センスクラッシュ
赤い。
計器の光が赤い。それは分かる。警告灯が明滅している。左腕喪失。動力出力低下。冷却系統異常。文字が並んでいる。読める。まだ読める。
だが文字の色が、甘い。
甘い?
違う。色は甘くない。色は見るものだ。味ではない。リーヴはそう思おうとした。思おうとしたが、計器の赤が舌の奥で溶けている感覚が消えない。失ったはずの味覚が、目から入ってくる。赤い光が口の中に広がって、鉄の味がして、鉄の味は本物なのか、それとも赤い色が味に変わっただけなのか、分からない。
分からない。
操縦桿を握っている。右手が握っている。左手は――左手も握っている。握っているはずだ。だが操縦桿の感触がない。左手の指先が何も返さない。握っているのか、開いているのか。見れば分かる。見ればいい。だが目が動かない。赤い光が甘くて、視線が計器に縫い止められている。
音がした。
低い、連続した振動音。ソルスティスの駆動機関が不整脈を刻んでいる。損傷した動力系統が出力を維持しようともがく音。その音が、背中に触れた。
音が背中に触れた。
振動ではない。音そのものが、操縦席の背もたれを通り抜けて、脊椎に沿って這い上がってきた。後頭部のリレー素子が拾っているのか。鋳脈が機体の振動を神経に変換しているのか。分からない。音と触覚の境界が消えている。
* * *
焦げた匂いがする。
コックピット内の配線が過負荷で焼けているのか。焦げた樹脂の匂い。鼻が拾っている。これは正しい。匂いは鼻で感じるものだ。正しい。
だが匂いの中に、音がある。
ぱちぱちと何かが爆ぜる音。樹脂が焼ける音ではない。もっと古い音。もっと遠い音。
木が燃えている。
家の柱が燃えている。屋根が落ちてくる。灰色の空に火の粉が舞い上がって、火の粉は星みたいだと思った。4歳のリーヴがそう思った。星を見たことはなかったのに。灰に覆われた空には星は見えなかったのに、火の粉を星だと思った。
誰かが叫んでいる。
母の声だ。名前を呼んでいる。リーヴの名前を。だが声が遠い。声が遠いのではなく、声と距離の関係が壊れている。すぐ隣にいるはずなのに、声が山の向こうから聞こえる。母の手が背中を押した。走れ、と言った。走れ。
走った。
裸足で走った。地面が熱かった。焼けた土が足の裏を焦がして、痛くて、泣きながら走った。後ろを振り返った。振り返ってはいけなかったのに振り返った。
集落が燃えていた。
セルヴィスの汎殻が3機、集落の中心に立っていた。銃口から煙が上がっていた。鉄殻の足元で人が転がっていた。動かない人が何人も転がっていた。鉄の巨人が人を踏んでいた。
――リーヴ。
誰の声だ。
母の声ではない。通信越しの声。息が荒い。若い男の声。
「お前の中のあの灰域の子供は、そんなことを望んでいたのか」
カイの声だ。
今の声だ。ここの声だ。凍結平原で、ソルスティスのコックピットの中で、通信機から聞こえてくる声だ。
だがカイの声が、炎の色をしている。
橙色の音が耳の中で燃えて、燃えている音の向こうに、4歳の自分が立っている。焼けた集落の前に立って、裸足で、泣いていて、誰もいなくて。
* * *
指が動いた。
右手の指が操縦桿の上で痙攣した。動かそうとして動いたのではない。勝手に動いた。筋肉が収縮しただけだ。だがその痙攣が、ソルスティスの右手に伝わった。
ソルスティスの右手が動いた。
鋳脈のフィードバック回線が生きている。リーヴの右手の動きがソルスティスの右腕に反映されている。だがソルスティスの左腕はない。鍛翼刀に切断された。肩の切断面から火花が散っている。
左腕がない。
ソルスティスの左腕がないのか、リーヴの左腕がないのか。
目を落とした。左手はある。操縦桿の上にある。5本の指が操縦桿を握っている。握っているように見える。だが指先のフィードバックが返ってこない。触れている感覚がない。自分の手なのに、他人の手を見ているようだ。
ソルスティスの左腕は切断された。リーヴの左手は触覚を失っている。どちらも「ない」。機体の損傷と自分の損傷が同じ場所で重なっている。
境界が消える。
どこまでが自分で、どこからがソルスティスなのか。操縦席の振動は機体のものなのか、自分の心臓の鼓動なのか。計器の赤い光は機械の警告なのか、自分の神経が発している悲鳴なのか。
全部同じだ。
自分はソルスティスで、ソルスティスは自分だ。
違う。
違う。それは感覚崩壊だ。それは鋳脈の代償が脳を侵食している症状だ。自分と機体の区別がつかなくなるのは、脳の処理限界を超えた時に起こる。冴覚と鋳脈の二重負荷が神経を焼き切ろうとしている。
分かっている。分かっているのに、止められない。
知識が体を救わない。頭がどれだけ正確に診断を下しても、神経が従わない。後頭部のリレー素子が焼けるように熱い。首筋から背骨に沿って、溶けた金属が流し込まれるような感覚がある。痛みなのか熱なのか、それとも音なのか。リレー素子が発する微弱な駆動音が、痛みとして脊椎を伝わっている。
止めろ。止まれ。
命令が自分の体に届かない。操縦桿を通じてソルスティスには命令が届くのに、自分の指一本動かせない。機体の方が自分より素直だ。いや、もう機体と自分の区別がない。命令を出しているのが脳なのかリレー素子なのか、それすら曖昧になっている。
* * *
笑い声が聞こえる。
通信機からではない。記憶の中からだ。だが記憶と現在の境界も、もう溶けている。
ハルの声だ。
ハル・ブレントの笑い声。陽気で、軽くて、この部隊には似つかわしくない明るさを持った声。
「隊長、戦争が終わったら何したい?」
ハルが笑っている。野営地の焚き火の前で、缶の飲料を片手に笑っている。ナディルが隣で何か言って、ハルがそれに被せるように笑う。シーラが呆れた顔をしている。ダリオが黙って火を見ている。
リーヴは答えられなかった。
味覚を失った口で何を食べるのか。触覚の消えた手で何に触れるのか。戦争が終わった後の自分が何をするのか、想像できなかった。
「俺は故郷に帰って魚を焼く」
ハルが言った。セルヴィス管区南部の漁村で育ったハルが、魚を焼くと言って笑った。
そのハルはもういない。
凍結平原の東で、汎殻のコックピットごと撃ち抜かれて死んだ。通信越しの最後の声は、ナディルに向けた軽口だった。飯、奢れよ。帰ったら。
帰ってこなかった。
笑い声が消えない。ハルの声がコックピットの中で反響している。壁に当たって跳ね返って、操縦席を取り囲んでいる。笑い声が圧力になって、胸を押している。ハルの笑い声が、痛い。
笑い声が痛い。音が痛覚に変換されている。胸の奥が、ハルの声で軋んでいる。
* * *
魚の匂いがした。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、焼けた魚の匂いが鼻を通り抜けた。
灰域の集落で、母が魚を焼いていた。川で獲った小さな魚を串に刺して、焚き火の上で焼いていた。皮が焦げて、脂が滴り落ちて、火の中でじゅうと音を立てた。
おいしかった。
それがどんな味だったか、もう思い出せない。味覚を失ってから2年。魚の味も、パンの味も、コーヒーの味も、全て「温かい」か「冷たい」でしかない。味覚の記憶そのものが薄れていく。いつか完全に消える。母が焼いた魚の味を、永遠に思い出せなくなる。
だが今、匂いだけが戻った。匂いが味の記憶を引きずり出そうとしている。舌の上に何かが触れた気がした。焼けた皮の塩気。脂の甘さ。口の中に広がる温かさ。
あるのか。
まだ、あるのか。
味覚が。感覚が。自分の中に、まだ。
消えた。
一瞬で消えた。匂いも味も、指の隙間からこぼれ落ちるように消えて、口の中にはまた何もなくなった。計器の赤い光だけが残った。赤い光は、もう甘くなかった。ただ赤いだけだった。
* * *
自分は誰だ。
操縦桿を握っている人間。ソルスティスの中にいる人間。コルヴァスの隊長。セルヴィスの兵器。灰域の孤児。4歳で両親を失った子供。焼け跡で物乞いをしていた子供。14歳で鋳脈を受けた少年。味覚を失った20歳。左手の感覚を失い始めた操手。
どれが自分だ。
名前がある。リーヴ・シェイド。だが名前は後からつけられたものだ。4歳の時には名前の意味も分からなかった。焼け跡で泣いていた子供には名前などなかった。あの子供にセルヴィスが名前を与えて、番号を与えて、銃を与えて、鋳脈を与えた。名前の上に階級が乗り、階級の上に任務が乗り、任務の上に兵器が乗って、一番下にいた子供が見えなくなった。
全部が同時に存在して、全部が同時に崩れていく。時間の順序が分からない。今が何歳なのか分からない。ここがどこなのか分からない。操縦席の壁が集落の焼けた壁と重なって、計器の赤い光が炎の色と混ざって、カイの声とハルの笑い声と母の叫び声が全部同じ距離から聞こえてくる。
もうやめてくれ。
声にならなかった。唇が動いたが、音は出なかった。喉が詰まっている。呼吸ができているのかも分からない。胸が上下しているのは自分の肺なのか、ソルスティスの冷却ポンプなのか。
全てが遠ざかっていく。
音が、色が、匂いが、痛みが、記憶が、全部が同じ速度で遠ざかっていく。灰色の海の底に沈んでいくような感覚。何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。
自分がいない。
* * *
意識が戻った時、最初に見えたのは計器の光だった。
赤い光。ただの赤い光。色は色で、味ではなかった。警告灯が点滅している。左腕喪失。動力出力23パーセント。冷却系統異常。文字が読める。文字はただの文字だった。
音が聞こえる。駆動機関の不整な振動音。それは音であり、触覚ではなかった。背もたれを通じて伝わる物理的な振動と、耳に届く空気の波。二つは別々のものだった。
境界が戻っている。
自分はリーヴ・シェイドで、これはソルスティスのコックピットで、ここは凍結平原で、今は戦闘の後だ。
分かる。分かっている。
頬が濡れていた。
何かが目から流れ落ちている。温かい。温度だけは分かる。涙だ。自分が泣いている。いつから泣いていたのか分からない。感覚崩壊の最中に泣いていたのか、意識が戻った瞬間に流れ始めたのか。
拭おうとした。
左手を持ち上げた。指先が頬に触れた。触れたはずだ。目で見て、指が頬に当たっているのは確認できた。だが感覚がない。涙の温かさも、自分の肌の感触も、左手の指先は何も返さない。
濡れているのか乾いているのか、触れているのか離れているのか、指先には分からない。
涙を拭えない。
感覚のない左手では、涙を拭うことすらできない。
リーヴは左手を降ろした。
涙がそのまま顎を伝い、操縦服の襟を濡らした。拭わなかった。拭えなかった。
計器の赤い光が、静かに明滅していた。




