覚醒の余波
こめかみの奥で脈が打っている。
鈍く重く、頭蓋の内側を叩くような鼓動。カイ・セヴァルは行動不能の残殻のコックピットに背中を預けたまま息を吐いた。鼻の奥に生温いものが満ちて喉の奥へ垂れる。鉄の味にむせて咳き込む。口で息をするとまた垂れた。手の甲で乱暴に拭うと赤い筋が手首まで伸びた。
鼻血だ。
コックピットの計器はほとんど沈黙している。装甲健全度の表示は左腕が真っ赤に点滅し、右脚が黄色と赤の境界で揺れていた。燃料残量計は21%。指は操縦桿を探したがもう倒す先がなかった。
左の外装パネルが内側にへこんでカイの肘を圧迫していた。狭いコックピットの中で自分の呼吸の音が金属の壁に反射して返ってくる。
リーヴの銘殻が撤退していく振動が地面を通じて足裏に伝わる。重い。あの機体の重量が大地を揺らしている。遊肢の推進音が遠ざかっていく。高い金属的な唸り。
遠ざかってもなお耳の奥にあの音が残っていた。散開した瞬間の空気を引き裂くような甲高い風切り音。
「カイ!」
コックピットの外から声が降ってきた。ガルドだった。ハッチの隙間から赤葉の煙草の辛い匂いが流れ込む。煙草の煙と砂塵が混じったガルドの作業場の匂い。
カイは応えようとしたが声が出なかった。唾を飲み込むと鉄の味がして喉の奥に砂が張りついていた。呼吸のたびに胸が軋むように痛む。
「生きてるか」
「……ああ」
掠れた声しか出なかった。
ガルドの手がハッチを引き剥がした。ボルトの一つが振動で外れかけており、錆びた蝶番が嫌な音を立てる。コックピットの中に灰色の空が広がった。外の光が目を刺してカイは思わず目を細める。秋の風が汗の引いた肌を刺す。冷たい。
ガルドがカイの腕を掴んで引きずり出した。コックピットの縁が背中を擦って鈍い痛みが走る。肘を圧迫していたパネルから腕を抜くとき、しびれた指先がうまく開かなかった。狭い座席に何分閉じ込められていたのか自分でも分からない。足が地面に着いた途端に地面が傾いているように感じた。
「馬鹿が」
ガルドの声は怒っていたが、腕を支える手は震えている。痩せた体のどこにこんな力があるのか、カイの体重を片腕で受け止める肩は岩のように硬かった。作業着から油と金属粉の匂いがした。物心ついた頃からこの匂いの隣にいた。
「歩けるか」
「歩ける」
嘘だった。一歩踏み出した途端に膝が抜け、前のめりに崩れかけてとっさに地面へ手をつく。掌に砂利が食い込む。立ち上がろうとしても腕に力が入らない。あの銘殻に何もできなかった。逃げる背中を見送っただけだ。砂を掴んだ指に行き場のない力がこもる。ガルドの手が襟首を掴んで引き起こした。
* * *
クレアの診療所は廃工場の片隅を仕切った薄暗い空間だった。
ガルドに肩を借りてここまで歩いたが途中の道は覚えていない。気づくと診療所の入口の段差を踏み外しかけ、ガルドの腕に引き戻されていた。
天井の低いコンクリートの部屋。壁際の棚には消毒液と包帯が詰まっている。灯油ランプが黄色い光を揺らして罅割れた天井に影を落としていた。消毒液の刺すような匂いが鼻をつく。
クレア・アシュバーンは丸眼鏡を押し上げてカイの瞳孔にペンライトを当てた。光が目を刺す。あの戦闘で見た灰色の世界が一瞬よぎり、カイは思わず顔を背けた。
「動くな」
クレアの声は短く有無を言わせなかった。
「瞳孔反応は正常。打撲が数箇所。肋骨にひびはなし。軽い脳震盪の兆候がある。あと、右肘の擦過傷。浅いから縫わなくていい」
クレアの声は淡々としていたが眼鏡の奥の目は厳しい。左手の曲がった薬指と小指が包帯を切るハサミを器用に操っている。セルヴィス脱走時に折れた骨が適切に治療されなかった後遺症だ。灰域の医師の手はそういう手だ。
冷たい消毒液を染ませたガーゼがこめかみに当たる。染みる痛みにカイは歯を食いしばった。クレアの手は痛みに容赦がないが乱暴ではなかった。傷の縁を一定の力でなぞっていく手つきに迷いはない。カイは大人しくその手に任せていた。
「あんた、戦闘中に何か変わったことがなかった?」
カイはベッドに腰を下ろしたままクレアを見上げた。古いベッドの板が体重を移すたびに軋む。湿った敷布の匂いと自分の汗の匂いが混じる。さっきから喉が渇いていたが水をくれとは言えなかった。
「変わったこと」
「視界が変わったとか。音が遠くなったとか」
カイは黙った。
フィンとの戦闘で相手の機体の右肩が僅かに沈んだ瞬間。その先の挙動が始まる前にカイの残殻は左へ跳んでいた。操縦桿を倒した感覚すら曖昧だった。体が頭より先に反応していた。
そしてリーヴの遊肢が展開した時。世界から色が消えかけた。灰色の幕が視界に落ちて音が遠のき、自分の心臓の音だけが残った。あの瞬間カイは確かに何かを「見た」。
「……色が消えた」
「何?」
「一瞬だけ。視界から色がなくなった。灰色になって、音が消えて。それで、相手の動きが――」
カイは言葉を探した。
「分かった。分かった気がした」
言いかけて口を閉じた。喉の奥にまだ砂が張りついている。
クレアの表情が変わった。眼鏡の奥の目が鋭くなる。医師の目ではなかった。ペンライトを棚に戻す手が一瞬だけ止まる。
「冴覚の発現だ」
カイは聞き覚えのない言葉を繰り返した。
「さいかく」
「脳が、ふだんの何倍も速く回る状態。五感が研ぎ澄まされて、相手の動きの兆しを先に拾う。滅多に出る力じゃない」
クレアは包帯を巻く手を止めなかった。次の言葉を口にする前に一度だけ唇を結ぶ。
「だが脳に負荷がかかる。使いすぎれば壊れる。今日のは軽い方だ。こめかみの頭痛と鼻血。次に使う時は、もっと重くなる」
カイは自分のこめかみに触れた。まだ脈動が残っている。押さえても引かない。手の甲には乾いた鼻血が茶色くこびりついていた。爪で擦るとぼろぼろと剥がれて膝に落ちた。
ガルドが診療所の隅で腕を組んでいた。煙草の煙が天井に薄く漂っている。何も言わない。普段の飄々とした調子がどこにもなく、こちらを見ようともしない。
クレアは静かに付け加えた。
「セルヴィスでは冴覚持ちは最優先の回収対象。冴覚に加えて鋳脈を施せば、最強の操手になる。だがその代償は……」
クレアの声が止まった。視線がガルドへ向くと、彼は目を逸らした。
沈黙が流れた。消毒液の匂いの中に赤葉の煙の苦みが混じる。灯油ランプの炎が揺れ、二人の影が壁の上でぶれた。
問う気力もなかった。頭が重すぎた。
ガルドが遺灰酒の瓶を棚から取り出しかけてやめた。瓶に触れた指先が引っ込む。
診療所を出る際、カイに背を向けたまま呟いた。
「お前の親父も、最初は同じだった」
それだけ言って出て行った。作業靴が砂を踏む音が遠ざかっていく。
カイは天井を見つめた。コンクリートの罅割れた天井。灯油ランプが黄色い光を落としている。
父も同じだったのか。
10歳の記憶が蘇る。膝に乗せられ、操縦桿に手を添えられた。「深呼吸を一つ」と言ったあの低い声。
こめかみの奥でまだ脈が打っていた。




