴェルデが送ってきた鋼城の解析資料が重なっていた。鋼城の装甲構成、動力配置、護衛部隊の編成。金で動く情報屋がこの資料だけは対価を求めなかった。
講堂の隅の木箱の中にはラストヘイムのクレアが用意した医療品が詰まっている。消毒液、止血帯、鎮痛剤、神経回復剤。灰域の辺境集落の医師が手持ちの全てを送り出してきたのだ。
寄せ集めだった。
国を持たない傭兵と国を捨てた士官、そして国に見放された集落の長たちの寄せ集め。統一された旗も共通の軍服もない。指揮系統は即席で、通信設備はタリアが廃材で組んだ中継網に頼り、弾薬は旧世界の坑道から掘り出した鉄で鋳造する。
だが一つの目的で繋がっている。
灰域を守る。
それだけだった。それだけがこの講堂にいる全員を繋いでいた。言葉にすれば単純で、実現するには全てが足りない。だが足りないことは今に始まったことではない。灰域は30年間、足りないまま生きてきたのだ。
カイは壁から背を離して右手を開いた。薬指と小指に残る痺れが指先を冷たくしている。この手でケストレルの操縦桿を握るのだ。
バートンの目がカイを捉えた。
一瞬だけだった。首長の読めない目がカイの顔を見て視線を外す。何かを確認するような目だった。カイがここにいること、カイがまだ立っていること。それだけを確認して次の人間に目を移した。
ボルトが腕組みを解いた。
「よし。やることは決まった。マイロ、配置の詳細を詰めるぞ」
「はい。各機の燃料配分から始めましょう」
マイロの鉛筆が地図の上を走り始める。
講堂に動きが戻った。人が動き始め、声が交わされ、木箱が運ばれて地図の上で指が動く。寄せ集めの連合軍が戦争の準備を始めた。




