四つの射線
カイは答えなかった。
リーヴの問いかけが通信機の中で消えた。オープン回線の残響が操縦席の空気を震わせ、すぐに途切れた。沈黙が戻る。
距離600。計器の数字がそこで止まっている。ソルスティスは歩みを止めたままケストレルを見ている。赤い単眼の光だけが、灰色の凍結平原に一点の色を持っている。
遊肢が動く。
4基同時ではない。東から1基が前進し、0.4秒遅れて北東の1基が降下した。西と南西は動かない。東と北東の2基が先行し、残り2基が待機する。さっきと同じパターン。
いや、違う。
カイは計器のレーダー表示を凝視する。東の遊肢が前進した軌道がさっきまでと微かに異なっていた。直進ではなく弧を描いている。ケストレルの右側面を回り込むように曲線を描きながら接近している。
射線が変わる。
東の遊肢が右側面に回れば、北東の上空遊肢との挟み撃ちになる。右上と右横。2方向から同時に撃たれれば、右に跳んでも左に跳んでも片方の射線に入る。
カイは左へ走る。ケストレルの逆関節の脚が凍結した地面を蹴り、機体が横に滑る。北東の遊肢が撃つ。上方からの3発。20ミリ弾がケストレルの右肩上方を抜けた。機体が射線の外へ出る。
だが東の遊肢が追いかけてきた。弧の軌道を修正しケストレルの移動先に回り込もうとしている。
速い。
遊肢の推進ノズルが白い排気を吐き、エイの形をしたユニットが凍結平原の上を滑走した。ケストレルよりも速い。当然だった。遊肢は脚がない。推力だけで飛んでいる。重量も軽い。ケストレルが走って逃げられる相手ではない。
東の遊肢が射撃位置につく。ケストレルの右側面、距離120メートル。速射砲の砲口がこちらを向いている。同時に北東の遊肢が高度を下げ、ケストレルの右斜め上方、距離150メートルに位置を取った。
2基が撃つ。
右横と右上。2方向からの20ミリ弾が交差するように飛んでくる。カイは前に跳んだ。FALTERのスラスターを一瞬噴かし、射線の交差点の前方に体を投げ出す。弾道が背後を抜ける。着地。凍結した地面が砕け、白い破片がケストレルの膝周りに舞い上がった。
西の遊肢が動く。
待機していた2基のうちの1基。カイが前方に跳んだ瞬間を待っていたように左側面から射撃位置に入った。距離140メートル。砲口がケストレルの左脇腹を狙っている。
3方向。東、北東、西。ケストレルの右と左と上を3基の遊肢が囲んでいる。残る1基、南西の遊肢は低空で待機したまま動かない。3方向を見ているあいだ、頭の片隅がずっとその一点に取られている。
これがリーヴの遊肢だった。
シーラの遊肢は本体と切り離されていた。遊肢に全てを注ぎ、本体は空っぽになる。だからリオンは本体を狙った。遊肢が強ければ強いほど本体が薄くなる。
リーヴは違う。遊肢4基を動かしながら、ソルスティス本体は600メートル先で微動だにしない。武器も抜いていない。両腕を下ろし、赤い単眼でケストレルを見据えている。遊肢に意識を割いている気配がない。遊肢が手足ならリーヴの場合は呼吸に近い。意識しなくても動く。
* * *
視界の端に影がある。
凍結平原の南東方向。地表に何かが横たわっている。レーダーには映らない。金属反応はあるが動力反応がない。死んだ構造物だ。
旧建造物の残骸だ。
大崩落時に崩壊した工場か倉庫の跡。コンクリートの壁面が半ば崩れ落ち、鉄骨が灰色の空に向かって突き出している。壁面には無数の弾痕が穿たれていた。30年前のものか、もっと最近のものか。灰域では区別がつかない。全てが等しく錆びて等しく朽ちていく。
残骸の高さは8メートルほど。ケストレルの全高より低い。だが壁面と鉄骨が入り組んでおり、遊肢の射線を遮る障害物にはなる。
カイは走る。
旧建造物の残骸に向かってケストレルを全速で走らせた。逆関節の脚が凍結平原を3歩で蹴り、残骸の陰に滑り込む。コンクリートの壁がケストレルの右側面を覆う。頭上に鉄骨が交差し、上方からの射線を部分的に遮断した。
北東の遊肢が撃った。20ミリ弾が鉄骨に当たり金属が弾ける音が響いた。火花が散り錆びた鉄骨の破片が降ってきた。弾は通らなかった。鉄骨の隙間を抜けるには角度が足りない。
東の遊肢も撃った。コンクリートの壁面に着弾。壁が砕けて粉塵が舞う。だが壁はまだ残っている。30年前のコンクリートは脆いが、20ミリ弾を数発耐える厚みはあった。
射線が2本消える。
北東と東の遊肢からの射撃が旧建造物の残骸に遮られている。西の遊肢は壁の反対側にいるためケストレルを直接狙えない。残るのは南西の低空遊肢だけだ。
カイは息を吐いた。操縦桿を握る手の汗を一瞬だけ緩めて拭った。
冴覚を絞り込む。
600メートル先のリーヴ本体に意識を向ける。遊肢の射撃が止まった今なら読める。リーヴの神経の揺らぎを。次の動きの兆しを。
――色が薄れる。
灰色が深くなる。コンクリートの壁も鉄骨も凍結平原も、全てが同じ灰色に沈んでいく。音が遠ざかった。風の唸りが消え、計器のアラート音が水底に沈むように薄れていく。
残ったのは心臓の音。
そして600メートル先の気配。
リーヴの兆しが見える。
灰色の世界の中で、ソルスティスの操縦席にいる人間だけが色を持っていた。冷たい青。暗い、深い、凍った湖の底のような青。リーヴの神経が発する周波数がカイの冴覚に触れている。
リーヴが動こうとしている。右脚。踏み出す兆し。ソルスティスが前に出ようとしている。
同時に別の色が動いた。
青の中に4つの脈動がある。遊肢だ。リーヴの神経が遊肢の制御信号を発している。その脈動が冴覚に触れた。直接的ではない。遊肢そのものの軌道は読めない。だがリーヴが遊肢に命令を送る瞬間の神経の揺らぎは読める。
4つの脈動が同時に変わる。
遊肢の再配置。リーヴがカイの位置を把握し、旧建造物の残骸を迂回するように遊肢を動かそうとしている。
カイは目を開けた。灰色の静寂が砕けた。色が戻る。音が戻る。
遊肢が動いていた。
東の遊肢が壁の端を回り込み、北東の遊肢が高度を上げて鉄骨の上を越えようとしている。西の遊肢は大きく迂回して南側に回った。3基が同時に位置を変え、旧建造物の残骸が作る死角を潰しにかかっている。
速い。冴覚で兆しを読んでから遊肢が実際に動き始めるまでの間隔が短い。リーヴの命令伝達と遊肢の応答がほぼ一体化している。
盾が消える。
カイは残骸の裏側に回った。崩れた壁の反対側に移動し、新しい遮蔽を取る。コンクリートの破片が足元で砕けた。鉄骨の間をケストレルの体が通り抜け、東側の射線が消える。
東の遊肢が回り込んだ先にケストレルがいない。一瞬の空白。その間に北東の遊肢が鉄骨の上を越え、上方から残骸の内部を覗き込んだ。砲口が下を向く。
カイは残骸を飛び出す。
南に向かって全速で走り、崩れたコンクリートの瓦礫を踏み越えた。背後で20ミリ弾が残骸の内部を叩いた。カイがさっきまでいた場所に弾痕が並んでいる。
再び凍結平原の上に出た。遮蔽物がない。4基の遊肢が再び包囲を形成し始める。
だがカイは一つ分かる。
冴覚で読めるものがある。遊肢の軌道そのものは読めない。だがリーヴが遊肢に命令を送る瞬間、リーヴの神経に揺らぎが走る。その揺らぎの方向と強さから、どの遊肢にどんな命令を出したかを推測できる。
完全ではない。推測にすぎない。だが何も読めないよりはましだ。
* * *
走りながら冴覚を開く。
灰色の世界と色のある世界が交互に瞬く。完全な灰色の静寂には入らない。入れば遊肢の射撃を目で追えなくなる。半開きの冴覚。リーヴの兆しを拾いながら、同時に計器と目視で遊肢を追う。集中力が削られる。頭の奥が熱い。
リーヴの兆しが変わる。
青の中に問いかけがあった。言葉ではない。神経の揺らぎが形作る意志の輪郭。カイが冴覚で読んでいることをリーヴは知っている。冴覚持ち同士だ。カイがリーヴの兆しを読んでいるようにリーヴもカイの兆しを読んでいる。
右に跳ぼうとした——
その瞬間、右側の遊肢が先に動いた。カイが右に跳ぶ先に射線を置いている。カイの冴覚が読まれている。右に跳ぼうとする意志が神経に表れた瞬間をリーヴが捉えた。
カイは右への跳躍を中断し、左に切り返した。FALTERが逆噴射し機体が流れる。燃料計が落ちていた。59パーセント。
左に跳んだ先に西の遊肢がいた。
砲口がケストレルを向いている。20ミリの連射。カイはさらに前に加速して射線の前を通過する。弾道が背後を抜けた。
読まれている。
なら読めないことをやるしかない。
カイはWESPEを北東の遊肢に向けて撃つ。3連射。遊肢は横に流れた。外れた。だがカイはその射撃の裏で冴覚を絞り込み、リーヴ本体の兆しを読もうとした。
リーヴの青が一瞬だけ深くなった。
気づいている。カイが射撃を囮にして冴覚を集中させたことにリーヴは気づいた。その気づきすらもが冴覚を通じてカイに伝わった。
均衡は長くは続かなかった。
リーヴには遊肢が4基ある。カイには何もない。読み合いが互角でも手数が違う。リーヴは4方向から同時に射線を変え、カイは1つの体で全てを避けなければならない。時間が経つほどリーヴが有利になる。弾薬が減り燃料が減り、装甲が削れていく。
東の遊肢が撃つ。3発。カイは左に跳んで避けた。
北東の遊肢が追撃した。2発。前に走って射線の下を潜った。
西の遊肢が横から撃った。4発。FALTERで右に弾かれるように跳んだ。
そして南西の遊肢が動く。
ずっと沈黙していた4基目。低空から這い上がるように上昇し、ケストレルの左脚を狙った。カイの注意が東と北東と西に向いているその一瞬。
下、とだけ拾った。左か脚かは間に合わなかった。
遅い。
知覚してから操縦桿を動かすまでの0.3秒。その間に20ミリ弾がケストレルの左脚に到達した。
衝撃が操縦席を突き上げた。
左のフットペダルが足裏で跳ね、ハーネスがカイの体を座席に叩きつけた。金属が裂ける音。鈍い振動が左脚の操縦系統を伝わり、膝から下の入力が重くなった。
計器が赤く点滅した。左脛部装甲、貫通。左膝関節、動作制限。装甲健全度が一気に赤域に落ちた。
左脚が死んでいた。
膝はまだ曲がる。だが動きが決定的に遅い。足元から生温かい油の臭気が這い上がり、肺の底に粘りついた。
走れない。
ケストレルの機動力が左脚の損傷で致命的に落ちた。右脚だけで体重を支え、左脚を引きずるように歩くことはできる。だが高速の方向転換はもうできない。FALTERのスラスターで横に跳ぶことはできるが、着地で左脚が機体を受け止められない。跳べば倒れる。倒れれば遊肢の的になる。
燃料計が57パーセントを示していた。FALKE残弾40。WESPE残弾178。右腕の装甲は変形したまま。背部装甲に表面損傷。そして左脚が死んだ。
リーヴのソルスティスは600メートル先でまだ武器を抜いていなかった。
時間がカイの敵になった。
このまま立っていれば遊肢の弾幕がケストレルを削り切る。動けば左脚が足を引っ張り次の被弾を呼ぶ。リーヴは急いでいない。急ぐ必要がない。時間はリーヴの味方だ。カイの弾薬が尽き燃料が尽き、装甲が尽きるのを待てばいい。
何かを変えなければ。
このまま続ければ負ける。読み合いは互角でも手数と機動力でリーヴが上回っている。遊肢の射線を避け続けるだけではジリ貧だ。
カイは操縦桿を握り直した。
汗で滑る掌に革巻きのグリップが食い込んだ。冴覚が拾うリーヴの青い兆しが、600メートルの距離を越えてまだそこにあった。冷たく、鋭く、揺るぎなく。




