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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄の鳴く夜

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202/218

狩る者の独白

 推進剤タンクを外す時、左手がまた滑った。

 金属の結合部に指をかけ、ロック解除のレバーを引く。右手の感触は明瞭だった。冷たい金属。レバーの抵抗。バネが戻る振動。左手には何もなかった。レバーを引いているという事実だけがあり、指先がどれだけの力をかけているのか分からなかった。力を入れすぎたのか、それとも足りなかったのか。結果だけが教えてくれる。タンクが外れれば正解、外れなければ不正解。

 外れた。

 使用済みの推進剤タンクを地面に置いた。円筒形の金属容器。中身は空だった。遊肢(ゆうし)の飛翔用推進剤。前回の作戦で全基分を使い切っている。


 * * *


 ソルスティスは野営地の外れに停めてあった。

 凍結平原の窪地に設営されたコルヴァスの野営地。テントが4張り。整備用の工具箱と予備部品が並ぶ作業台。その向こうに、黒い鉄殻(てっかく)が膝を折って座っている。全高10.8メートルの漆黒の機体。背部の懸架アームが折り畳まれ、4基の遊肢(ゆうし)が眠っている。朝の薄い光の中で、装甲の表面に霜が張りついていた。

 リーヴはソルスティスの足元に立っていた。整備用の作業台に工具を並べ、遊肢(ゆうし)のメンテナンスを行っていた。本来は整備員の仕事だ。だが、リーヴは自分の手でやった。整備員がいない訳ではない。コルヴァスには2名の整備員が帯同している。リーヴが自分でやるのは、それが唯一残った習慣だからだ。


 遊肢(ゆうし)は4基ある。

 標準遊肢(ゆうし)。全長2.2メートルのエイ型飛翔体。前面に15ミリ速射砲を1門ずつ搭載している。扁平な三角形の胴体に、推進ノズルが3基。推進剤タンクは胴体後部に収納されている。

 1基目のタンク交換を終えた。リーヴは2基目に手を伸ばした。

 タンクのロック解除。レバーを引く。左手で。感覚はない。だが筋肉は動く。神経信号は通る。まだ。


 タンクが外れた。空のタンクを地面に置き、新しいタンクを持ち上げた。推進剤の充填済みタンク。重さは約8キロ。右手で重さを感じた。左手では何も感じなかった。金属を掴んでいるという視覚情報だけが、左手の動きを補っていた。


 作業台の上に射撃ユニットの調整器具が並んでいた。速射砲の照準キャリブレーション。標準遊肢(ゆうし)の砲身は連続使用で微妙に軸がぶれる。鋳脈(ちゅうみゃく)のフィードバックで補正できる範囲を超えると、射撃精度が目に見えて落ちる。リーヴは3基目のタンクを交換しながら、頭の中で射撃データを反芻した。前回の戦闘で、3号機の集弾率が7パーセント低下していた。砲身の摩耗か、懸架アームの軸ずれか。


 整備員の声が聞こえた。

 遠くから。テントの方角から。2人の整備員が何か話している。声量は普通だろう。以前なら聞き取れた距離だった。今は、言葉の輪郭がぼやけていた。母音と子音の境界が溶けて、意味のある言葉になる前に崩れる。聴覚。味覚の次に侵食が始まった感覚。まだ会話は成立する。相手が近くにいれば。距離が開くと、音が泥の中に沈む。


 リーヴは4基目のタンクに手をかけた。


 何のために。


 その思考が浮かんだ。推進剤タンクを交換しながら。4基の遊肢(ゆうし)を整備しながら。射撃データを確認しながら。何のためにこの作業をしているのか。


 答えは単純だった。明日の作戦のために。灰域(アッシュランド)の抵抗勢力を叩くために。リオンがそこにいるはずだから。命令が下りているから。セルヴィスの操手(そうしゅ)として、コルヴァスの隊長として、やるべきことをやるために。

 それは理由だった。正しい理由だった。だが、温度がなかった。


 かつては違った。

 セルヴィスに拾われた時。灰域(アッシュランド)の焼け跡から引き上げられ、食事を与えられ、寝床を与えられた時。リーヴは感謝した。この組織が自分を生かしてくれた。だから戦う。セルヴィスのために。秩序のために。灰域(アッシュランド)を安定させるために。それが信念だった。14歳で鋳脈(ちゅうみゃく)を受けた時も、迷いはなかった。体を差し出す。感覚を差し出す。その代償で得る力で、もっと多くを守れるなら。


 17歳でコルヴァスの隊長になった時。最年少の特務遊撃隊長。遊肢(ゆうし)4基を同時に操り、本体の白兵戦を維持できる唯一の操手(そうしゅ)。セルヴィスの刃。灰域(アッシュランド)を制圧し、反乱を鎮め、秩序を維持する。それが自分の役割だった。役割に疑問を持たなかった。


 今、20歳。ハルが死んだ。リオンが離脱した。シーラが敗北した。ダリオの聴覚はさらに悪化した。コルヴァスは変わった。そして自分の左手は何も感じなくなった。


 何のために。


 タンクが外れた。4基目。空のタンクを地面に置いた。新しいタンクを装填した。ロックをかけた。左手の指がレバーを押し込む感触がない。右手で確認した。ロックは正常にかかっていた。


 セルヴィスのためか。組織は自分を「保護」した。孤児保護プログラム。名前は優しかった。実態は兵士の選別だった。それを知ったのは、いつだったか。知った後も、怒りは湧かなかった。怒る理由がなかった。灰域(アッシュランド)で死ぬはずだった子供が生き延びた。食事を得た。技術を得た。力を得た。それが搾取であっても、死ぬよりはましだった。

 今もそう思うか。

 分からなかった。


 秩序のためか。秩序とは何だった。灰域(アッシュランド)を管理すること。資源を分配すること。焦土紀(しょうどき)の混乱を防ぐこと。正しい。正しいはずだった。だが、その秩序が守っているものは何だった。灰域(アッシュランド)の民間人か。セルヴィスの市民か。それとも、組織そのものの存続か。


 戦うことしかできない体だからか。

 味覚がない。左手の触覚がない。聴覚が侵食されている。鋳脈(ちゅうみゃく)の代償は止まらない。この体はもう、操手(そうしゅ)以外の何かになれるようにできていなかった。操縦桿を握り、遊肢(ゆうし)を展開し、敵を包囲し、殺す。それだけのために設計された体。設計したのは自分自身だ。14歳で鋳脈(ちゅうみゃく)を受けると決めた時に、この体の設計図を書いた。


 リーヴは射撃ユニットの調整に取りかかった。キャリブレーション用の治具を遊肢(ゆうし)の砲身に取り付け、軸のずれを測定した。0.03度。許容範囲内だが、修正した方がいい。微調整のダイヤルを右手で回した。


 * * *


 足音が近づいた。

 軍靴が凍った地面を踏む音。歩幅が広く、規則正しい。シーラだった。


「隊長」


 シーラ・フレイズが立っていた。プラチナブロンドの短い髪が朝風に揺れている。灰青色の目が、いつも通り冷たく乾いていた。顔に表情がない。報告の時のシーラの顔だ。


灰域(アッシュランド)の抵抗勢力の拠点を特定しました」


 リーヴは手を止めなかった。キャリブレーション用の治具を砲身から外しながら、頷いた。


「場所は」


「ストーンクロス東方32キロ。旧採掘施設の地下区画です。衛星偵察で熱源反応を確認。鉄殻(てっかく)と思われる反応が少なくとも4機」


 4機。灰域(アッシュランド)残殻(ざんかく)だろう。旧採掘施設の地下ならば、鉄殻(てっかく)の隠蔽に適している。天然の遮蔽がある。セルヴィスの空からの偵察を避けるには合理的な選択だ。


「リオン・アスフォードの機体反応は」


「不明です。ポラリスの熱源パターンは記録がありますが、地下からの反応では識別精度が落ちます。ただ――」


 シーラの声が僅かに硬くなった。


灰域(アッシュランド)残殻(ざんかく)4機の中に、汎殻(はんかく)と同等以上の反応が1機あります。銘殻(めいかく)クラスです」


 ケストレルか、ポラリスか。あるいは両方か。


「了解した」


 リーヴは治具を作業台に置いた。


 その時、別の足音が近づいた。シーラの歩調より軽い。少し急いでいる。


「隊長」


 フィン・カーターが来た。19歳。コルヴァスで唯一の非鋳脈(ちゅうみゃく)操手(そうしゅ)。茶色い髪が寝癖で跳ねていた。顔に緊張がある。シーラの報告を聞いていたのだろう。テントとの距離から考えて、声は届く。


「シーラの報告を聞きました」


 フィンの目がリーヴを見て、それからシーラを見た。シーラはフィンを見なかった。


「民間人の退避を確認してからにしませんか」


 フィンの声には迷いがあった。だが、発言すること自体に迷いはなかった。言うべきだと判断して、言った。コルヴァスの中で、フィンだけがこういうことを言う。シーラは言わない。ナディルも言わない。ダリオは黙る。ハルなら――ハルなら、言い方は違っただろうが、同じことを考えたかもしれない。


 旧採掘施設の地下区画。灰域(アッシュランド)の抵抗勢力が拠点にしているなら、民間人がいる可能性は低い。だが、ゼロではない。灰域(アッシュランド)の集落は地下に潜ることがある。鉄殻(てっかく)の戦闘が地上で繰り返される場所では、地下が唯一の安全圏になる。旧採掘施設はそういった避難場所として使われることがある。


 シーラが口を開きかけた。フィンの進言を切り捨てようとしたのだろう。任務の優先順位。拠点攻撃に民間人の退避確認は含まれていない。セルヴィスの作戦規定では、灰域(アッシュランド)の抵抗勢力は制圧対象であり、付随する民間人の退避は現場指揮官の裁量に委ねられている。裁量。つまり、やらなくても咎められない。


 リーヴはシーラの言葉が出る前に口を開いた。


「確認しろ」


 フィンが顔を上げた。シーラが動きを止めた。


「フィン。偵察に出ろ。汎殻(はんかく)で接近し、地下区画の生体反応を確認しろ。交戦するな。見つかるな。確認だけだ」


「了解」


 フィンの声に安堵があった。僅かに。フィンはそれを隠そうとして、隠しきれなかった。


 シーラはリーヴを見ていた。灰青色の目に何かが揺れた。疑問ではなかった。もっと根深い何かだった。リーヴが民間人の退避確認を命じることが、シーラには理解できないのだろう。あるいは、理解したくないのだろう。任務の障害になる。効率が落ちる。リーヴはそういうことを言う人間ではなかったはずだ。


 だが、シーラは何も言わなかった。頷いて、踵を返した。フィンもそれに続いた。


 2つの足音が遠ざかった。


 * * *


 リーヴは一人になった。


 ソルスティスの足元で、射撃ユニットのキャリブレーションの続きをやった。3号機の軸ずれを修正し、砲身の摩耗を確認した。許容範囲内。まだ使える。


 確認しろ。

 自分が出した命令を、リーヴは反芻した。


 民間人の退避確認。それは正しい判断だったのか。正しさの基準が分からなかった。セルヴィスの作戦効率としては無駄だった。時間を使い、偵察の危険を冒し、結果として攻撃が遅れる。フィンが見つかれば、奇襲の機会を失う。合理的な判断ではなかった。


 では、なぜ。


 フィンの目だった。

 民間人がいるかもしれないと言ったフィンの目が、リーヴの中の何かに触れた。19歳の非鋳脈(ちゅうみゃく)操手(そうしゅ)。コルヴァスの中で最も力がなく、最も壊れていない人間。その目が、当たり前のことを当たり前に言った。人が死ぬかもしれない場所に、確認もせずに砲弾を撃ち込むな。それだけのことだった。


 かつてのリーヴなら、自分からそれを命じていた。命じる前にフィンが言わなくても、自分で確認していた。それが変わったのはいつからだったか。いつから、言われなければ思い出せなくなったのか。


 リーヴは作業台に工具を置いた。


 顔を上げた。


 ソルスティスの背部を見上げた。折り畳まれた懸架アーム。その先端に吊り下げられた4基の遊肢(ゆうし)。扁平な三角形の飛翔体が、朝の光の中で静かに並んでいた。装甲の表面に薄い霜が張っている。推進剤タンクは全て新品に交換した。射撃ユニットのキャリブレーションも完了した。整備は万全だった。


 4基の遊肢(ゆうし)

 これが自分の手だ。


 リーヴは自分の両手を見下ろした。右手は工具の感触を覚えている。左手には何もなかった。指先から肘の手前まで、触覚がない。この手で人の肩を叩いても、温かさを感じない。この手で食器を持っても、器の重さが分からない。この手で操縦桿を握っても、桿の振動が伝わらない。


 だが、遊肢(ゆうし)は動く。

 鋳脈(ちゅうみゃく)のフィードバック回路を通じて、4基の遊肢(ゆうし)はリーヴの意志に従う。左手の触覚が失われても、遊肢(ゆうし)の位置情報は脳に直接届く。遊肢(ゆうし)の速射砲が発射される振動は、鋳脈(ちゅうみゃく)を通じて背骨で感じる。指先で触れることのできない世界を、遊肢(ゆうし)は代わりに触れてくれる。


 4基の遊肢(ゆうし)が、自分の手だ。

 10本の指の延長。いや、もはや代替だ。本当の手では何も感じられない。遊肢(ゆうし)だけが、世界に触れている。


 リーヴはソルスティスの遊肢(ゆうし)を見つめた。


 霜に覆われた三角形の飛翔体が、懸架アームの先端で静かに揺れていた。風が吹いた。遊肢(ゆうし)の装甲が僅かに軋んだ。金属が冷気に収縮する微かな音。それすら、リーヴの耳には遠かった。

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