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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄の鳴く夜

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201/218

味覚の消えた食卓

 圧縮ビスケットを割る音が、テントの中に響いた。

 乾いた、硬い音。リーヴ・シェイドは右手で銀色の包装を剥がし、四角い塊を二つに折った。断面は灰白色で、穀物の粒が潰されて固まっている。セルヴィスの携行糧食。栄養効率だけを追求した食糧。1枚で成人男性の1食分のカロリーを賄える。味は――味があったとしても、リーヴにはもう分からない。


 口に入れた。

 歯で砕いた。硬い。顎に負荷がかかる。歯が穀物の圧縮層を削り取り、唾液と混ざって柔らかくなっていく。それだけだった。舌の上に広がるはずの塩気も、穀物の甘さも、油脂の重さも、何もない。温度だけが分かる。冷たい。冬の灰域(アッシュランド)の夜気に晒されていた食糧は、石のように冷たかった。


 咀嚼した。飲み込んだ。食道を固形物が下りていく感覚があった。胃に落ちた。


 2口目を割った。同じ音がした。


 * * *


 テントは小さかった。

 コルヴァス特務遊撃隊の野営地はストーンクロスの東方、凍結した平原の窪地に設営されていた。テントは5張り。うち1つは通信機材の置き場で、もう1つは補給物資の保管用だった。人が眠れるテントは3つ。かつては4つだった。1つ減った。中にいた人間が、いなくなったからだ。


 リーヴのテントには携行コンロと折り畳みの小卓がある。小卓の上に、携行糧食が並んでいた。圧縮ビスケット4枚。乾燥肉の真空パック1袋。ビタミン剤の小瓶。セルヴィスの操手(そうしゅ)に支給される1日分の食糧。3食分ではない。1日でこれだけを分けて摂取する。戦場では時間が不規則だから、食事の区切りは自分で決める。


 リーヴは圧縮ビスケットの3口目を口に入れた。


 水筒を取った。蓋を開け、口に運んだ。液体が唇に触れ、舌の上を流れ、喉を通った。冷たかった。それだけだった。液体が喉を通る。ただそれだけの物理現象。水の味がするはずだった。金属の水筒に入れた水には、僅かに鉄の味が移る。それを覚えている。記憶として。舌の感覚としてではなく。


 水筒を小卓に置いた。


 テントの外で足音がした。乾いた土を軍靴が踏む音。歩幅が短い。ナディルだ。


 布の入口が開いた。冬の外気が流れ込んできた。


「隊長」


 ナディル・コールが立っていた。黒髪が風で乱れている。顔が赤い。外は寒いのだろう。21歳の顔に、疲労が染みついていた。目の下の隈が濃い。眠れていない。何日も。


 ナディルの両手に携行食器が載っていた。乾燥肉を水で戻し、携行コンロで温めたものだった。肉片の表面が僅かに焦げている。湯気が立っていた。


「作りました。食べてください」


 リーヴは食器を見た。


 ナディルが作った温かい食事。乾燥肉を戻しただけのものだが、温かい。ナディルはこれを作るために自分のコンロを使い、水を使い、時間を使った。手間をかけた。何のために。リーヴの食事のために。


「ありがとう」


 口から出た言葉は、正しい形をしていた。礼を言うべき場面で、礼を言った。だが声が平坦だった。抑揚がなかった。感謝の温度がない。言葉だけが正確で、中身が空洞だった。


 ナディルがテントの中に入り、小卓の前に腰を下ろした。食器をリーヴの前に置いた。自分の分も持っていた。同じ乾燥肉。同じ調理法。


 リーヴは食器を手に取った。フォークで肉片を刺し、口に入れた。


 温かかった。歯ごたえがあった。繊維が歯の間に引っかかった。それだけだった。肉の味がない。焦げた部分の苦味がない。塩気がない。温かい繊維質の塊を咀嚼している。それ以上の情報を、舌は何も拾わなかった。


 機械的に2口目を運んだ。3口目。4口目。咀嚼して、飲み込んで、また刺す。手の動きだけが規則正しく繰り返される。食事ではなかった。補給だった。


 ナディルが自分の食器に視線を落としたまま、肉を口に運んでいた。咀嚼している。飲み込んでいる。だが箸が止まる瞬間があった。フォークを持つ手が、僅かに迷う。何か言おうとして、やめている。言葉を探して、見つからない。


 リーヴにはそれが見えていた。


 かつてなら、ここでハルが喋っていた。


 ハルがいた頃は、食事の時間に沈黙がなかった。何を食べても「うまいっすね」と笑った。乾燥肉を戻しただけのものでも、圧縮ビスケットでも、ビタミン剤の錠剤を水で流し込む時ですら。「錠剤って、噛むと苦いんすよ。知ってました?」。知っていた。だがハルの声が言うと、それが新しい情報のように聞こえた。場の空気が動いた。ナディルが突っ込み、シーラが黙って聞いていて、リーヴが口元だけで笑った。


 今、テントの中に声がない。


 フォークが食器の底を引っ掻く音だけがある。冬の風がテントの布を押し、布が戻る音。遠くで整備員が工具を片づける金属音。それだけだ。人の声がない。


 リーヴは肉を飲み込んだ。食器に残りが少なくなっていた。


「隊長」


 ナディルが顔を上げた。


「もう少し、食べてください」


 ナディルの声が掠れていた。ナディルの目に不安があった。恐れ、と言ってもいい。リーヴを見る目が、以前と変わっていた。リーヴに憧れて軍に入り、コルヴァスへの配属を志願した21歳の目は、今、別のものを見ている。壊れていく人間を見ている。それを止める方法が分からなくて、食事を作ることしかできない自分に苛立っている。


 リーヴにはそれが分かっていた。分かっていて、安心させる言葉が出てこなかった。


 大丈夫だ。そう言えばいい。たった4文字だ。ナディルの不安を消すには、それだけで十分だった。かつてのリーヴなら言えた。部下の肩を叩き、薄く笑い、「大丈夫だ」と。ハルが死ぬ前なら言えた。


 今は、嘘をつく気力すらなかった。


「食べている」


 リーヴは言った。事実だけを返した。食べている。口に入れ、噛み、飲み込んでいる。それは嘘ではない。味がしないだけだ。食事という行為の形だけを実行している。


 ナディルは何か言いたそうな顔をして、口を閉じた。視線が落ちた。自分の食器に残った肉片を見ている。


 沈黙が、テントの中を満たした。


 * * *


 食器を置いた。


 リーヴは左手を見た。


 震えていた。


 小卓の上に載せた左手が、意志とは無関係に細かく痙攣している。指先が揺れている。親指から小指まで、5本全てが同じリズムで振動している。止めようとした。右手で左手首を掴んだ。掴んだ感触は右手にだけ伝わった。左手には何もなかった。掴まれている圧力も、右手の体温も、何も。


 指先の触覚は、3ヶ月前に消えた。その後、掌の感覚が鈍り、手首まで上がってきた。今は肘の手前まで感覚が薄くなっている。いずれ肩に届く。そして反対側に移る。左手の次は右手だ。味覚、触覚、聴覚。鋳脈(ちゅうみゃく)の代償は決まった順番で進行する。教えられた通りに。


 震える左手を見つめた。


 この手でソルスティスの副操縦桿を握る。遊肢(ゆうし)4基を制御する。敵の座標を捉え、射撃を指示し、包囲を形成する。感覚がなくても、筋肉は動く。神経信号は通る。操作はできる。まだ。


 ナディルの視線が、リーヴの左手に向いているのが分かった。


 リーヴは手を膝の下に滑り込ませた。見えない場所に。ナディルが何も言わなかったのは、優しさなのか、恐怖なのか。


 テントの外で風が強くなった。布が大きく膨らみ、支柱が軋んだ。凍結平原を渡る夜風だった。明日にはもっと冷え込む。


「ナディル」


「はい」


「お前は味が分かるか」


 ナディルが一瞬、動きを止めた。


「……はい」


「今の飯は、どういう味だった」


 ナディルの喉が動いた。答えを探している。正しい答えなど存在しない質問だと、ナディル自身も分かっているだろう。


「塩が足りなかったです。肉は硬くて、少し焦げてました」


 リーヴは頷いた。


 塩が足りない。肉が硬い。焦げている。それが味だった。不十分で、不格好で、だが確かに存在する味覚の情報。ナディルの舌はそれを拾い、脳に伝え、「まずい」と判断した。当たり前のことだった。当たり前のことが、リーヴにはもうない。


 ハルなら言っただろう。「焦げてる方がうまいんすよ」と。


 その声は、もうどこにもなかった。


 * * *


 リーヴは立ち上がった。


 小卓の上の食器を見下ろした。空になった食器。空の水筒。ビタミン剤の小瓶だけが手つかずで残っていた。それを取り、蓋を開け、錠剤を2つ掌に出した。口に放り込んだ。水筒に残った最後の水で流し込んだ。錠剤が喉を通った。味はしなかった。


「明日、灰域(アッシュランド)の抵抗勢力を叩く」


 リーヴは言った。


 ナディルが顔を上げた。


「リオンもそこにいるはずだ」


 その声に感情がなかった。怒りも、悲しみも、憎しみも。命令でもなかった。予定を告げる声。明日の天気を読み上げるように、戦闘の予告を口にした。リオン・アスフォードの名前が、ただの座標として発音された。かつての部下の名が。


 ナディルが立ち上がった。食器を集め、テントの入口に向かった。背中が強張っていた。振り返らなかった。


 テントの布が閉じた。足音が遠ざかった。


 リーヴは立ったまま、自分の左手を見た。


 震えていた。まだ震えていた。指先の感覚はない。だが震えは止まらない。この手が何を訴えているのか、リーヴにはもう分からなかった。

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