綻びの左手
読むな。誘え。
カイは操縦桿を左に倒し、ケストレルを旧建造物の残骸に向けて走らせた。
凍結平原の東端に、大崩落で半壊した工場跡が連なっている。壁面が崩れ、鉄骨が剥き出しになり、天井のない構造体が灰色の空に骨格を晒している。高さ12メートルほどの壁が断続的に残り、その間を幅8メートルほどの通路が走っていた。瓦礫の迷路だ。
遊肢の弾幕を受けながら走り抜けるには狭い。だが逆に、遊肢の射線を制限するには十分な障害物だった。
東側の遊肢が追いかけてくる。20ミリの連射がケストレルの背後を叩いたが、崩れかけた壁の角を曲がった瞬間、弾道が壁面に弾かれた。コンクリートの破片が飛散し、白い粉塵が舞い上がる。
射線が通らない。
遊肢が高度を上げて壁を越えようとする気配を、計器のレーダーが捉えた。上昇中の遊肢は横方向の機動が鈍る。カイはその1秒を使って次の壁の影に滑り込んだ。
北東の遊肢は高い位置にいる。建造物の壁を越えて上方から撃ち下ろそうとしている。だが天井の残骸が邪魔をしていた。崩れかけた梁と鉄骨が、上空からの直線的な射線を遮っている。完全ではない。隙間から弾は来る。だが精密な射撃は不可能だった。
20ミリ弾が鉄骨に当たって跳弾した。金属が弾ける甲高い音が連続して響く。弾道が逸れている。上方の遊肢の射撃精度が落ちた。
西と南西の遊肢が回り込もうとしていた。カイはレーダーの反応位置を確認した。建造物の残骸の外側を迂回している。包囲を維持しようとしている。だが回り込むには時間がかかる。直線的に追えない。障害物が遊肢の機動を制限していた。
カイは建造物の通路を走りながら、意識の隅で遊肢4基の位置を追い続けた。東が壁の向こうで高度を変えている。北東が上空で旋回している。西が外を回っている。南西も外を回っている。
4基がばらけた。
包囲の円が歪んでいる。建造物の残骸が、遊肢の等間隔配置を崩していた。4基が同時にケストレルを捉えられない。最大でも2基の射線しか通らない。
それがカイの狙いだった。
遊肢を4方向から2方向に絞る。読まなくていい。遊肢が通れる経路は、地形が決める。
* * *
リーヴは気づいた。
カイの動きが変わっていた。それまでの走行パターンと違う。遊肢の弾幕から逃げているように見えて、移動経路に一貫性がある。建造物の通路を北東に向かって走りながら、常に遊肢の展開を東側に寄せている。
逃げではない。
誘導だ。
ソルスティスが歩行速度を上げた。距離400。ソルスティスの赤い単眼がケストレルの位置を追っている。リーヴは遊肢の配置を修正しようとした。西と南西の2基を急速に東側へ回し、包囲を再構築する。
だが遅い。
カイは建造物の壁を盾にしながら、さらに北東方向に走った。ケストレルの逆関節の脚が瓦礫を蹴り、砕けたコンクリートの破片が後方に飛んだ。左脚が軋んだ。被弾した左脚の損傷が、加速のたびに操縦席に振動を伝えてくる。膝関節のアクチュエータが正常な出力を出せていない。踏み込みの反応が0.2秒ほど遅れている。
それでもカイは走った。歯を食いしばり、ペダルを深く踏み込む。遅れた分を体で補正する。計器が左脚の構造体警告を点滅させているが、目を逸らした。今は止まれない。
東側の遊肢が壁の切れ目から射線を通した。20ミリの2連射。カイは壁の反対側に体を寄せて回避した。弾丸が壁面を抉り、コンクリートの粉塵が操縦席の外部カメラを白く染めた。視界が一瞬、乳白色に塗り潰される。
計器に頼った。レーダーの反応位置だけを見て、次の壁の影に滑り込む。粉塵が晴れる前に移動を完了した。
北東の遊肢が降下してきた。梁の隙間を潜り、低い高度で建造物の内部に入ろうとしていた。カイはWESPEを上に向けて3発撃った。30ミリ弾が梁の隙間を抜け、降下中の遊肢の前方を通過した。遊肢は急制動をかけ、上昇に転じた。
当てにいっていない。進入を阻止するための3発だった。
WESPE残弾154。
遊肢が建造物の中に入れない。外側を回るしかない。回り込む間に、カイは位置を変える。追いつけない。
4基の遊肢が、カイの移動に引きずられて東寄りに偏り始めた。
* * *
距離350。
ソルスティスの本体が建造物の残骸の縁に到達した。リーヴは本体を残骸の中に入れなかった。10.8メートルの機体には通路が狭すぎる。だが距離350なら、本体のWESPEが届く。
ソルスティスの両前腕の内蔵機関砲が、初めて火を噴いた。
30ミリの連射が建造物の壁を貫通した。壁ごと撃ち抜いてくる。コンクリートの壁が30ミリ弾の連射で粉砕され、内部の鉄筋が千切れて飛んだ。壁の破片がケストレルの胸部装甲に当たり、軽い衝撃が操縦席に伝わった。直撃ではない。壁を貫通した弾丸は減速し、精度も落ちている。だが壁が盾にならなくなった。
カイは舌打ちした。
本体が参戦した。遊肢の弾幕に加えて、本体の30ミリが加わった。壁を盾にする戦術の賞味期限が切れかけている。
だが、まだだ。
カイは冴覚を研ぎ澄ませた。ここだ。リーヴが本体のWESPEを撃ったということは、本体の操作に意識の帯域を割いているということだ。遊肢4基と本体を同時に操る。それがリーヴの強さだが、同時に最も負荷がかかる瞬間でもある。
カイは意識を絞り込んだ。
呼吸を一つ、落とす。
色が薄れた。音が遠くなった。エンジンの振動が消え、30ミリ弾が壁を砕く轟音が消え、計器のアラート音が消えた。灰色の世界がさらに深い灰色に沈んでいく。水底に落ちていくような感覚。光も音も届かない場所へ。
残ったのは心臓の鼓動だけだった。
そして――350メートル先の操縦席にいる人間の気配。
リーヴの兆し。
鋭く、冷たく、揺らぎのない周波数。操手としての純度が、刃物のように冴覚に触れる。本体の射撃操作、遊肢4基の位置制御、ケストレルの位置予測。全てを同時に処理している神経の、その総量が――
多い。
人間一人の神経が処理できる量を超えている。鋳脈のリレー素子が神経伝達を増幅し、通常ではあり得ない帯域幅を実現している。リーヴの兆しは一人の人間のものではない。拡張された神経系を持つ、改造された人間の周波数だった。
その兆しの中に、カイは違和を見つけた。
ほんの一瞬。0.5秒にも満たない揺らぎ。
リーヴの兆しの「左側」が、微かに鈍った。
冴覚が拾ったのは、リーヴの左手が操縦桿を握り直す動作だった。右手は滑らかに動いている。本体の射撃操作に淀みがない。だが左手が、操縦桿を握り直すたびに0.1秒だけ遅れる。握り直しているのではない。握れていないのだ。指先のフィードバックが欠落している。操縦桿の位置を指の感覚で確認できないから、視覚で補正している。その補正に0.1秒かかる。
左手の触覚。
リーヴの鋳脈の代償。
灰色の世界が戻った。カイは目を開けた。
計器の数字が再び目に入った。遊肢のレーダー反応。本体の距離表示。弾薬残量。燃料残量。全てが一度に流れ込んできて、感覚が飽和する。頭が痛い。冴覚を使うたびに、こめかみの奥で何かが押し広げられるような圧迫感がある。鼻の奥に鉄の味がした。まだ出血はしていない。だが限界が近づいている兆候だった。
だが今、見えた。
リーヴの左手が遅い。
最強の操手の、最も隠された綻び。
* * *
確認しなければならなかった。
冴覚で拾った0.1秒の遅れが本物なのか、カイの錯覚なのか。それを見極める方法は一つしかない。リーヴの左手に負荷をかけて、遊肢の動きに現れるかどうかを見る。
カイは建造物の通路を抜け、開けた場所に飛び出した。
壁の保護がなくなる。凍結平原の白い大地が前方に広がり、遮蔽物のない空間にケストレルが1機、剥き出しになった。遊肢の射線が一気に通る。東側と北東の遊肢が即座に反応した。20ミリの連射が左右から挟み込むように飛んでくる。
カイはFALTERを噴かした。背部のスラスターが炎を吐き、ケストレルが斜め前方に跳ぶ。2方向からの射線が交差する地点を、加速で抜けた。凍結した地面を蹴り、着地の衝撃が左脚に走る。関節が悲鳴を上げた。
着地と同時にFALKEを構えた。右腕の変形した装甲が肘関節に引っかかり、照準が一瞬ぶれた。構わない。狙いはソルスティスの本体ではない。
カイはソルスティスの左側に向けて撃った。FALKE、2連射。75ミリ弾の発射反動がケストレルの右腕を揺らし、変形した装甲板が嫌な音を立てた。
弾丸はソルスティスの左方15メートルを通過した。当てる気はない。リーヴの左側に脅威を作る。左手で操作しなければならない状況を、意図的に作り出す。
リーヴは反応した。ソルスティスが右に横歩きして弾道を避けた。同時に、遊肢の配置を調整した。左側からの射撃に対応するため、西側の遊肢を手前に引き寄せる。
その操作は左手の管轄だった。
西側の遊肢が動いた。
――遅い。
0.3秒。他の遊肢に比べて、明らかに反応が遅れた。命令を出してから遊肢が動き始めるまでの間に、0.3秒の空白がある。東側と北東の遊肢は瞬時に反応したのに、西側だけが鈍い。
偶然ではなかった。
FALKE残弾37。弾は惜しい。だが確認のためなら安い。
カイはもう一度FALKEを撃った。今度はソルスティスの左下方、脚部に向けて1発。
リーヴは左脚を引いて回避した。動き自体は速い。本体の機動には衰えがない。同時に南西の遊肢が射線を変えようとした。
南西の遊肢の軌道が、ぶれた。
わずかに。2メートルほど。予定された軌道から外側に膨らみ、0.2秒かけて修正された。他の遊肢なら一直線に動くはずの経路が、一度外にはらんでから戻った。
カイの呼吸が速くなった。
見えた。2回目だ。左手の操作領域にある遊肢が、軌道をぶらしている。右手の操作領域の遊肢は正確無比なのに、左手の管轄だけが揺らぐ。
リーヴの左手の触覚が、失われかけている。操縦桿を握る指先が、フィードバックを返さない。力加減が分からない。入力の強弱が指先の感覚で調整できないから、遊肢への命令に微細なブレが生じている。
鋳脈の代償。
14歳で鋳脈を受け、6年間、神経を酷使し続けた代償が、この戦闘の最中に表面化している。左手の指先から始まった神経劣化が、遊肢のフィードバック回線に直接影響を及ぼしている。リーヴの神経系は遊肢を「十本の指の延長」として扱う。その指の感覚が死にかけているなら、延長された先の遊肢も、同じだけの精度を失う。
リーヴは自分の綻びに気づいているのか。気づいていないのか。
気づいているなら、隠そうとしているはずだ。左手の管轄の遊肢を右手に振り替えるか、遊肢の配置を変えるか。だがリーヴはそうしていない。4基を従来通り左右に2基ずつ分けて操作している。気づいていないか、あるいは――今さら配置を変えれば、自分の弱点を認めることになるから、変えられないのか。
どちらでも構わなかった。
カイは操縦桿を握り直した。掌が汗で滑った。FALKE残弾34。WESPE残弾154。燃料51パーセント。右腕の装甲は変形したまま。左脚の関節は重い。背部の装甲には亀裂が走り、鉄紺色の塗装が剥がれて銀色の母材が露出している箇所が3カ所。満身創痍のケストレルが、凍結平原の残骸の影に立っている。
だが、カイの目は変わっていた。
追い詰められた獲物の目ではない。獲物を見定めた猛禽の目だった。
ソルスティスの左側。遊肢の管轄が左手に偏る領域。そこに穴がある。
0.3秒の遅れ。2メートルの軌道ブレ。それだけあれば、ケストレルが潜り込む隙間になる。
カイはその綻びを見た。
突く。




