リーヴの沈黙
汎殻の操縦桿が、重い。
物理的な重さではない。反応が遅い。指を動かしてから機体が応答するまでの間に、薄い膜が一枚挟まっている。ソルスティスなら存在しないはずの膜。操縦桿を倒せば、そのまま右腕が動いた。トリガーを引けば、呼吸より速く砲が火を吹いた。鋳脈のフィードバック回線がリーヴの神経と機体の駆動系を直結していたからだ。
だがこの汎殻には鋳脈接続がない。
操縦桿を倒す。信号が制御基板を経由する。制御基板が駆動系に命令を送る。駆動系がアクチュエータを動かす。アクチュエータが関節を回す。その全てが、段階を踏む。一つ一つの遅延は100分の数秒に過ぎない。だがリーヴの神経はその100分の数秒を「遅い」と感じる。銘殻の操手が汎殻に乗るとはこういうことだ。自分の体が自分のものではないような、靴の中に小石が入ったまま走り続けるような、鈍い違和感。
借り物だ。機体も、この撤退も。
コルヴァスの残存部隊は7機。
うち稼働状態にあるのは5機。残る2機は行動不能に近く、それぞれ別の機体に牽引されている。リーヴの汎殻を含めれば6機が自力で歩いているが、弾薬の残量も燃料の残量も、次の戦闘を想定できる水準ではなかった。
灰域東部の撤退路は、枯れた平原が続いていた。凍結平原を抜けて東へ4時間。風は弱いが、灰が低く漂っている。視界は300メートル。この灰が、今は味方だった。追撃者の視界も同じように塞いでくれる。
「隊長」
通信機から声が入った。シーラ・フレイズ。ヴァーグラスの操縦席から送られてくる声は、いつも通り平坦だった。だが平坦さの底に、微かな張りがある。平坦であろうとする意志。感情を押し殺すためではなく、感情を持ち込むことがリーヴの邪魔になると知っているから、そうしている。
「後方450メートルに反応がありました。灰域の野生動物です。鉄殻ではありません。ですが念のため、遊肢を展開して後方警戒に当たります」
リーヴは数秒、黙った。
後方を見た。汎殻のセンサーは銘殻に比べて解像度が低く、灰の向こうに何があるのかを正確に捉えられない。ソルスティスなら、この距離の灰を透かして動体の輪郭まで見えた。遊肢の複合センサーと本体のセンサーを統合して、死角のない索敵網を張れた。
今はそのどちらもない。
「追ってこない」
リーヴは言った。
シーラの沈黙が、回線の向こうで一瞬固まった。
「……根拠を伺ってよろしいですか」
「根拠はない」
嘘だ。根拠はある。
カイ・セヴァルがリーヴを殺さなかった。40メートルの距離で、動力を失ったソルスティスの前に立って、撃たなかった。トリガーに指をかけたまま、引かなかった。あの距離なら外しようがない。ソルスティスの胸部装甲を撃ち抜けば、コックピットの中の人間は原型を留めない。
それをしなかった人間が、敗走する残存部隊を追撃するはずがない。
分かっている。確信に近い。だがそれを口にすることは、敵の温情で生き延びたと認めることだ。コルヴァスの隊長が、部下の前でそれを言うわけにはいかない。
「了解しました。ですが後方警戒は維持します」
シーラはそれ以上問わなかった。リーヴの判断に従うと同時に、リーヴの判断が誤っていた場合の備えを怠らない。有能な副隊長だった。いつも通りだ。いつも通りの、正しい行動。
* * *
汎殻の足が、瓦礫を踏んだ。
枯れた大地の上に、建物の残骸が散乱している。かつて集落があったのだろう。コンクリートの壁の欠片。錆びた鉄骨。割れた窓枠。大崩落以前の建造物が灰に半ば埋もれて、骨格だけを晒している。
集落の跡だ。
リーヴは視線を前に固定したまま、操縦桿を微調整した。瓦礫を避ける操作が、汎殻だと2手多い。ソルスティスなら脚部の関節が自動で最適な踏み位置を計算し、鋳脈経由でリーヴの足裏に地形情報をフィードバックしてくれた。この汎殻は何も返さない。地面を踏んでいる感覚が、靴底を通して伝わるだけだ。
鈍い。
全てが鈍い。
計器盤の端に、損傷報告の一覧が表示されていた。コルヴァス全機の被害状況。ダリオの機体は右脚の関節が損傷し、歩行速度が通常の60パーセントに落ちている。フィンの汎殻は武装が全損。ナディルの機体は遊肢1基を喪失し、もう1基も姿勢制御に異常が出ている。
シーラのヴァーグラスだけが比較的軽傷だった。リオン・アスフォードとの一騎打ちで敗北したはずだが、ヴァーグラスの損傷が限定的なのは、リオンも止めを刺さなかったからだ。
同じだ。
カイもリオンも、止めを刺さなかった。勝っておきながら、殺さなかった。
甘い。
その言葉が浮かんで、リーヴは自分の口の中でそれを噛んだ。甘い。戦場で敵を見逃すことの意味を分かっているのか。見逃された側がどうなるか、分かっているのか。生き残った兵士は再編成されて、補給を受けて、再び戦場に立つ。今日見逃した敵が、明日は味方を殺す。それが戦場の原則だ。
リーヴは16歳の時にそう教わった。セルヴィスの教官が、訓練場で繰り返し叩き込んだ。撃てる時に撃て。撃てない理由を探すな。引き金を引かない指は、味方を殺す指だ。
正しい。論理として正しい。だがカイは、その正しさを知った上で、撃たなかった。
棘が刺さっている。
胸の奥の、手の届かない場所に。小さな、だが抜けない棘。カイの温情でも、カイの甘さでもない。カイが撃たなかったという事実そのものが、リーヴの中で異物として引っかかっている。
* * *
通信機が微かに鳴った。回線を開く操作はなく、部隊内の共有周波数に誰かが乗った気配だけがあった。すぐに途切れた。
ナディル・コールだ。
何か言おうとして、回線を開いて、やめた。ナディルはそういう人間だった。リーヴの沈黙を察して、声をかけようとして、かけられない。リーヴの表情を見て口を閉ざす。汎殻のコックピットに外部カメラの映像はないから、リーヴの表情が見えるはずはない。だがナディルには分かるのだ。リーヴの声のトーンで、回線の沈黙の長さで、隊長が今どういう顔をしているか。
ナディルは灰域出身だった。リーヴと同じ、灰域の孤児だった。セルヴィスに拾われて、訓練を受けて、鋳脈を施されて、コルヴァスに配属された。リーヴの5年後を歩いている人間。リーヴがかつて立っていた場所に、今ナディルが立っている。
だからナディルには分かる。リーヴが黙っている時、それがどういう種類の沈黙なのか。怒りなのか、疲労なのか、それとも――。
リーヴは通信機に手を伸ばしかけて、止めた。
何を言う。何を言えばいい。
負けた。ソルスティスは大破した。遊肢は4基全て失った。コルヴァスは死傷者を出し、作戦は失敗した。それだけの事実がある。それだけの事実を、どう言葉にすればいい。
敗北の報告なら簡単だ。数字を並べればいい。損失機数、残弾数、燃料残量、到着予想時刻。リーヴはそうしてきた。いつもそうしてきた。感情を排して、事実だけを報告する。それがコルヴァスの隊長の仕事だ。
だが今、リーヴの口は閉じたままだった。
事実の向こうに、カイの声が残っている。
――お前の中のあの灰域の子供は、そんなことを望んでいたのか。
4歳の自分が、焼けた集落の前に立っている。裸足で、泣いていて、母の手を失って。あの子供は何を望んでいた。生きることだ。ただ生きることだ。セルヴィスの汎殻に集落を焼かれて、両親を失って、焼け跡で泣いていたあの子供が望んでいたのは、明日も生きていることだった。
その子供が今、セルヴィスの操手になっている。セルヴィスの汎殻に乗っている。集落を焼いた側の機体に座って、操縦桿を握っている。
それを望んでいたのか。
リーヴは操縦桿を握る右手に力を込めた。汎殻の指が虚空を握った。何も掴めない。ソルスティスの双牙刀はない。遊肢もない。この手には何もない。
* * *
風が変わった。
西から吹いていた灰混じりの風が止み、一瞬だけ空気が澄んだ。汎殻のセンサーに、前方の地形が浮かび上がった。枯れた丘陵地帯。灰に覆われた斜面が東へ続いている。その先にセルヴィス管区東部の前線基地がある。あと6時間。この速度なら、日が沈む前に到着できる。
帰る場所がある。
セルヴィスという組織が用意した場所。整備ドックがあり、弾薬庫があり、食堂がある。温かい食事が出る――味は分からないが。寝台がある。シャワーがある。全てが用意されている。リーヴが何も考えなくても、組織が全てを用意してくれる。
その代わりに、リーヴは戦う。組織が指定した敵を、組織が指定した場所で、組織が指定した方法で排除する。それだけだ。それだけでよかった。それだけで、16年間やってきた。
フィン・カーターの汎殻が、リーヴの左後方を歩いていた。武装を全損したフィンの機体は、今は牽引要員として損傷機の支えに回っている。フィンは鋳脈を持たない。遊肢を使えない。汎殻の操手だ。だがコルヴァスの中で誰よりも汎殻を知っている。汎殻の限界を知り、限界の中で戦う術を持っている。
リーヴは今、フィンと同じ機体に乗っている。同じ汎殻に乗って、同じ操縦桿を握って、同じ鈍さに耐えている。
だがリーヴはこの鈍さに耐えられない。フィンはこの鈍さの中で、最初から戦ってきた。その差が、リーヴの手の中で鈍く軋んでいる。
灰が再び濃くなった。風が戻り、視界が200メートルまで落ちた。汎殻のセンサーが灰の粒子密度を表示している。数値だけが目に入る。数値の意味を処理する気力が、今のリーヴにはない。
隊列は乱れていなかった。シーラが後方を、ダリオが左翼を、ナディルが右翼を固めている。フィンが損傷機を支え、残る1機が中央で予備弾薬を運んでいる。コルヴァスは負けても崩れない。それだけの練度がある。それだけの練度を、リーヴが叩き込んだ。
誰も口を開かなかった。
共有周波数に音声は流れず、隊列変更の指示もなく、7機の鉄殻が灰の中を東へ歩いている。足音だけが響いていた。鉄の足が枯れた大地を踏む音。規則的で、重く、単調な音。
リーヴは操縦席の背もたれに頭を預けた。
天井の金属板が視界を覆った。汎殻の操縦席は狭い。ソルスティスより20センチ低く、左右も窮屈だ。肩が壁に触れる。圧迫感がある。だが今は、その圧迫感が嫌ではなかった。狭い箱の中に閉じ込められている方が、考えなくていい。外の灰を見なくていい。焼けた集落の跡を見なくていい。
唇が動いた。
「灰域の子供、か」
声は小さかった。通信回線には乗らなかった。操縦席の中で吐き出されて、金属の壁に吸い込まれて、消えた。
誰にも聞こえなかった。
リーヴの左手が操縦桿の上にあった。5本の指が操縦桿を握っている形をしていた。だが指先には何の感覚もなかった。握っているのか、触れているだけなのか、左手には分からない。
その手で、リーヴはソルスティスの操縦桿を握ってきた。感覚を失いながら、それでも戦ってきた。セルヴィスのために。コルヴァスのために。
誰のためだ。
汎殻の足が瓦礫を踏んだ。鈍い振動が操縦席を揺らした。リーヴは目を閉じた。
灰の中を、鉄殻の隊列が東へ歩いていく。




