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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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戦場の後

頭が割れそうだ。

 ケストレルのコックピットから降りた瞬間、地面が傾く。いや、傾いたのはカイの方だ。左足がステップを踏み外して膝が地面に落ち、冷たい石畳の感触が膝頭に響いてその振動がこめかみの奥まで突き抜けた。

 視界が白く滲んでいる。

 ストーンクロスの格納庫の天井がぐにゃりと歪み、並んだ照明灯が二重に見える。耳鳴りが止まらない。高い金属的な持続音が頭蓋の内側に貼りつき、外の音を遠ざけている。


 誰かが駆け寄ってくる足音がする。聞こえたというより感じたのだ。地面の振動が膝から腰を伝わり、鳴りやまない耳鳴りの向こう側にくぐもった音として届く。


「カイ」


 リオンの声だ。

 声は認識できるが距離感が狂っている。すぐ隣にいるはずなのに30メートル先から呼ばれているように聞こえる。リーヴとの通信越しに聞いた自分の声と同じで、近いのに遠い。耳の奥ではあの金属音がまだ鳴り続けている。


 鼻の奥が熱い。

 上唇を何かが伝い、手の甲で拭うと赤い。鼻血だ。操縦席の中で滲み始めていたものが機体を降りた途端に溢れ出し、拭っても止まらない。顎先から石畳に赤い雫が落ち、灰色の表面に小さな染みを作った。


「立てるか」


 リオンの手がカイの左腕を掴んだ。細い指だが力は確かで、カイの体を引き起こそうとしている。カイは右膝に力を入れ、リオンの腕を支えにして立ち上がる。視界がまた揺れる。胃の底から何かがせり上がってきて喉の奥で止まった。


「大丈夫だ」


 自分の声が遠い。口を動かしているのに声が頭蓋の内側で反響してから外に出る感覚があり、まともに喋れているのか自分でも分からない。


「大丈夫じゃない。顔が真っ白よ」


 リオンの声は平坦で、感情を抑えている。目だけが鋭くカイの顔を見つめ、鼻血を拭った手の甲と血の染みた石畳を一瞬だけ視線が行き来した。


 * * *


 クレアの診療所は格納庫から歩いて3分の場所にあったが、その3分が30分に感じられた。

 石畳を歩くたび、一歩ごとの振動が頭蓋に響く。リオンがカイの左腕を肩に回して体重の一部を支えていた。カイの方が背が高いため、リオンは身を低くしてカイの足取りに歩調を合わせている。


 診療所の扉を開けると消毒液の匂いが鼻を刺し、匂いの感覚はまだ生きていると知る。薄暗い室内には作業灯が一つだけ点き、白い光が簡素な診察台を照らしている。壁際に薬品棚が並んで医療器具が布の上に整列しており、灰域の診療所としては異様なほど清潔だ。


「座りなさい」


 クレアの声がする。

 背の高い女だ。白髪交じりの黒髪を後ろで束ね、袖を肘まで捲った作業着を着ている。目は冷たいが手つきは正確だ。カイが診察台に腰を下ろすとクレアの指が顎を掴み、顔を上へ向けさせる。

 ペンライトの光が右目に入り、視界が白く弾けた。左目にもまた白い光。カイは反射的に目を瞑ろうとしたが、クレアの指がしっかりと瞼を押さえていた。


「瞳孔の反応が鈍い。左の方が顕著ね」


 独り言のように言ってクレアはペンライトを消し、次にカイの右手を取って指先を1本ずつ握らせた。


「握って。もっと強く」


 言われた通りに握るが、右手の薬指と小指に力が入りにくい。指先の感覚が薄く、痺れとは違って指があるのは分かるものの、力の伝達に膜が一枚挟まっている感覚だった。


「右手の末端に感覚鈍麻。冴覚の過負荷よ」


 クレアはカイの手を離すと、棚から布を取って鼻血を拭くよう渡してきた。受け取って鼻を押さえるが布は赤く染まっていく一方で、血の止まる気配がない。


「食事は」


「……喉を通らない」


「通らないんじゃない、体が受け付けないのよ。冴覚の代償で自律神経が乱れている。嘔吐感があるでしょう」


 カイは頷いた。格納庫から歩いてくる間もずっと胃が裏返りそうだ。


「3日は鉄殻に乗るな」


 クレアの声に交渉の余地はなかった。


「冴覚の過負荷は脳の処理限界を超えた状態が続いた結果よ。神経の回復には最低でも72時間かかる。その間に鉄殻に乗れば、冴覚の感度が暴走する。頭痛と鼻血では済まなくなる」


「3日は――」


「長い。分かっている」


 クレアはカイの言葉を先回りして拾った。声のトーンは変わらず、冷静かつ事務的で感情を挟まない。


「でも今のあなたが操縦桿を握れば、計器を読む目が一拍遅れる。その指で引き金を引いて、狙ったところに当たると思う?」


 カイは答えられなかった。

 クレアの言葉は全て正しい。今この瞬間、カイの体は戦闘どころか歩行すらまともにこなせない。布を当てた鼻からはまだ血が滲んでおり、頭痛がこめかみで脈打つたびに視界が揺れるのだ。


「水だけでも飲みなさい。少しずつ。胃が受け付けるようになったら、薄い粥から始める」


 クレアは金属のカップに水を注ぎ、カイの手に持たせた。カイが一口だけ飲むと冷たい水が喉を通る。胃が痙攣するような感覚があったが吐くことはなかった。


 * * *


 リオンは診療所の壁際に立ち、クレアの診察が終わるまで一言も口を挟まなかった。腕を組んで壁に肩を預け、カイの顔とクレアの手元、そして布に広がる赤い染みを静かに見ていた。


 クレアが棚の方へ戻った時、リオンが口を開いた。


「リーヴは」


 短い問いだったが、その二文字に何枚もの過去が畳まれているのをカイは聞き取った。リオンとリーヴ。同じ灰域で同じように回収された子供たち。一方は離反し、もう一方は残った。それだけを思い出しながらカイは口を開く。


「殺していない」


 鼻を押さえた布の向こうから、くぐもった声でカイは答えた。


「動力部を壊した。機体は行動不能にした。だがコックピットは撃っていない」


 リオンは目を閉じた。瞬きより少しだけ長い一瞬だ。睫毛が頬に影を落とし、すぐにまた目が開く。その間に何かが通り過ぎたが、それが安堵なのか苦さなのか、あるいはその両方なのかカイには読み取れなかった。


「ありがとう」


 リオンは言った。感情を抑えているわけではなく、抑える必要がないほど静かにその言葉は紡がれた。


 カイには何も返せない。布を押さえた手のひらにまだFALKEの引き金の重さが残っている。あれを引かなかった指だ。正しかったのかどうか、布が吸う血と同じようにまだどこにも答えは出ていない。


 リオンはもう何も問わなかった。


 * * *


 診療所の外に出ると、夕暮れの光が石畳を赤く染める。

 灰色の雲の切れ間から差し込む光がストーンクロスの建造物の輪郭を鋭く浮かび上がらせている。凍結平原から吹き込む冷たい風が街の通りを抜けていく。


 格納庫の前に立つケストレルの姿には戦闘の痕が生々しく残っている。右腕の装甲が変形して肘の関節に引っかかったまま固まり、左脚の膝関節は半壊して脚部が内側にわずかに傾いている。胸部装甲にはソルスティスの双牙刀が刻んだ切削痕があり、鉄紺色の塗装が何カ所も剥げて下地の灰色金属が露出している。


 その足元にはガルドがいた。煙草を咥えたまま、ケストレルの脛部の装甲板を手で叩いている。装甲内部に亀裂がないか音で確かめる技匠の点検の手つきだ。叩いて耳を澄まし、次の場所を叩く。その繰り返しの中、煙草の煙が夕暮れの風に千切れて消えていく。


 カイが近づくとガルドは顔を上げた。視線がカイの顔に残る血の跡と鼻を押さえている布に止まるが、何も言わない。表情も変えず、皺の刻まれた顔は夕暮れの赤い光の中でじっと動かなかった。


 ガルドは装甲板に手を当てたままカイの方を向く。


「よく帰ってきた」


 短い言葉だ。声は低く抑揚がなかったが、その奥にテオには間に合わなかった言葉が沈んでいるのをカイは知っている。

 返す言葉はなく、鉛が詰まったように重い首をただ一度だけ落とした。


 たったそれだけの言葉が、今のカイには重い。

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