灰域の子供
ソルスティスの動力炉が沈黙した。
機関の唸りが途絶え、凍結平原に静寂が落ちる。エンジンが停止する過程で最後に吐き出した排気が白い蒸気となって背部の排気口から噴き上がり、灰色の空に溶けて消えた。
重い音がした。
ソルスティスの右膝が凍結した大地にめり込んだ。28.5トンの質量が片膝から地面に伝わって凍土を砕き、白い破片が放射状に飛散する。その衝撃はケストレルの足裏にまで届いた。鈍い振動。鉄殻が膝をつく振動だ。
赤い単眼の光が明滅した。
主機関の出力が絶たれ、補助蓄電池の残量だけで計器系統を維持している。赤い光が不規則に揺れた。強く、弱く、強く。まるで息を切らしているかのように。
散開していた4基の遊肢が動きを止めていた。
最初に制御を失ったのは東側の遊肢だ。推進ノズルの出力が途切れ、エイのような機体が凍結平原へ滑り落ちて金属と氷の擦れる甲高い音を立てた。北東の遊肢も高度を保てずにゆっくりと降下している。西と南西の遊肢は宙に浮いたままだが、どちらも砲口の向きが定まらない。操手の意志が伝わっていないのだ。
遊肢が死にかけている。本体の動力が落ちれば遊肢へのフィードバック回線も途絶える。リーヴの「10本の指の延長」が1本ずつ動かなくなっていく。
カイは操縦桿を握ったまま呼吸を整えた。
頭が痛い。こめかみの奥で圧迫感が脈打ち、視界の端がちらついている。冴覚の代償だった。鼻の奥に鉄の味がする。まだ出血はしていないが近い。右腕の装甲は変形したまま肘に引っかかり、FALKEの保持角度がずれていた。左脚の関節も半壊しており、まともに歩けるかどうかも怪しい。
満身創痍のケストレルが動力を失ったソルスティスの前に立っている。
距離40メートル。
この距離ならFALKEの1発で終わる。動力炉は既に死んでいるがコックピットは無傷だ。胸部装甲を撃ち抜けば、操手ごと鉄殻を沈められる。
カイは撃たなかった。
人差し指はトリガーの上にある。金属の感触が指先に冷たい。引けば終わる。40メートルの距離からケストレルの75ミリ弾がソルスティスの胸部を貫通すれば、コックピット内の人間は原型を留めないだろう。
灰域を焼いたのはこいつじゃない。ラストヘイムも違う。命じられた場所で命じられた通りに戦ってきた、ただの操手だ。それだけだ。
カイの指がトリガーから離れた。
* * *
通信回線が開く。
ソルスティス側から、だ。回線が繋がった瞬間、操縦席のスピーカーへ微かなノイズが流れる。荒く不規則な呼吸音が響くが、声は出ない。
カイは待った。
5秒。10秒。呼吸音だけが続く。リーヴが何かを言おうとして言葉にならないのか。それとも、何も言う気がないのに回線だけが開いたのか。
声が聞こえた。
「……甘いな」
掠れた声だった。だが嘲りの形を保とうとしている。リーヴ・シェイドの声だ。穏やかさの底に刃を隠すあの声。ただし今は、その刃が震えていた。
「止めを刺さないのか。セヴァル」
カイは通信スイッチを押した。自分の声が操縦席の壁に反射して返ってくる。息が荒い。冴覚の代償で呼吸のリズムが乱れていた。それでも言葉を押し出す。
「お前は何のために戦ってる」
沈黙。
リーヴは答えなかった。通信ノイズだけが凍結平原の上を流れていく。
「セルヴィスのためか。管区のためか。それとも、自分のためか」
「……質問に答える義務はない」
「義務じゃない。聞いてるんだ」
カイの声は低かった。怒りではない。戦闘直後の高揚でもない。もっと静かな何かが声の底にあった。
「お前が俺に言ったことがある」
リーヴの呼吸が止まる。通信の向こうで空気の流れが変わった。
「セルヴィスに来い。お前の力は灰域で腐らせるには惜しい」
カイは記憶の中からあの日の言葉を引き出した。ラストヘイムの外縁。左腕を失い右脚を砕かれた残殻のコックピット内で、4基の遊肢の銃口に囲まれながら聞いた声。穏やかで冷たく、拒否を許さない声。あの時カイは動けなかった。撃てなかった。逃げられなかった。灰域と管区の格の差を骨の髄まで叩き込まれた日だった。
今は立場が逆転している。動けないのはリーヴだ。
「あの時のお前の言葉を、そのまま返す」
カイは息を吸った。頭痛がこめかみを殴り、視界が一瞬白くなる。だが目を閉じずに言葉を続けた。
「守りたいものがあるなら、なぜ強い側につかない。なぜ鋳脈を受けない」
返事はない。
「お前はセルヴィスに拾われて、鋳脈を入れられて、操手になった。強い側に立った。管区の盾になった。それが正しいと信じて、6年間戦い続けた」
カイは一度言葉を切って計器の距離表示を見た。40メートル。外部カメラに映るソルスティスは片膝をついたまま動かない。漆黒の装甲の上に粉雪が薄く積もり始め、赤い単眼の光がまた一段と弱くなっている。
あの装甲の向こうにリーヴがいる。感覚を失いかけた左手で操縦桿を握っている。肉眼では見えないが、冴覚がそれを知っている。見えないまま、カイは問いを続ける。
「だがお前の体は壊れていく。左手の感覚が消えて、次は何だ。右手か。聴覚か。味覚はもう失ってるだろう。左手の次は右手だ。右手の次は何だ」
「黙れ」
声が割れる。リーヴの声が初めて感情を剥き出しにした。嘲りでも穏やかさでもない、生のままの拒絶だ。
「お前に俺の何が分かる。灰域の残殻乗りが。鋳脈を拒んで、冴覚だけで戦えると思い上がって。お前は何も捨てていない。何も差し出していない。その立場で、俺に説教するのか」
「差し出してないから聞けるんだ」
カイの声は揺れなかった。頭痛が酷い。視界の端が暗くなりかけ、鼻の奥の鉄の味が濃くなる。それでも言葉を止めなかった。
「お前は灰域の子供だった」
通信の向こうで息を呑む音がする。小さな音だが確かに聞こえる。リーヴの呼吸が一瞬止まり、再開するまでの空白に何かが詰まっている。
「大崩落の後、灰域の焼け跡にいた子供だ。両親を失って、物乞いをしていた子供だ。俺と同じ場所にいた。同じ灰を吸って、同じ空を見て、同じ飢えを知ってた。お前がセルヴィスに連れて行かれる前の、あの子供だ」
カイは自分の声が震え始めているのを感じた。怒りではない。冴覚の代償でもない。もっと深い場所から来る振動だった。カイもまた灰域の子供だ。灰域で生まれ、灰域で育ち、灰域の残骸から拾った鉄殻に乗って戦ってきた。
風が止んだ。
灰色の空と白い大地の間に2機の鉄殻が向かい合っている。一方は動力を失い、もう一方は満身創痍で、どちらも戦闘を続ける力を失っている。
「体を壊しながら戦い続けることを、あの子供が望んだのか。味覚を失って、左手の感覚を失って、それでも管区の盾であり続けることを。強い側にいるために自分の体を燃料にすることを。あの灰域で、焼け跡の中で、あの子供が夢見たのは、そういうことだったのか」
沈黙が長かった。
10秒、20秒と過ぎていくあいだ、耳に張りつく通信ノイズの奥でリーヴのひりついた息遣いだけが鼓膜を焦がし続ける。一定だった荒い呼気が次第に浅くひび割れ、いまにも千切れそうな不規則な擦過音となってカイの喉の奥をきつく締め上げた。
カイは待った。
それでも言葉は凍結平原の上に残されたまま。
リーヴは答えなかった。
* * *
ソルスティスの左膝が落ちた。
右膝だけで支えていた28.5トンの機体が耐えきれなくなったように崩れ、左膝が凍土にめり込んで砕けた氷片を弾き飛ばす。両膝をついたソルスティスは跪いているように見えた。漆黒の装甲が灰色の空の下で、白い大地の上で膝を折っている。
赤い単眼の明滅がさらに弱くなった。光が消えかけている。蓄電池の残量が尽きようとしており、最後の電力が通信回線の維持に使われていた。
4基の遊肢は全て地面に落ちていた。推進力を失ったエイの形が凍結平原の上に散らばっている。ソルスティスの東側と北東、西と南西にそれぞれ1基ずつ。ケストレルを囲んでいたはずの包囲網は、今や鉄くずのように地面へ転がっていた。リーヴの10本の指の延長が全て切り離されたのだ。
通信は途切れなかった。
リーヴは回線を閉じない。だが声は出さず、呼吸音だけが操縦席のスピーカーへ流れ続けている。
カイにはリーヴの姿が見えない。コックピットの中のリーヴが何をしているか、計器では分からない。
だが冴覚が微かに拾っていた。
40メートル先の操縦席の中で繰り返される一つの動作。感覚のない左手を握りしめている。開いて、握る。開いて、握る。指先が何も返さない左手をそれでも握り続けている。
カイはFALKEを下ろした。
銃口が地面を向く。ケストレルの右腕が力を抜いたように垂れ下がり、変形した装甲板がぎしりと鳴った。
撃たない。
最初から撃つつもりはなかった。
カイは通信を切らない。リーヴも切らなかった。凍結平原の上で2機の沈黙した鉄殻が向かい合ったまま時間だけが流れていく。リーヴの呼吸音が少しずつ静かになっていった。
灰色の空から雪が降り始めた。
細かい粉雪がソルスティスの漆黒の装甲に白い点を散らしていく。跪いた鉄殻の肩に、背部の遊肢懸架アームに、砕けた凍土の上に。音もなく降り積もる雪が戦闘の痕跡を少しずつ覆い隠していく。
カイはこめかみを押さえた。頭痛が引かない。鼻血が上唇を伝って顎先から雫が落ちた。操縦桿のグリップに赤い点が一つ落ちて革に染み込む。戦闘の終了と同時に冴覚の代償が一気に押し寄せてきていた。視界が狭まり、耳鳴りが始まっている。高く金属的な音。自分の体が限界を訴えているのだ。
それでも通信を切らなかった。
リーヴの呼吸が聞こえなくなるまでカイはその場に立ち続けた。ケストレルの満身創痍の装甲に粉雪が降り積もり、鉄紺色の塗装を白く覆っていく。計器の燃料残量計が点滅していた。ケストレルもまた限界が近い。
だが立っている。
2機の鉄殻が凍結平原の上で向かい合っている。一方は跪き、一方は立っている。そのどちらにも、もう戦う力は残っていなかった。




