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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄の鳴く夜

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209/218

灰域の子供

 ソルスティスの動力炉が沈黙した。

 機関の唸りが途切れ、凍結平原に静寂が落ちた。エンジンが停止する過程で最後に吐き出した排気が、白い蒸気となって背部の排気口から噴き上がり、灰色の空に溶けて消えた。

 重い音がした。

 ソルスティスの右膝が、凍結した大地にめり込んだ。28.5トンの質量が片膝から地面に伝わり、凍土が砕けて白い破片が放射状に飛散した。その衝撃がケストレルの足裏にまで届いた。鈍い振動。鉄殻(てっかく)が膝をつく振動だ。

 赤い単眼の光が、明滅した。

 主機関の出力が断たれ、補助蓄電池の残量だけで計器系統を維持している。赤い光が不規則に揺れた。強く、弱く、強く。まるで息を切らしているように。


 遊肢(ゆうし)4基が、散開を止めていた。

 東側の遊肢(ゆうし)が最初に制御を失った。推進ノズルの出力が途切れ、エイのような機体が凍結平原の上に滑り落ちて、金属と氷が擦れる甲高い音を立てた。北東の遊肢(ゆうし)が高度を保てず、ゆっくりと降下している。西と南西の遊肢(ゆうし)は宙に浮いたまま、だがどちらも砲口の向きが定まらない。操手(そうしゅ)の意志が伝わっていない。

 遊肢(ゆうし)が死にかけている。本体の動力が落ちれば、遊肢(ゆうし)へのフィードバック回線も途絶える。リーヴの「十本の指の延長」が、一本ずつ動かなくなっていく。


 カイは操縦桿を握ったまま、呼吸を整えた。

 頭が痛い。こめかみの奥で圧迫感が脈打っていて、視界の端がちらついている。冴覚(さいかく)の代償だった。鼻の奥に鉄の味がする。まだ出血はしていないが、近い。右腕の装甲が変形したまま肘に引っかかり、FALKEの保持角度がずれている。左脚の関節は半壊し、まともに歩けるかどうかも怪しい。

 満身創痍のケストレルが、動力を失ったソルスティスの前に立っている。

 距離40メートル。

 この距離なら、FALKEの1発で終わる。動力炉は既に死んでいるが、コックピットは無傷だ。胸部装甲を撃ち抜けば、操手(そうしゅ)ごと鉄殻(てっかく)を沈められる。


 カイは撃たなかった。

 人差し指がトリガーの上にある。金属の感触が指先に冷たい。引けば終わる。ケストレルの75ミリ弾が40メートルの距離でソルスティスの胸部を貫通すれば、コックピットの中の人間は原型を留めない。

 指は動かなかった。

 リーヴが嫌いなわけではない。憎んでいるわけでもない。灰域(アッシュランド)を焼いたのはリーヴではない。ラストヘイムを襲ったのもリーヴではない。リーヴはただ、命じられた場所で、命じられた通りに戦ってきた操手(そうしゅ)だ。

 カイの指がトリガーから離れた。


 * * *


 通信回線が開いた。

 ソルスティス側からだった。回線が繋がった瞬間、操縦席のスピーカーに微かなノイズが流れた。呼吸音。荒い、不規則な呼吸。だが声は出ない。

 カイは待った。

 5秒。10秒。呼吸音だけが続いた。リーヴが何かを言おうとして、言葉にならないのか。それとも、何も言う気がないのに回線だけが開いたのか。


 声が聞こえた。


「……甘いな」


 掠れた声だった。だが嘲りの形を保とうとしている。リーヴ・シェイドの声だ。穏やかさの底に刃を隠す、あの声。ただし今は、刃が震えていた。


「止めを刺さないのか。セヴァル」


 カイは通信のスイッチを押した。自分の声が操縦席の壁に反射して返ってくる。息が荒い。冴覚(さいかく)の代償で呼吸のリズムが乱れている。それでも言葉を押し出した。


「お前は何のために戦ってる」


 沈黙。

 リーヴは答えなかった。通信のノイズだけが、凍結平原の上を流れた。


「セルヴィスのためか。管区のためか。それとも、自分のためか」


「……質問に答える義務はない」


「義務じゃない。聞いてるんだ」


 カイの声は低かった。怒りではない。戦闘の直後の高揚でもない。もっと静かな何かが、声の底にあった。


「お前が俺に言ったことがある」


 リーヴの呼吸が止まった。通信の向こうで、空気の流れが変わった。


「セルヴィスに来い。お前の力は灰域(アッシュランド)で腐らせるには惜しい」


 カイは自分の記憶の中から、あの日の言葉を引き出した。ラストヘイムの外縁。左腕を失い、右脚を砕かれた残殻(ざんかく)のコックピットの中で、遊肢(ゆうし)4基の銃口に囲まれながら聞いた声。穏やかで、冷たくて、拒否を許さない声。あの時カイは動けなかった。撃てなかった。逃げられなかった。灰域(アッシュランド)と管区の格の差を、骨の髄まで叩き込まれた日だった。

 今、立場が逆転している。動けないのはリーヴだ。


「あの時のお前の言葉を、そのまま返す」


 カイは息を吸った。頭痛がこめかみを殴った。視界が一瞬白くなった。だが目を閉じず、言葉を続けた。


「守りたいものがあるなら、なぜ強い側につかない。なぜ鋳脈(ちゅうみゃく)を受けない」


 沈黙が深くなった。

 凍結平原の風が、2機の鉄殻(てっかく)の間を吹き抜けた。氷の粒を含んだ風が、ケストレルの変形した装甲板の隙間に入り込み、甲高い音を立てた。


「……何が言いたい」


 リーヴの声が、僅かに硬くなった。嘲りの仮面が薄くなっている。


「お前の左手、もう感覚ないだろう」


 通信が途切れた。

 一瞬。0.5秒にも満たない空白。そして再び繋がった。リーヴが回線を切ろうとして、切れなかったのか。切らなかったのか。


「……何を根拠に」


冴覚(さいかく)で見た」


 カイは言った。嘘はない。この戦闘で見た全てを、声に乗せた。


遊肢(ゆうし)の軌道がぶれていた。右手の管轄は正確なのに、左手の管轄だけが0.3秒遅れる。南西の遊肢(ゆうし)が軌道を外側にはらんだ時、お前の左手が操縦桿のフィードバックを返せていなかった」


 沈黙。


「お前の鋳脈(ちゅうみゃく)が、お前の神経を食ってる。左手の指先から。6年かけて、少しずつ」


「……だから何だ」


 リーヴの声が低くなった。だが低さの中に、刃ではない何かが混じっていた。


「強い側につけと言ったのは俺だ。鋳脈(ちゅうみゃく)を受けて強くなれと言ったのも俺だ。それで俺の体が壊れていくなら、それは俺の選択の代価だ。お前に同情される覚えはない」


「同情じゃない」


 カイは言い切った。


「強い側が正しいなら、お前の体が壊れていくのも正しいのか」


 返事がなかった。


「お前はセルヴィスに拾われて、鋳脈(ちゅうみゃく)を入れられて、操手(そうしゅ)になった。強い側に立った。管区の盾になった。それが正しいと信じて、6年間戦い続けた」


 カイは一度、言葉を切った。計器の距離表示を見た。40メートル。外部カメラに映るソルスティスは、片膝をついたまま動かない。漆黒の装甲の上に粉雪が薄く積もり始めている。赤い単眼の光が、また一段弱くなった。

 あの装甲の向こうに、リーヴがいる。感覚を失いかけた左手で操縦桿を握っている。カイには見えないが、冴覚(さいかく)がそれを知っている。操縦席の中で、リーヴはきっと真っ直ぐ前を見ている。カイの残殻(ざんかく)ではなくケストレルを見ている。あの穏やかな目で。だがその穏やかさの底で、今、何かが揺れている。


「だがお前の体は壊れていく。左手の感覚が消えて、次は何だ。右手か。聴覚か。味覚はもう失ってるだろう。それでも強い側が正しいのか。体が全部壊れても、正しいのか」


「黙れ」


 声が割れた。リーヴの声が、初めて感情を剥き出しにした。嘲りでも穏やかさでもない、生のままの拒絶だった。


「お前に俺の何が分かる。灰域(アッシュランド)残殻(ざんかく)乗りが。鋳脈(ちゅうみゃく)を拒んで、冴覚(さいかく)だけで戦えると思い上がって。お前は何も捨てていない。何も差し出していない。その立場で、俺に説教するのか」


「差し出してないから聞けるんだ」


 カイの声は揺れなかった。頭痛が酷い。視界の端が暗くなりかけている。鼻の奥の鉄の味が濃くなった。それでも言葉を止めなかった。


「お前は灰域(アッシュランド)の子供だった」


 通信の向こうで、息を呑む音がした。小さな音。だが確かに聞こえた。リーヴの呼吸が一瞬止まり、再開するまでの空白に、何かが詰まっていた。


大崩落(ダウンフォール)の後、灰域(アッシュランド)の焼け跡にいた子供だ。両親を失って、物乞いをしていた子供だ。俺と同じ場所にいた。同じ灰を吸って、同じ空を見て、同じ飢えを知ってた。お前がセルヴィスに連れて行かれる前の、あの子供だ」


 カイは自分の声が震え始めているのを感じた。怒りではない。冴覚(さいかく)の代償でもない。もっと深い場所から来る振動だった。カイもまた灰域(アッシュランド)の子供だった。灰域(アッシュランド)で生まれ、灰域(アッシュランド)で育ち、灰域(アッシュランド)の残骸から拾った鉄殻(てっかく)に乗って戦ってきた。リーヴとカイの分岐点は、セルヴィスの「孤児保護」プログラムに回収されたか、されなかったか。それだけだ。


「あの灰域(アッシュランド)の子供は、こんなことを望んでいたのか」


 風が止んだ。

 凍結平原の上で、風が止んだ。灰色の空と白い大地の間に、2機の鉄殻(てっかく)が向かい合っている。片方は動力を失い、片方は満身創痍で、どちらも戦闘を続ける力を持っていない。


「体を壊しながら戦い続けることを、あの子供が望んだのか。味覚を失って、左手の感覚を失って、それでも管区の盾であり続けることを。強い側にいるために自分の体を燃料にすることを。あの灰域(アッシュランド)で、焼け跡の中で、あの子供が夢見たのは、そういうことだったのか」


 沈黙が、長かった。

 10秒。20秒。通信は繋がったまま、リーヴの呼吸音だけが聞こえていた。荒い呼吸が、少しずつ不規則になっていく。嘲りの声は返ってこなかった。拒絶の声も返ってこなかった。

 カイは待った。

 答えを求めているわけではなかった。リーヴが答えられないことは分かっていた。今この瞬間に答えが出る問いではない。だが言わなければならなかった。リーヴの中に刺さる棘として、残らなければならない言葉だった。


 リーヴは答えなかった。


 * * *


 ソルスティスの左膝が落ちた。

 右膝だけで支えていた28.5トンの機体が、耐えきれなくなったように崩れた。左膝が凍土にめり込み、砕けた氷片が弾け飛んだ。両膝をついたソルスティスは、跪いているように見えた。漆黒の装甲が灰色の空の下で、白い大地の上で、膝を折っている。

 赤い単眼の明滅がさらに弱くなった。光が消えかけている。蓄電池の残量が尽きようとしている。最後の電力が、通信回線の維持に使われていた。

 遊肢(ゆうし)4基は全て地面に落ちていた。推進力を失ったエイの形が、凍結平原の上に散らばっている。ソルスティスの東側に1基、北東に1基、西と南西にそれぞれ1基。ケストレルを囲んでいたはずの包囲網が、今は鉄くずのように地面に転がっている。リーヴの十本の指の延長が、全て切り離された。


 通信は途切れなかった。

 リーヴは回線を閉じなかった。だが声は出なかった。呼吸だけが、操縦席のスピーカーに流れ続けている。


 カイにはリーヴの姿が見えない。コックピットの中のリーヴが何をしているか、計器では分からない。

 だが冴覚(さいかく)が、微かに拾っていた。

 40メートル先の操縦席の中で、一つの動作。繰り返される動作。感覚のない左手を、握りしめている。開いて、握る。開いて、握る。指先が何も返さない左手を、それでも握り続けている。


 カイはFALKEを下ろした。

 銃口が地面を向いた。ケストレルの右腕が力を抜いたように垂れ下がり、変形した装甲板がぎしりと鳴った。


 撃たない。

 最初から、撃つつもりはなかった。


 カイは通信を切らなかった。リーヴも切らなかった。凍結平原の上で、2機の沈黙した鉄殻(てっかく)が向かい合ったまま、時間だけが流れた。リーヴの呼吸音が、少しずつ静かになっていく。


 灰色の空から、雪が降り始めた。

 細かい粉雪が、ソルスティスの漆黒の装甲の上に白い点を散らしていく。跪いた鉄殻(てっかく)の肩に、背部の遊肢(ゆうし)懸架アームに、砕けた凍土の上に。音もなく降り積もっていく雪が、戦闘の痕跡を少しずつ覆い隠していく。


 カイはこめかみを押さえた。頭痛が引かない。鼻血が上唇を伝い、顎先から雫が落ちた。操縦桿のグリップに赤い点が一つ落ちて、革に染み込んだ。冴覚(さいかく)の代償が、戦闘の終了と同時に一気に押し寄せてきている。視界が狭くなっている。耳鳴りが始まっていた。高い、金属的な音。自分の体が限界を訴えている。

 それでも通信を切らなかった。

 リーヴの呼吸が聞こえなくなるまで、カイはその場に立ち続けた。ケストレルの満身創痍の装甲に粉雪が降り積もり、鉄紺色の塗装が白く覆われていく。計器の燃料残量計が点滅していた。ケストレルもまた、限界が近い。

 だが立っている。

 2機の鉄殻(てっかく)が、凍結平原の上で向かい合っている。片方は跪き、片方は立っている。そのどちらにも、もう戦う力は残っていなかった。


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