冬至の影
距離3200。
計器の数字が刻々と縮まっていく。ソルスティスは減速しない。凍結した平原の上を、時速72キロで直進してくる。10.8メートルの漆黒の銘殻が、灰色の大地と灰色の空の境界線を裂くように走っている。
カイはケストレルの操縦桿を握ったまま、呼吸を整えた。
「カイ」
リオンの通信だった。短く、硬い声。
「ソルスティスが来る。他のコルヴァス機はいない。リーヴ、単騎だ」
「分かってる」
単騎。50体のポーンで弾薬を削った後に、たった1機で来る。それがリーヴ・シェイドの判断だった。正面から、1機で、灰域連合軍を突破できるという確信。傲慢ではない。実績だ。コルヴァスのエースはこれまで、単騎で拠点を落とし、部隊を壊滅させてきた。
「私が援護する。射線を――」
「いや」
カイはリオンの言葉を遮った。
「リオン、ボルトたちと一緒に下がってくれ」
通信が一瞬、沈黙した。
「何を言っている」
「リーヴの相手は俺がやる。1対1で」
リオンの呼吸が通信越しに聞こえた。反論を組み立てている間が、ほんの一拍あった。
「正気か。お前のFALKEは残弾42だ。WESPEも200を切っている。ポーン戦で消耗した機体で、ソルスティスと単騎で戦うのは――」
「冴覚が使える。リーヴの兆しが読める。ポーンには効かなかったけど、リーヴには効く」
カイの声は静かだった。自分でも驚くほど落ち着いていた。恐怖がないわけではない。ソルスティスの黒い影を見た時、背筋に走ったものは間違いなく恐怖だった。だが冴覚が拾う「兆し」が、恐怖よりも先に体を支配していた。リーヴの気配は刃物のように鋭く、冷たい。逃げたいと思う本能と、あの気配をもっと近くで感じたいと思う冴覚の衝動が、体の中で拮抗している。
「それに、遊肢4基の包囲に複数機で入ったら、味方同士の射線が重なる。リーヴはそれを利用する。仲間を巻き込む」
リオンが黙った。カイの言葉が正しいことを、リオン自身が一番よく分かっていた。リオンはかつてコルヴァスの一員だった。リーヴの戦い方を知っている。
「……分かった」
リオンの声から感情が消えた。軍人の声だった。
「ケストレルの燃料は68パーセント。FALTERを使うなら、スラスター燃料の配分に気をつけろ。スラスター側に30パーセント以上残しておかないと、離脱できなくなる」
「ああ」
「鍛翼刀は温存しろ。近接に持ち込むまで抜くな」
「分かってる」
リオンの通信が切れた。ポラリスの白い機体が後退していく。ボルトのハウラー、リントのキャリバー、トワのシルフ。灰域連合の鉄殻たちが防衛線を下げ、カイだけが前に残った。
凍結平原の上に、ケストレルが1機。
その正面から、ソルスティスが1機。
距離2400。
* * *
遊肢が開いた。
ソルスティスの背部から4本の懸架アームが展開し、扁平な流線型のユニットが射出された。エイの形をした遊肢が4基、母機から離れて左右に散開する。推進ノズルの排気が白い尾を引き、凍結した大気の中に4本の軌跡を描いた。
1基が右に。1基が左に。1基が高く上がった。最後の1基が低く、地表すれすれを滑るように横に流れた。
等間隔。
カイは計器に目を走らせた。レーダー表示に4つの反応が映っている。東、西、北東上空、南西低空。ケストレルを中心にした十字の配置。正確に90度ずつ間隔を空けて、4基が包囲網を形成していた。
どこを向いても、遊肢がいる。背中を向けた方向にも、遊肢がいる。
退路がない。
ソルスティスの戦術。遊肢4基で逃走経路を全て塞ぎ、本体が正面から押し潰す。リーヴ・シェイドの基本形。敵にとっては「最も暗い夜が明けない」戦場が出現する。
距離1800。ソルスティスの本体が減速した。歩調を落とし、走行から歩行に切り替えている。急いでいない。遊肢の包囲が完成するのを待っている。
カイは冴覚を研ぎ澄ませた。
意識を絞り込む。計器の数字を見る目を、一瞬だけ閉じた。
――色が、薄れた。
灰色の世界が、さらに深い灰色に沈んでいく。エンジンの振動、凍結平原を渡る風の音、計器のアラート音。全てが遠くなる。水底に沈んでいくように。
残ったのは、心臓の音。
そして――1800メートル先の、ソルスティスの操縦席にいる人間の気配。
リーヴの「兆し」は、これまでに冴覚で拾ったどの操手とも異なっていた。シーラ・フレイズの兆しは鋭かった。トワの兆しは静かだった。ボルトの兆しは重かった。リーヴの兆しは、それらの全てであり、同時にどれとも違った。
鋭い。静かだ。重い。だがそのどれもが表層にすぎない。兆しの奥に、もう一層ある。感情でも殺意でもない、もっと根源的な何か。操手としての純度。鉄殻と一体化した人間の神経が発する、混じり気のない周波数。
強い。
カイは目を開けた。灰色の世界が戻る。計器の数字が再び目に入った。
冴覚でリーヴ本体の動きは読める。だが4基の遊肢が、その読みを妨害する。遊肢はドールとは違う。リーヴの鋳脈を通じて制御されている。リーヴの意志の延長だ。だがリーヴの体そのものではない。冴覚が拾うのは人間の神経の揺らぎであり、機械の動作予測ではない。遊肢の軌道を冴覚で直接読むことはできない。計器と目視で追うしかない。
1基目が動いた。
東側の遊肢が前進し、上面のセンサーが赤く点灯した。索敵。ケストレルの位置を確認する電磁波が飛んできた。計器のレーダー警報が短く鳴った。
2基目。北東上空の遊肢が高度を変え、斜め下方にセンサーを向けた。
3基目と4基目は動かない。西と南西に位置を保ったまま、静止している。
4基全てが同時に動かない。2基で索敵し、2基が待機する。射線を重ねず、順番にケストレルの位置を三角測量している。
正確で、無駄がない。シーラの遊肢運用とは質が違った。シーラは3基の遊肢に感覚帯域のほぼ全てを注ぎ込み、本体を犠牲にして遊肢の精度を上げていた。リーヴは違う。4基を操りながら、本体も完全に戦闘態勢を維持している。遊肢は「手足」であり、本体は「胴体」だ。切り離されていない。一つの体として動いている。
東側の遊肢が、撃った。
20ミリ速射砲の発射音が平原に響いた。乾いた連射音。3発。
弾道はケストレルの右側15メートルを抜けた。当てにきていない。索敵射撃だ。弾着の振動と音でケストレルの反応を観察している。カイが右に避けるか、左に避けるか、動かないか。その初動の癖を読み取るための3発だった。
カイは動かなかった。
操縦桿を握ったまま、足をペダルに載せたまま、ケストレルを凍結平原の上に立たせたまま。15メートル横を弾丸が通過するのを、目で追った。計器が弾道を表示している。速度、角度、発射元の位置。データが数字になってカイの目に入る。
北東の遊肢も撃った。2発。こちらはケストレルの左上方を通過した。角度が違う。高い位置から撃ち下ろしている。
2方向からの索敵射撃。まだ本気ではない。リーヴはケストレルを観察している。ポーン戦でどれだけ消耗しているか、操手の反応速度はどの程度か、冴覚が使えるかどうか。全てを見てから、本気を出す。
カイは歯を食いしばった。
動かなかったのは判断ではなく、意地だった。15メートルの距離を「安全」と計算して動かなかったのではない。動いたら、リーヴに情報を渡す。初動の方向、加速の速度、足回りの状態。今はまだ、何も見せたくなかった。
* * *
距離1200。
ソルスティスが歩みを止めた。漆黒の機体が凍結平原の上に立ち、赤い単眼がケストレルを見ている。1200メートルの距離を挟んで、2機の銘殻が向かい合った。
遊肢4基の包囲網が、縮まり始めた。
東と北東の2基が前進し、西と南西の2基が外側から回り込む。包囲の直径が小さくなる。退路がさらに狭まる。4基が等間隔を保ったまま、同心円を描くようにケストレルに近づいてくる。
距離、推定160メートル。遊肢の有効射程内にケストレルが完全に入った。
カイは冴覚を集中させた。リーヴ本体の兆しを読もうとした。1200メートル先のソルスティスの操縦席にいる人間の、次の動きの「兆し」を。
掌が逆関節の脚を踏み出す直前の筋肉の収縮。操縦桿を倒す直前の指先の緊張。射撃ペダルを踏む直前の足首の角度変化。それらが神経を伝わる微かな揺らぎとなって、冴覚に触れるはずだった。
触れかけた、その瞬間。
20ミリ弾が来た。
東側の遊肢からの射撃。今度は索敵ではない。ケストレルの正面、胸部装甲を狙った直撃コースだった。
冴覚が千切れた。リーヴ本体に集中していた意識が、弾道の知覚に引き剥がされた。
カイは右に跳んだ。FALTERのスラスターが背部で噴射し、ケストレルの機体を横に弾く。2発の20ミリ弾がさっきまでいた場所を通過した。着地。凍結した地面が足裏で砕け、白い破片が舞い上がった。
北東の遊肢が追撃した。上方から撃ち下ろす3発。カイは着地の反動を使って前に走り、弾道の下を潜った。30ミリ弾ではない。20ミリだ。遊肢の速射砲は20ミリ。ケストレルの装甲なら直撃でも1発では致命傷にならない。だが数発が集中すれば、装甲を抜く。
西側の遊肢が動いた。
視界の左端に影が流れた。計器のレーダーが反応位置を更新する。西から南へ移動。射線が変わった。
3方向から同時に来る。
カイは走った。ケストレルの逆関節の脚が凍結平原を蹴り、機体が前に跳ぶ。走りながらFALKEを構え、東側の遊肢に向けて1発撃った。牽制射撃。75ミリ弾が遊肢の20メートル横を抜けた。遊肢は軽く横に流れて回避した。
当てに行っていない。遊肢に射線を意識させ、一瞬だけ射撃を止めさせるための1発。だがFALKEの残弾は41になった。
南西の遊肢が沈黙を破った。
低空から這い上がるように上昇し、ケストレルの背後を取った。20ミリの連射がケストレルの背部装甲を叩いた。
衝撃が操縦席に伝わった。シートが揺れ、ハーネスが体に食い込んだ。背部装甲の被弾。計器の装甲健全度表示が赤く点滅した。背部上段、表面損傷。まだ抜かれていない。だが20ミリ弾が鉄紺色の塗装を剥がし、装甲板の表面に亀裂を走らせた。
「くそ」
カイは振り向きざまにWESPEを撃った。30ミリの3連射が背後の遊肢に向かって飛んだ。遊肢は横に滑って回避した。推進ノズルの排気が白い尾を残し、視界から消えた。
WESPE残弾186。
冴覚を、もう一度リーヴ本体に向けようとした。
意識を絞り込む。1200メートル先のソルスティス。リーヴの兆しを――
北東の遊肢が撃った。頭上から。2発。
集中が切れた。弾道を回避するために左に跳ぶ。着地。東側の遊肢が追いかけてくる。20ミリの連射がケストレルの足元を叩き、凍結した地面が砕けて土砂が噴き上がった。
読めない。
リーヴ本体に冴覚を集中しようとするたびに、遊肢の射撃が集中を奪う。リーヴはそれを分かってやっている。カイの冴覚が本体を読みに来ることを予測し、遊肢で妨害している。
遊肢の射撃は「当てる」ためではない。カイの冴覚を「使わせない」ためだ。
* * *
中距離に入った。
ソルスティスが歩き始めた。ゆっくりと。距離800まで詰めてきた。遊肢4基の包囲網がさらに縮小し、逃げ場がほとんどなくなっている。
弾幕の密度が変わった。
索敵でも牽制でもない。削りにきている。4基の遊肢が交互に、途切れなく、20ミリ弾をケストレルに送り込んでくる。東が撃ち、北東が撃ち、東が弾倉を入れ替える間に西が撃ち、南西が低い角度から追い打ちをかける。
絶え間ない弾幕。
カイは走り続けた。止まれば集中砲火を浴びる。ケストレルの脚が凍結平原を蹴り、機体が左へ右へ不規則に方向を変える。FALTERのスラスターを短い間隔で噴かし、急激な横移動で射線を外す。燃料計の数字が目に入った。63パーセント。スラスター燃料の配分が脳裏をよぎった。リオンの言葉。30パーセント以上残しておかないと、離脱できなくなる。
まだ余裕はある。だがこのペースで使い続ければ、あと5分もたない。
20ミリ弾がケストレルの右腕に当たった。
金属が潰れる音が操縦席に響いた。重い衝撃が右腕の操縦桿に伝わり、カイの右手が一瞬弾かれた。FALKEを保持している右腕だった。装甲健全度表示が赤に変わった。右前腕外装板、変形。
ひしゃげている。右腕の装甲板が20ミリ弾の直撃で内側に折れ曲がり、関節部の動作範囲を制限していた。FALKEを構える角度が狭まった。右腕を上に持ち上げると、変形した装甲板が肘関節に干渉して引っかかる。
アラートが鳴った。
操縦席の警報灯が赤く点滅し、右腕の構造体損傷を告げている。機能喪失ではない。まだ動く。だが精度が落ちた。FALKEの射撃精度が、変形した装甲板のせいで低下している。
もう1発来た。
北東の遊肢からの上方射撃。ケストレルの右肩装甲に着弾し、火花が散った。装甲表面が削れ、鉄紺色の塗装の下から銀色の母材が露出した。深い傷ではない。だが蓄積している。1発1発は浅くても、10発、20発と積み重なれば、装甲が紙になる。
カイはWESPEを撃ち返した。北東の遊肢に向けて5連射。遊肢は軽やかに横に流れ、弾道を避けた。1発も当たらない。遊肢は小さく、速い。30ミリ弾の5連射でも掠りもしない。
WESPE残弾181。
ソルスティス本体が、さらに距離を詰めてきた。距離600。漆黒の装甲が、灰色の凍結平原の上に影を落としている。赤い単眼がケストレルを凝視していた。まだ武器を抜いていない。双牙刀は腰部に懸架されたまま。WESPEも撃たない。本体は一発も撃っていなかった。
遊肢だけでケストレルを削り、本体は温存している。
通信が入った。
周波数はオープン。暗号化されていない。聞かせるための通信だった。
「お前が鋳脈を受けていないことは分かっている」
リーヴの声だった。
低く、平坦で、感情のない声。生きた人間の体温を欠いた声。言葉だけが正確で、中身が空洞だった。
「その体で、俺に勝てると思うか」
カイは答えなかった。
操縦桿を握る手が汗で滑った。右腕の装甲が軋んでいる。弾薬が減っている。燃料が減っている。遊肢の弾幕が途切れない。冴覚でリーヴ本体を読もうとしても、遊肢が許さない。
勝てるか。
その問いに答える余裕は、今のカイにはなかった。




