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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄の鳴く夜

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203/218

凍原の進軍

 朝が来た。

 眠れなかった。正確には、眠ったのか眠らなかったのかが分からないまま、天幕の布越しに空が白んでいくのを見ていた。灰色の闇が灰色の曙に変わっていく。その境目がどこにあったのか、カイには分からなかった。


 体を起こした。

 毛布の中に溜まっていた体温が逃げた。冬の灰域(アッシュランド)の朝は容赦がなかった。吐いた息が白く凝結し、すぐに見えなくなった。凍結平原の風が天幕の裾から這い入ってきて、首筋を撫でていった。


 隣の天幕でボルトが咳払いをした。低い声が布越しに聞こえる。起きている。あの男はいつ眠っているのか分からない。カイがまだ起きている時には既に起きていて、カイが眠りに落ちる時にはまだ動いている。傭兵の習性なのか、ボルト個人の気質なのか。


 天幕を出た。

 凍結平原が広がっていた。地表に霜が降り、一面が白く薄く光っている。朝の光は弱かった。雲が厚く、太陽の位置が分からない。ただ東の空だけが他より僅かに明るく、そこに朝があることだけが分かった。


 灰域(アッシュランド)連合の野営地は凍結平原の西端に設けられていた。ストーンクロスの防衛線から3キロ東。前日のドール戦で削られた弾薬を補充し、機体の応急修理を終えた後、ここまで前進した。コルヴァスの本隊を迎え撃つためだった。ストーンクロスの住民を巻き込まないために、街からできるだけ離れた場所で戦う。マイロの判断だった。


 天幕の前に携行コンロが置かれていた。火はついていない。その横に、布に包まれた固いパンと干し肉が並んでいた。誰かが用意してくれたのだろう。フランか、ジップか。


 カイは腰を下ろし、パンを手に取った。

 割ろうとした。指に力を入れた。パンの表面は冷えて石のように硬かった。爪が表皮に食い込み、ようやくひび割れた。断面は黄土色で、穀物の粒が潰されて固まっている。灰域(アッシュランド)の標準的な携行食。噛めば顎が疲れるが、1個で半日は動ける。


 口に運んだ。

 噛んだ。

 味がした。穀物の粉っぽい甘さと、干した塩気が微かにある。歯ごたえが硬く、咀嚼するたびに顎の付け根が軋んだ。


 飲み込めなかった。


 味は分かる。硬さも分かる。だが喉が動かない。咀嚼した塊が口の中に留まり、食道に落ちていかなかった。体が拒んでいる。胃の底が冷えたように重く、食物を受け入れることを拒絶していた。


 吐き出すわけにもいかない。カイは水筒の蓋を開け、水で流し込んだ。冷たい水がパンの塊を押し流し、喉を通った。胃に落ちた重みが不快だった。


 2口目を割った。口に入れた。同じだった。噛めるが、飲み込めない。


 足音が近づいた。

 霜を踏む硬い音。歩幅が均等で、迷いがない。


「食べないと動けなくなる」


 リオンだった。

 暗色の戦闘服の上に防寒外套を羽織り、髪を後ろで束ねている。白い息が口元から流れ、すぐに風に千切られた。手に固いパンを持っていた。自分の分ではなく、もう1つ。カイに差し出している。


「もう持ってる」

「それは1個目だろう。2個食べろ」


 カイはリオンを見た。

 リオンの顔は平坦だった。心配しているようには見えない。ただ事実を述べている。食べなければ動けない。動けなければ死ぬ。だから食べろ。セルヴィスの軍人として叩き込まれた合理性が、言葉の奥に透けていた。


 だがパンを差し出す手は、合理だけでは説明がつかなかった。


 カイは黙って受け取った。リオンが差し出したパンは、微かに温かかった。外套の内側に入れて体温で温めていたのだろう。


「お前は食べたのか」

「食べた。干し肉も」


 リオンはカイの隣に腰を下ろした。凍った地面の上に、布を敷くこともなく。寒さに顔をしかめる気配もなかった。


 カイはリオンが温めたパンを齧った。僅かな温もりが歯に伝わった。それだけで、喉の硬さが少し緩んだ。噛んで、飲み込んだ。今度は通った。


「昨日のドールで、弾はどれだけ残った」

「FALKEが42。WESPEが189。DONNERは2発」

「足りないな」

「足りない」


 カイは2口目を噛んだ。飲み込んだ。3口目。パンの塊が胃に落ちるたびに、体が少しずつ動き始める感覚があった。燃料を入れた機関のように。人間も鉄殻(てっかく)も同じだった。動くには燃料がいる。


 * * *


 野営地が動き始めた。

 ボルトが天幕から出てきた。大柄な体に旧世界の軍用外套を引っかけ、片手に水筒を持っている。水筒の蓋を開け、一口含み、吐き出した。口を濯いだだけだった。


「レイダーズ、先行偵察に出る。フラン、ジップ、10分後に発進。カイ、お前はここで待て」


 ボルトの声は朝でも変わらなかった。低く、太く、淡々としている。決戦の朝だという特別さがどこにもない。いつも通りの声だった。それが逆に、カイの背筋を強張らせた。ボルトにとって戦闘は日常だった。傭兵として灰域(アッシュランド)を10年以上生きてきた男にとって、今日は特別な日ではない。生きるか死ぬかの分岐が、また1つ来ただけだ。


「ジップの機体は」

「左腕の応急修理は終わってる。射撃はできる。偵察には十分だ」


 ボルトはそれだけ言って、ハウラーの格納区画に向かった。33トンの残殻(ざんかく)が低い轟音を上げてエンジンを始動させるのが聞こえた。続いてフランの残殻(ざんかく)、ジップの残殻(ざんかく)。3機の残殻(ざんかく)が凍結平原の東に向けて歩き出した。逆関節ではない、正規の二足歩行。だが一歩ごとに足の下で霜柱が砕け、鉄根樹の枯れた根が軋んだ。


 通信機が鳴った。

 周波数はマイロの指定した作戦回線だった。


「全部隊、最終配置を確認する」


 マイロの声は遠かった。ストーンクロスの通信塔から発信している。マイロは前線に出ない。出られない。彼の仕事は地図の上にある。駒を動かし、射線を引き、退路を確保する。戦場全体を俯瞰できる位置に留まることが、マイロの戦い方だった。


「ケストレル。カイ・セヴァル。中央前衛。リーヴのソルスティスとの直接対峙を担当」


 カイの配置だった。中央前衛。最前線の正面。リーヴとまっすぐ向き合う位置。


「ポラリス。リオン・アスフォード。右翼遊撃。ケストレルの側面支援および敵遊肢(ゆうし)の牽制」


 リオンがカイの横で頷いた。声は出さなかった。


「キャリバー。リント・ガーレス。左翼火力支援。ただし射撃武装が枯渇しているため、近接戦に備えて前線のやや後方に配置」


 リントの声が通信に入った。

「弾がねえのに火力支援とは笑えるな」

「短刀がある。お前の近接戦は昨日証明済みだ。弾がなくても仕事はある」

 マイロの返答は冷静だった。リントが黙った。反論はなかった。


「シルフ。トワ・カジャ。遊撃自由枠。戦況に応じて判断。トワ、任せる」

「了解」

 トワの声は短かった。


「ハウラー。ボルト・レイダー。現在偵察中。帰投後、中央前衛の後方に配置。ケストレルの後詰め」


 全員の配置が告げられた。マイロの声は淡々としていたが、一つ一つの名前を呼ぶ間に僅かな間があった。名前を呼ぶたびに、その人間が死ぬ可能性を計算しているのだろう。作戦参謀とはそういう仕事だった。


「コルヴァス本隊の推定兵力。ソルスティス1機、汎殻(はんかく)8機、ドール「ポーン」残存数不明。昨日の消耗戦で削ったが、鋼城(こうじょう)からの補充がある。ポーンの数は読めない」


 マイロが敵戦力の概要を伝えた。


灰域(アッシュランド)連合の残弾は厳しい。全機が半数以下だ。長期戦は不可能。短期決戦以外に道はない」


 通信が途切れた。

 マイロが言うべきことは全て言い終えた。あとは、前線にいる人間がやるしかない。


 * * *


 リオンが立ち上がった。戦闘服の襟を正し、防寒外套を脱いだ。外套を畳み、天幕の中に置いた。操縦席に余計なものは持ち込まない。


「行く」


 カイも立った。パンの最後のひとかけらを口に押し込み、水で流し込んだ。胃の底で硬い塊が重かった。だが体は動いた。食べたからだ。リオンが正しかった。


 ケストレルの格納区画に向かった。凍結平原の窪地に仮設された簡易格納庫は、鉄板と防水布を組み合わせた粗末な構造物だった。だがその中に立っている機体は粗末ではなかった。


 鉄紺色の装甲。アルマナック合金のフレーム。18年分の修復痕が刻まれた四肢。背部に折り畳まれた翼状スラスター。右腰の鍛翼刀。左前腕の速射砲。胸部装甲の傷は昨日のドール戦で増えた。20ミリ弾の擦過痕が3本、胸部左側に走っている。

 ケストレル。テオ・セヴァルの銘殻(めいかく)。今はカイの手にある。


 コックピットに上がった。ハッチを開け、操縦席に滑り込んだ。座面が冷えていた。尻から体温が奪われる。操縦桿の革巻きグリップに触れた。冷たい。金属の冷たさが革を通して掌に染みた。


 ハッチを閉じた。

 暗くなった。

 計器が一つずつ点灯していく。暗いコックピットの中で、バックライトの青い光だけが浮かび上がった。燃料残量68%。機関温度、低温警告。関節負荷、全域グリーン。通信回線、作戦周波数に接続。弾薬残量。FALKEの42。WESPEの189。DONNERの2発。昨日から変わっていない。補充できる弾がなかった。


 機関を始動した。

 エンジンの唸りが操縦席を揺らした。計器の低温警告が消え、機関温度が上昇していく。ケストレルの関節が微かに軋んだ。アルマナック合金のフレームが暖機運動のように伸縮する。旧世界の金属が、今朝もまた動き出した。


 隣の格納区画でポラリスのエンジン音が響いた。リオンが乗り込んだのだろう。白銀の機体が薄い装甲を震わせて起動する音は、ケストレルよりも甲高かった。


 ボルトから通信が入った。

「偵察終了。東方5キロ地点にコルヴァス本隊を確認。汎殻(はんかく)8機が横列陣形で前進中。後方にソルスティス。ドールの追加展開はまだ確認できない」


 カイの指が操縦桿を握る力を強めた。5キロ。ケストレルの巡航速度なら4分。汎殻(はんかく)の行軍速度なら20分。あと20分で射程に入る。


「全機、配置につけ」


 ボルトの声だった。


 カイはケストレルを立ち上がらせた。格納区画の鉄板の屋根を押し開け、凍結平原に踏み出した。霜柱がケストレルの足の下で砕けた。白い粉が舞い上がり、朝の風に流された。


 東を向いた。

 凍結平原が果てしなく広がっていた。白い霜に覆われた大地は、灰色の空との境界が曖昧だった。地平線が空に溶けている。その境界線の上に、影が見えた。


 黒い点だった。

 1つではない。9つ。横に並んだ影が、ゆっくりと大きくなっていく。汎殻(はんかく)の列が前進している。その後方に、ひときわ大きな影が1つ。


 ソルスティスだった。

 距離4800。計器が数字を映し出している。遠い。だがこちらに向かっている。1秒ごとに距離が縮まっている。


 リオンのポラリスがケストレルの右方に展開した。白銀の機体が凍結平原に立ち、東を見ている。穿月銃を構えてはいない。まだ遠すぎる。


 リントのキャリバーが左後方に位置を取った。射撃武装は枯渇しているが、左腰のSTILETTは抜いていない。待機している。


 トワのシルフが右翼の更に外側、小さな窪地に身を沈めた。姿が見えなくなった。トワの戦いはそこから始まる。


 ボルトのハウラーがケストレルの後方に重い足取りで歩み寄った。パイルバンカーの残弾2発。最後の2発だ。


 風が吹いた。

 凍結平原を横切る北西の風が、ケストレルの装甲を叩いた。外部マイクが風切り音を拾い、コックピットの中に低い唸りが流れた。それ以外の音はなかった。通信も、砲声も、金属の軋みも。風と霜と灰色の空だけがある凍結平原の朝だった。


 カイは操縦桿を握った。

 掌に馴染む革巻きのグリップ。父が握り、ガルドが調整し、今はカイの手にある操縦桿。計器の青い光がカイの顔を照らしていた。燃料計が68%を示している。弾薬計の数字が小さく光っている。42。189。2。


 東の影が近づいてくる。

 距離4200。4100。4000。


 戦闘開始まで、あと数分。

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