味覚の消えた食卓
圧縮ビスケットを割る音が、テントの中に響いた。
乾いた、硬い音。リーヴ・シェイドは右手で銀色の包装を剥がし、四角い塊を二つに折った。断面は灰白色で、穀物の粒が潰されて固まっている。セルヴィスの携行糧食。栄養効率だけを追求した食糧。1枚で成人男性の1食分のカロリーを賄える。味は――味があったとしても、リーヴにはもう分からない。
口に入れた。
歯で砕いた。硬い。顎に負荷がかかる。歯が穀物の圧縮層を削り取り、唾液と混ざって柔らかくなっていく。それだけだった。舌の上に広がるはずの塩気も、穀物の甘さも、油脂の重さも、何もない。温度だけが分かる。冷たい。冬の灰域の夜気に晒されていた食糧は、石のように冷たかった。
咀嚼した。飲み込んだ。食道を固形物が下りていく感覚があった。胃に落ちた。
2口目を割った。同じ音がした。
* * *
テントは小さかった。
コルヴァス特務遊撃隊の野営地はストーンクロスの東方、凍結した平原の窪地に設営されていた。テントは5張り。うち1つは通信機材の置き場で、もう1つは補給物資の保管用だった。人が眠れるテントは3つ。かつては4つだった。1つ減った。中にいた人間が、いなくなったからだ。
リーヴのテントには携行コンロと折り畳みの小卓がある。小卓の上に、携行糧食が並んでいた。圧縮ビスケット4枚。乾燥肉の真空パック1袋。ビタミン剤の小瓶。セルヴィスの操手に支給される1日分の食糧。3食分ではない。1日でこれだけを分けて摂取する。戦場では時間が不規則だから、食事の区切りは自分で決める。
リーヴは圧縮ビスケットの3口目を口に入れた。
水筒を取った。蓋を開け、口に運んだ。液体が唇に触れ、舌の上を流れ、喉を通った。冷たかった。それだけだった。液体が喉を通る。ただそれだけの物理現象。水の味がするはずだった。金属の水筒に入れた水には、僅かに鉄の味が移る。それを覚えている。記憶として。舌の感覚としてではなく。
水筒を小卓に置いた。
テントの外で足音がした。乾いた土を軍靴が踏む音。歩幅が短い。ナディルだ。
布の入口が開いた。冬の外気が流れ込んできた。
「隊長」
ナディル・コールが立っていた。黒髪が風で乱れている。顔が赤い。外は寒いのだろう。21歳の顔に、疲労が染みついていた。目の下の隈が濃い。眠れていない。何日も。
ナディルの両手に携行食器が載っていた。乾燥肉を水で戻し、携行コンロで温めたものだった。肉片の表面が僅かに焦げている。湯気が立っていた。
「作りました。食べてください」
リーヴは食器を見た。
ナディルが作った温かい食事。乾燥肉を戻しただけのものだが、温かい。ナディルはこれを作るために自分のコンロを使い、水を使い、時間を使った。手間をかけた。何のために。リーヴの食事のために。
「ありがとう」
口から出た言葉は、正しい形をしていた。礼を言うべき場面で、礼を言った。だが声が平坦だった。抑揚がなかった。感謝の温度がない。言葉だけが正確で、中身が空洞だった。
ナディルがテントの中に入り、小卓の前に腰を下ろした。食器をリーヴの前に置いた。自分の分も持っていた。同じ乾燥肉。同じ調理法。
リーヴは食器を手に取った。フォークで肉片を刺し、口に入れた。
温かかった。歯ごたえがあった。繊維が歯の間に引っかかった。それだけだった。肉の味がない。焦げた部分の苦味がない。塩気がない。温かい繊維質の塊を咀嚼している。それ以上の情報を、舌は何も拾わなかった。
機械的に2口目を運んだ。3口目。4口目。咀嚼して、飲み込んで、また刺す。手の動きだけが規則正しく繰り返される。食事ではなかった。補給だった。
ナディルが自分の食器に視線を落としたまま、肉を口に運んでいた。咀嚼している。飲み込んでいる。だが箸が止まる瞬間があった。フォークを持つ手が、僅かに迷う。何か言おうとして、やめている。言葉を探して、見つからない。
リーヴにはそれが見えていた。
かつてなら、ここでハルが喋っていた。
ハルがいた頃は、食事の時間に沈黙がなかった。何を食べても「うまいっすね」と笑った。乾燥肉を戻しただけのものでも、圧縮ビスケットでも、ビタミン剤の錠剤を水で流し込む時ですら。「錠剤って、噛むと苦いんすよ。知ってました?」。知っていた。だがハルの声が言うと、それが新しい情報のように聞こえた。場の空気が動いた。ナディルが突っ込み、シーラが黙って聞いていて、リーヴが口元だけで笑った。
今、テントの中に声がない。
フォークが食器の底を引っ掻く音だけがある。冬の風がテントの布を押し、布が戻る音。遠くで整備員が工具を片づける金属音。それだけだ。人の声がない。
リーヴは肉を飲み込んだ。食器に残りが少なくなっていた。
「隊長」
ナディルが顔を上げた。
「もう少し、食べてください」
ナディルの声が掠れていた。ナディルの目に不安があった。恐れ、と言ってもいい。リーヴを見る目が、以前と変わっていた。リーヴに憧れて軍に入り、コルヴァスへの配属を志願した21歳の目は、今、別のものを見ている。壊れていく人間を見ている。それを止める方法が分からなくて、食事を作ることしかできない自分に苛立っている。
リーヴにはそれが分かっていた。分かっていて、安心させる言葉が出てこなかった。
大丈夫だ。そう言えばいい。たった4文字だ。ナディルの不安を消すには、それだけで十分だった。かつてのリーヴなら言えた。部下の肩を叩き、薄く笑い、「大丈夫だ」と。ハルが死ぬ前なら言えた。
今は、嘘をつく気力すらなかった。
「食べている」
リーヴは言った。事実だけを返した。食べている。口に入れ、噛み、飲み込んでいる。それは嘘ではない。味がしないだけだ。食事という行為の形だけを実行している。
ナディルは何か言いたそうな顔をして、口を閉じた。視線が落ちた。自分の食器に残った肉片を見ている。
沈黙が、テントの中を満たした。
* * *
食器を置いた。
リーヴは左手を見た。
震えていた。
小卓の上に載せた左手が、意志とは無関係に細かく痙攣している。指先が揺れている。親指から小指まで、5本全てが同じリズムで振動している。止めようとした。右手で左手首を掴んだ。掴んだ感触は右手にだけ伝わった。左手には何もなかった。掴まれている圧力も、右手の体温も、何も。
指先の触覚は、3ヶ月前に消えた。その後、掌の感覚が鈍り、手首まで上がってきた。今は肘の手前まで感覚が薄くなっている。いずれ肩に届く。そして反対側に移る。左手の次は右手だ。味覚、触覚、聴覚。鋳脈の代償は決まった順番で進行する。教えられた通りに。
震える左手を見つめた。
この手でソルスティスの副操縦桿を握る。遊肢4基を制御する。敵の座標を捉え、射撃を指示し、包囲を形成する。感覚がなくても、筋肉は動く。神経信号は通る。操作はできる。まだ。
ナディルの視線が、リーヴの左手に向いているのが分かった。
リーヴは手を膝の下に滑り込ませた。見えない場所に。ナディルが何も言わなかったのは、優しさなのか、恐怖なのか。
テントの外で風が強くなった。布が大きく膨らみ、支柱が軋んだ。凍結平原を渡る夜風だった。明日にはもっと冷え込む。
「ナディル」
「はい」
「お前は味が分かるか」
ナディルが一瞬、動きを止めた。
「……はい」
「今の飯は、どういう味だった」
ナディルの喉が動いた。答えを探している。正しい答えなど存在しない質問だと、ナディル自身も分かっているだろう。
「塩が足りなかったです。肉は硬くて、少し焦げてました」
リーヴは頷いた。
塩が足りない。肉が硬い。焦げている。それが味だった。不十分で、不格好で、だが確かに存在する味覚の情報。ナディルの舌はそれを拾い、脳に伝え、「まずい」と判断した。当たり前のことだった。当たり前のことが、リーヴにはもうない。
ハルなら言っただろう。「焦げてる方がうまいんすよ」と。
その声は、もうどこにもなかった。
* * *
リーヴは立ち上がった。
小卓の上の食器を見下ろした。空になった食器。空の水筒。ビタミン剤の小瓶だけが手つかずで残っていた。それを取り、蓋を開け、錠剤を2つ掌に出した。口に放り込んだ。水筒に残った最後の水で流し込んだ。錠剤が喉を通った。味はしなかった。
「明日、灰域の抵抗勢力を叩く」
リーヴは言った。
ナディルが顔を上げた。
「リオンもそこにいるはずだ」
その声に感情がなかった。怒りも、悲しみも、憎しみも。命令でもなかった。予定を告げる声。明日の天気を読み上げるように、戦闘の予告を口にした。リオン・アスフォードの名前が、ただの座標として発音された。かつての部下の名が。
ナディルが立ち上がった。食器を集め、テントの入口に向かった。背中が強張っていた。振り返らなかった。
テントの布が閉じた。足音が遠ざかった。
リーヴは立ったまま、自分の左手を見た。
震えていた。まだ震えていた。指先の感覚はない。だが震えは止まらない。この手が何を訴えているのか、リーヴにはもう分からなかった。




