帰れない場所
風が止んでいる。
凍結平原を何日も叩き続けていた北西風が夕暮れと共に息を引いた。静かだ。鉄殻の駆動音も砲声も、金属が砕ける音もない。戦闘が終わって6時間が過ぎていた。
カイはストーンクロスの外壁に背を預けていた。壁は鉄板と石材を積み重ねた粗末な構造物で、弾痕がいくつも穿たれていた。3日前までは防衛線の一角だった場所だが、今は誰もいない。住民は集落の中心に退避し、傭兵たちは格納区画で機体の修復に追われている。
灰色の空が東から暗くなっていた。西の端だけが鈍い橙色に染まり、地平線の輪郭が浮かび上がっている。凍結平原が夕焼けの光を薄く反射し、霜の上に影が伸びていた。ケストレルの影だった。格納区画の外に立たせたまま冷却運転に入れている機体が、夕暮れの中で動かずに立っている。
ポケットの中で通信機が震えた。
短い振動が2回。タリアからの定時連絡の合図だった。
通信機を取り出して応答ボタンを押すと、ノイズが走った。距離300キロ。ラストヘイムの簡易通信塔とストーンクロスの通信設備を中継して繋いでいる、タリアが独学で組み上げた長距離通信網だった。音質は悪いが声は届く。
「カイ。聞こえてる?」
タリアの声は明るかった。努めて明るくしている声だった。語尾が僅かに上がるのは昔からの癖だが、今は少し硬い。作った明るさの端がほんの少しだけ震えている。
「聞こえてる」
「よかった。今日の通信状態、わりといい。ノイズが少ない」
タリアは回線の状態から話し始めた。いつもそうだ。本題に入る前に通信の話をするのが、タリアの呼吸の整え方だった。
「そっちはどうだ」
「集落は無事。建物の被害はなし。南の見張り台のアンテナが風で曲がったくらい。あたしが直した」
カイは頷いた。通信越しでは見えない。分かっていながら、それでも頷く。
「住民は」
「……まあ、無事よ。体の話ならね」
タリアの声が少し低くなり、作っていた明るさが一段剥がれた。
「みんな怖がってる。コルヴァスの部隊がストーンクロスに進軍したって話は、こっちにも届いてるから。ラストヘイムが次の標的になるんじゃないかって。ゲオルグのじいちゃんが毎晩住民を集めて話してくれてるけど、子供たちが泣き止まない夜がある」
カイは何も言えなかった。
ラストヘイムは灰域の西端にある小さな集落だ。人口200人。壁は薄く、鉄殻は残殻が2機しかない。どちらもカイが修理し続けてきた老朽機で、実戦に耐えるかどうかも怪しい。コルヴァスの正規部隊が来れば半日で落ちる。
「ロイドが夜の見回りを増やしてる。ガルドさんの工房に残ってる予備パーツで、残殻の武装を少しでも整えようって。でも、弾がないのよ。あの2機、速射砲の弾が合わせて70発もない」
70発。ケストレルのWESPEの半分以下だった。それで集落を守れるのか。守れない。カイにもタリアにも分かっていた。それでもロイドは壁を守り、タリアは通信を繋いでゲオルグは住民を落ち着かせようとしている。できることをやるしかないからだ。
通信の向こうで声がした。タリアではなく、もっと若い少し掠れた声だった。
「タリア姉ちゃん、誰と話してるの」
リックだ。
「カイよ」
タリアが答えた後、一瞬の間があった。
「カイ兄ちゃん?」
リックの声が近づいた。通信機に顔を寄せているのだろう、声がくぐもって息が荒い。走ってきたのかもしれない。
「カイ兄ちゃん、いつ帰ってくるの」
胸の奥で何かが詰まった。
いつ帰るか、だ。帰ってくるかどうかではなく、リックの中でそこは決まっている。
テオ・セヴァルは帰ってこなかった。
カイの父はある日ケストレルに乗って出ていき、二度と戻らなかった。父の背中を見送ったあの時、カイはリックと同じくらいだった。帰ってくると信じて待っていた。ずっと——いつからか、帰ってくると思っていなかったのかもしれない。
「リック」
声が震えなかったのは意識して力を入れたからだ。
「もう少しかかる」
すぐ帰るとは言えなかった。
嘘はつけない。すぐ帰れる状況ではなかった。コルヴァスの残存部隊はまだ灰域の東にいて、鋼城の影が迫っている。ストーンクロスを離れられず、帰る道が見えない。
「もう少しって、どれくらい?」
「分からない」
正直に答えるしかなかった。
通信の向こうが静かになり、リックが息を飲む音がノイズの底にあった。
「……うん。分かった。待ってる」
リックの声は小さかった。
震えを噛み殺したような声が鼓膜の奥に刺さって消えなかった。やがて通信が遠くなり、タリアが通信機を受け取ったのだろう。
「ごめん。聞こえちゃったわね」
タリアの声が戻ったが、最初に作っていた明るさは少しだけ消えていた。
「いい。聞かせてくれて助かった」
「嘘つかなかったね」
「嘘ついてどうする」
「そうね」
タリアが笑った。笑い声の中に泣きそうな震えが混じっているのがカイには聞こえた。タリアはそれを隠さなかった。隠せなかったのかもしれない。
「ちゃんと帰ってきなさいよ。壊れたらあたしが直せないからね」
「ああ」
通信が切れた。
ノイズが消えて通信機がただの冷たい金属の塊に戻る。カイはそれをポケットに戻さず掌の上で握っていた。通信機の表面に残ったタリアの声の振動が消えていくのを指先で感じていたかった。
馬鹿げている。声は届いて消えた。それだけだ。
それでも手を開けなかった。
* * *
足音が聞こえた。
霜を踏む音ではなく石畳を踏む革靴の音だ。歩幅が均等で歩調に迷いがない。
リオンだった。
防寒外套を羽織って髪を後ろで束ねている。夕暮れの橙色が髪の端を染めていた。手にはパンも水も通信機も持たず、ただ歩いてきた。
カイの隣に来て立ち止まったが、何も言わなかった。
カイも何も言わなかった。
リオンはゆっくりと腰を下ろし、カイが背を預けている外壁に同じように背を預けた。肩が触れる距離だが触れてはいない。それでも外套の布地が風に揺れれば触れるほどの隙間しかなかった。
二人とも西を見ていた。
鈍い橙色が地平線に沈んでいく。灰色の雲の底だけが染まり、凍結平原の霜が最後の光を返している。音のない夕暮れだった。風が止んでいるから何も鳴らない。鉄殻も、砲も、人の声も。
カイはリオンの横顔を見なかったが、見なくても分かる気がした。何か言うために来たのではないことだけは伝わってきた。
だがリオンがここに来たこと自体は合理で説明がつかなかった。
格納区画ではポラリスの穿月銃が冷却管の亀裂を抱えたまま待っている。リオンが一番それを知っているはずなのに、それを置いてここにいる。
通信機を握っていた右手の力が少しだけ緩んだ。
帰れない場所のことを考えていた。
ラストヘイムはカイの故郷だ。タリアやリック、ゲオルグにロイド、そして200人の住民がいる帰るべき場所だ。だが今は帰れない。300キロの距離とコルヴァスの残存部隊、そして鋼城の影がカイとラストヘイムの間に横たわっている。
帰れない場所は遠ければ遠いほど鮮明に見える。リックの声が耳の奥に残っている。いつ帰ってくるの。15歳の声が。
リオンの手がカイの視界の端にあった。
外壁の上に置かれた右手は手袋を外していた。操縦桿を握るために鍛えられた長い指だが傷は少ない。手入れの行き届いた機体に乗るセルヴィスの軍人だからだ。廃材の錆で染まり、爪の間に油が残って掌に古い火傷の跡があるカイの手とは違った。
リオンの手がカイの右手のすぐ隣にあった。通信機を握っている手から指1本分の距離だ。
どちらも動かない。
空の橙色が消えていく。夕暮れの最後の光が地平線の下に沈み、灰色が東から西へ広がっていく。気温が下がり吐いた息が白く凝結する。リオンの吐息も白い。二つの白い息が夕暮れの空に昇り、すぐに消えた。
リオンが立ち上がった。
外壁から背を離して膝を伸ばす動作は滑らかで、座っていた時間の長さを感じさせない軍人の体だ。
その時、カイの右手が動いた。
通信機を握っていた右手がリオンの外套の袖に触れた。指先が布地の端を掠めたのは一瞬だ。リオンが立ち上がる動きに合わせて、布地がカイの指先を滑り抜けていく。
意図したのかどうかカイ自身にも分からなかった。
手が勝手に動いたのか。無意識に引き留めようとしたのか。それともただ隣にあった温度に指が伸びただけなのか。
リオンは振り返らなかった。
一歩を踏み出し、二歩目を踏んで格納区画の方へ歩いていく。歩調は乱れなかった。気づかなかったのか、気づいていて何も言わなかったのか。
カイの右手の指先に外套の布地の感触が残っている。
冷たい繊維の上に体温が一瞬だけ通った気がした。通信機の金属とは違う、人の体の温度だ。
リオンの背中が格納区画の影に消えた。
カイは外壁に背を預けたまま空を見上げた。
灰色の空に星はない。灰に覆われた空にはいつも星が見えない。
右手を開くと掌の上に通信機があった。冷たかった。
指先にはもう何の感触も残っていなかった。




