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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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凍原の進軍

朝が来る。

 眠れなかった。正確には、眠ったのか眠らなかったのか分からないまま、天幕の布越しに空が白んでいくのを見ていた。灰色の闇が灰色の曙へと変わっていく。その境目がどこにあったのか、カイには分からなかった。


 体を起こす。

 毛布の中に溜まっていた体温が逃げた。冬の灰域の朝は容赦がない。吐いた息が白く凝結してすぐに見えなくなり、凍結平原の風が天幕の裾から這い入って首筋を撫でていった。


 隣の天幕でボルトが咳払いをした。低い声が布越しに聞こえる。起きている。あの男はいつ眠っているのか分からない。カイが起きている時には既に起きていて、眠りに落ちる時にはまだ動いている。傭兵の習性なのか、ボルト個人の気質なのか。


 天幕を出る。

 凍結平原が広がっていた。地表に霜が降りて一面が白く薄く光っている。朝の光は弱く、雲が厚いため太陽の位置が分からない。ただ東の空だけが他より僅かに明るく、そこに朝があることだけが分かった。


 灰域連合の野営地は凍結平原の西端に設けられていた。ストーンクロスの防衛線から3キロ東だ。前日のドール戦で削られた弾薬を補充し、機体の応急修理を終えた後ここまで前進してきた。コルヴァスの本隊を迎え撃つためである。ストーンクロスの住民を巻き込まないよう、街からできるだけ離れた場所で戦うというのはマイロの判断だった。


 天幕の前に携行コンロが置かれているが、火はついていない。その横に布に包まれた固いパンと干し肉が並んでいた。誰かが用意してくれたのだろう。フランか、ジップか。


 カイは腰を下ろしてパンを手に取る。

 割ろうと指に力を入れた。パンの表面は冷えて石のように硬く、爪が表皮に食い込んでようやくひび割れた。断面は黄土色で、穀物の粒が潰されて固まっている。灰域の標準的な携行食だ。噛めば顎が疲れるが、1個で半日は動ける。


 口に運んだ。

 噛む。

 微かに味がした。穀物の粉っぽい甘さと、干した塩気だ。歯ごたえが硬く、咀嚼するたびに顎の付け根が軋んだ。


 飲み込めなかった。


 味も硬さも分かる。だが喉が動かない。咀嚼した塊が口の中に留まったまま食道に落ちていかず、体が拒んでいた。


 吐き出すわけにもいかず、カイは水筒の蓋を開けて水で流し込んだ。冷たい水がパンの塊を押し流して喉を通ったが、胃に落ちる重みが不快だ。


 2口目を割って口に入れる。同じだ。噛めるが飲み込めない。


 足音が近づく。

 霜を踏む硬い音は歩幅が均等で迷いがない。


「食べないと動けなくなる」


 リオンだった。

 暗色の戦闘服の上に防寒外套を羽織って髪を後ろで束ねている。口元から流れる白い息はすぐに風に千切られた。手に固いパンを持っていた。自分の分とは別のもう1つを、カイに差し出している。


「もう持ってる」

「それは1個目だろう。2個食べろ」


 カイはリオンを見た。

 その顔は平坦で、心配しているようには見えない。ただ事実を述べている。食べなければ動けず、動けなければ死ぬ。だから食べろ。セルヴィスの軍人として叩き込まれた合理性が言葉の奥に透けていた。


 カイは黙って受け取った。リオンが差し出したパンは微かに温かい。外套の内側に入れて体温で温めていたのだろう。


「お前は食べたのか」

「食べた。干し肉も」


 リオンはカイの隣に腰を下ろした。凍った地面の上に布を敷くこともなく、寒さに顔をしかめる気配もない。


 カイはリオンが温めたパンを齧る。僅かな温もりが歯に伝わっただけで、喉の硬さが少し緩んだ。噛んで飲み込むと、今度は通った。


「昨日のドールで、弾はどれだけ残った」

「FALKEが42。WESPEが189。DONNERは2発」

「足りないな」

「足りない」


 カイは2口目を噛んで飲み込んだ。続いて3口目。パンの塊が胃に落ちるたびに、体が少しずつ動き始める感覚がある。燃料を入れた機関のようだ。人間も鉄殻も同じだった。動くには燃料がいる。


 * * *


 野営地が動き始める。

 ボルトが天幕から出てきた。大柄な体に旧世界の軍用外套を引っかけて片手に水筒を持っている。水筒の蓋を開けて一口含むと、吐き出した。口を濯いだだけだった。


「レイダーズ、先行偵察に出る。フラン、ジップ、10分後に発進。カイ、お前はここで待て」


 ボルトの声は朝でも変わらなかった。低く太く淡々としている。決戦の朝だという特別さがどこにもなく、いつも通りの声だった。それが逆にカイの背筋を強張らせる。ボルトにとって戦闘は日常だ。傭兵として灰域を10年以上生きてきた男にとって今日は特別な日ではなく、生きるか死ぬかの分岐がまた1つ来ただけのことだった。


「ジップの機体は」

「左腕の応急修理は終わってる。射撃はできる。偵察には十分だ」


 ボルトはそれだけ言ってハウラーの格納区画に向かった。33トンの残殻が低い轟音を上げてエンジンを始動させるのが聞こえる。続いてフランの残殻、ジップの残殻。3機の残殻が凍結平原の東に向けて歩き出した。逆関節ではない正規の2足歩行。だが一歩ごとに足の下で霜柱が砕け、鉄根樹の枯れた根が軋んだ。


 通信機が鳴る。

 周波数はマイロの指定した作戦回線だった。


「全部隊、最終配置を確認する」


 マイロの声は遠かった。ストーンクロスの通信塔から発信している。マイロは前線に出ないし、出られない。彼の仕事は地図の上にある。


「ケストレル。カイ・セヴァル。中央前衛。リーヴのソルスティスとの直接対峙を担当」


 カイの配置だった。中央前衛、最前線の正面。リーヴとまっすぐ向き合う位置。


「ポラリス。リオン・アスフォード。右翼遊撃。ケストレルの側面支援および敵遊肢の牽制」


 リオンがカイの横で頷く。声は出さなかった。


「キャリバー。リント・ガーレス。左翼火力支援。ただし射撃武装が枯渇しているため、近接戦に備えて前線のやや後方に配置」


 リントの声が通信に入る。

「弾がねえのに火力支援とは笑えるな」

「短刀がある。お前の近接戦は昨日証明済みだ。弾がなくても仕事はある」

 マイロの返答は冷静だった。リントは黙り、反論はなかった。


「シルフ。トワ・カジャ。遊撃自由枠。戦況に応じて判断。トワ、任せる」

「了解」

 トワの声は短かった。


「ハウラー。ボルト・レイダー。現在偵察中。帰投後、中央前衛の後方に配置。ケストレルの後詰め」


 全員の配置が告げられた。マイロの声は淡々としていたが、一つ一つの名前を呼ぶ間に僅かな間がある。名前を呼ぶたびにその人間が死ぬ可能性を計算しているのだろう。


「コルヴァス本隊の推定兵力。ソルスティス1機、汎殻8機、ドール「ポーン」残存数不明。昨日の消耗戦で削ったが、鋼城からの補充がある。ポーンの数は読めない」


 マイロが敵戦力の概要を伝える。


「灰域連合の残弾は厳しい。全機が半数以下だ。長期戦は不可能。短期決戦以外に道はない」


 通信が途切れた。


 * * *


 リオンが立ち上がった。戦闘服の襟を正して防寒外套を脱ぐ。外套を畳んで天幕の中に置いた。操縦席に余計なものは持ち込まない。


「行く」


 カイも立った。パンの最後のひとかけらを口に押し込んで水で流し込む。胃の底で硬い塊が重かったが、体は動いた。リオンの渡したパンがまだ胃の底にある。


 ケストレルの格納区画に向かう。凍結平原の窪地に仮設された簡易格納庫は鉄板と防水布を組み合わせた粗末な構造物だったが、その中に立っている機体は粗末ではなかった。


 鉄紺色の装甲にアルマナック合金のフレーム。18年分の修復痕が刻まれた四肢。背部に折り畳まれた翼状スラスター。右腰の鍛翼刀と左前腕の速射砲。胸部装甲の傷は昨日のドール戦で増え、20ミリ弾の擦過痕が3本、胸部左側に走っている。

 ケストレル。テオ・セヴァルの銘殻は、今はカイの手にある。


 コックピットに上がってハッチを開け、操縦席に滑り込む。座面が冷え切っていて尻から体温が奪われる。操縦桿の革巻きグリップに触れた。金属の冷たさが革を通して掌に染みた。


 ハッチを閉じると暗くなった。

 計器が一つずつ点灯していく。暗いコックピットの中でバックライトの青い光だけが浮かび上がった。燃料残量68%。機関温度、低温警告。関節負荷、全域グリーン。通信回線、作戦周波数に接続。弾薬残量、FALKEが42、WESPEが189、DONNERが2発。昨日から変わっていない。補充できる弾はなかった。


 機関を始動する。

 エンジンの唸りが操縦席を揺らした。計器の低温警告が消えて機関温度が上昇していく。ケストレルの関節が微かに軋み、アルマナック合金のフレームが暖機運動のように伸縮する。旧世界の金属が今朝もまた動き出した。


 隣の格納区画でポラリスのエンジン音が響いた。リオンが乗り込んだのだろう。白銀の機体が薄い装甲を震わせて起動する音はケストレルよりも甲高い。


 ボルトから通信が入る。

「偵察終了。東方5キロ地点にコルヴァス本隊を確認。汎殻8機が横列陣形で前進中。後方にソルスティス。ドールの追加展開はまだ確認できない」


 カイの指が操縦桿を握る力を強める。5キロ。ケストレルの巡航速度なら4分、汎殻の行軍速度なら20分。あと20分で射程に入る。


「全機、配置につけ」


 ボルトの声だった。


 カイはケストレルを立ち上がらせた。格納区画の鉄板の屋根を押し開けて凍結平原に踏み出す。霜柱が足の下で砕け、白い粉が舞い上がって朝の風に流された。


 東を向く。

 白霜に死んだ大地が鉛色の空へと溶け落ちる東の地平。その奥から網膜を凍傷で灼くような殺気が這い寄り、そこにいるとカイは息を殺した。


 黒い点だった。

 1つではない。9つだ。横に並んだ影がゆっくりと大きくなっていく。汎殻の列が前進している。その後方にひときわ大きな影が1つ。


 ソルスティスだった。

 距離4800。計器が数字を映し出している。遠いがこちらに向かっており、1秒ごとに距離が縮まっていく。


 リオンのポラリスがケストレルの右方に展開した。白銀の機体が凍結平原に立って東を見ている。まだ遠すぎるため、穿月銃は構えていない。


 リントのキャリバーが左後方に位置を取った。射撃武装は枯渇しているが左腰のSTILETTは抜かず、待機している。


 トワのシルフが右翼の更に外側、小さな窪地に身を沈めた。姿が見えなくなり、トワの戦いはそこから始まる。


 ボルトのハウラーがケストレルの後方に重い足取りで歩み寄った。パイルバンカーの残弾は2発。最後の2発だ。


 風が吹く。

 凍結平原を横切る北西の風がケストレルの装甲を叩いた。外部マイクが風切り音を拾ってコックピットの中に低い唸りが流れたが、それ以外の音はなかった。通信も、砲声も、金属の軋みも。風と霜と灰色の空だけがある凍結平原の朝だった。


 カイは操縦桿を握る。

 掌に馴染む革巻きのグリップ。父が握ってガルドが調整し、今はカイの手にある操縦桿だ。計器の青い光がカイの顔を照らしていた。燃料計が68%を示し、弾薬計の数字が小さく光っている。42、189、2。


 東の影が近づいてくる。

 距離4200、4100、4000。


 戦闘開始まで、あと数分。

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