最後の静けさ
ストーンクロスの通りから、荷車の軋む音が絶えなかった。
朝から続いている。住民たちが家財を運び出し、南の退避壕へ向かっている。布に包んだ食器、衣服を詰め込んだ革鞄、水筒と毛布。30年かけて積み上げた暮らしが、荷車の上に載る分だけの荷物に圧縮されていた。
子供の泣き声が聞こえた。
石壁の向こう、路地の奥から。母親がなだめる声が重なるが、泣き声は止まない。何が怖いのかも分かっていないのだろう。ただ大人たちの顔が硬いことを、子供は感じ取っている。
老人が一人、家の前に立っていた。扉に手をかけたまま動かない。中を振り返り、また前を向く。家の中には持ち出せないものがある。テーブル。棚。壁に打った釘に掛けた写真。30年分の記憶は荷車に載らない。老人は長い息を吐き、扉を閉めた。鍵をかけた。鍵をポケットに入れた。帰ってきた時に開けるために。
カイはその光景の横を歩いた。
ボルトの部隊が防衛線の構築を始めている。ストーンクロスの東端、旧世界の高架道路の残骸が崩れた場所に、残殻3機が金属板を運んでいた。トワのシルフが先導し、レイダーズのフランとジップが後に続く。鉄殻の足が石畳を踏むたびに、地面が揺れた。
「退避は午後までに完了させる。バートンが人員を回してる」
ボルトが格納区画の入り口に立っていた。腕を組み、東の空を見ている。曇天だった。灰色の雲が低く、厚く、地平線まで覆っている。
「雲が出てきたな」
カイが言った。
「北西の風だ。今夜から荒れる。視界が悪くなる」
「こちらにとっても、敵にとっても」
「ああ。だが鋼城は止まらない。嵐だろうが何だろうが、あの足は動き続ける」
ボルトは視線を東の空に据えたまま、低く言った。
「リーヴのほうは明日の夕方だ。マイロの予測が正しければ」
「間に合うか」
「間に合わせる」
ボルトの声には余分なものがなかった。15年間の傭兵生活が削り落とした声だった。間に合わなければどうなるか。その問いは口にしない。答えが分かっているから。
* * *
ガルドの作業場は、ストーンクロスの北端にあった。
旧世界の車両整備工場の跡地。天井が高く、壁は煤で黒ずんでいる。工具が壁一面に並び、作業台の上には分解されたリレー素子の部品が整然と置かれていた。油と金属粉と煙草の匂いが混じり合って、ガルドがそこにいる証拠になっていた。
ケストレルが作業場の中央に立っていた。
胸部装甲が外され、内部のフレームが露出している。アルマナック合金の骨格が作業灯の下で鈍い銀色に光っていた。ガルドが梯子の上に立ち、フレームの接合部にレンチを当てている。煙草は口に咥えたまま、灰が伸びている。
カイが入ってきたことに気づいていた。振り向かなかった。
「ガルド」
「忙しい」
「知ってる」
カイは作業台の横に立った。ガルドの背中を見上げた。作業着の肩が動いている。レンチが金属を噛む音。規則的な動作。44歳の技匠の手は正確だった。震えは見えない。だが今のカイは知っている。精密作業の前に、ガルドが指先を組んで押さえる理由を。
「鋳脈の話はもうしない」
カイが言った。
レンチの音が止まった。
ガルドの肩が微かに動いた。息を吸ったのか、止めたのか、梯子の下からは分からなかった。
沈黙が落ちた。作業場の中で、天窓から差し込む曇った光だけが動いていた。
ガルドは振り向かなかった。だが梯子の上で、ゆっくりと頷いた。
一度だけの、小さな動きだった。
それで十分だった。カイが鋳脈を求めていた時期が終わったことを、ガルドは理解した。ネイサンの右手を見たからか。クレアの説明を聞いたからか。理由は問わない。ガルドが問う権利はなかった。鋳脈を作った側の人間が、拒む理由を詮索する資格はない。
ただ、カイがそう言ったことが、ガルドには十分だった。
レンチの音が再開した。規則的な金属音。フレームの接合部を締め直す音。ケストレルの最終調整を、ガルドは一つずつ進めている。明日のために。
「関節部の負荷係数を3パーセント下げた」
ガルドが煙草越しに言った。声は平坦だった。いつもの技匠の声に戻っている。
「動きが軽くなる代わりに、衝撃吸収が甘くなる。正面からのぶつかり合いには向かない。だがお前の戦い方には合うはずだ」
「分かった」
「右腕の駆動系も調整した。引き金の応答が0.02秒早くなっている。冴覚で反応してから射撃までの遅延が減る」
ガルドの声が、数値と機構の説明を続けた。カイは黙って聞いた。技匠の言葉は操手への信頼の証だった。調整の一つ一つが、明日を生きて帰ってこいという言葉の代わりだった。
ガルドがレンチを置いた。
煙草の灰を指先で弾いた。梯子の上からケストレルのフレームを見下ろしている。旧世界で鋳造された骨格。テオが命を預けたアルマナック合金。その上に、ガルドがカイのための機体を組み直した。
「鋼城の動力源は」
ガルドの声が低くなった。
カイは目を上げた。
「お前は知らないほうがいい」
2度目だった。ケストレルを受け取ったあの日、格納区画で聞いた言葉と、同じ言葉。同じ声の硬さ。だが今のカイには、あの時と違う耳があった。ネイサンの震える手を見た耳。クレアの声を聞いた耳。
前回は問い詰めた。答えろと言った。ガルドは壁を立てて拒絶した。
今度は違った。
「いつか教えてくれ」
カイは言った。
ガルドの手が止まった。レンチでもなく、煙草でもなく、何も持っていない手が、フレームの上に置かれていた。
「今じゃなくていい。全部終わってからでいい。ガルドが話せる時に、話してくれればいい」
ガルドは答えなかった。
だが先ほどの拒絶の壁は、立たなかった。硬い声も、凍った目も、出てこなかった。ガルドはケストレルのフレームの上に手を置いたまま、長く息を吐いた。煙草の煙が天窓に向かって昇っていった。
「……ああ」
掠れた声だった。約束とも、了承とも言えない。だが拒絶ではなかった。
カイは頷いた。
作業場を出る前に振り返った。ガルドは既にレンチを手に取り、次の接合部に取りかかっていた。背中が丸い。煙草の煙が細く立ち上っている。44歳の技匠は、明日のために手を動かし続けていた。
* * *
夜が来た。
雲はさらに厚くなっていた。星は見えない。ストーンクロスの上に、黒い蓋が被さったような空だった。風が出始めている。北西から吹く冷たい風が、石壁の隙間を通り抜けて鳴った。
住民の退避はほぼ終わっていた。通りには人影がなく、灯りの消えた家が並んでいる。鍵のかかった扉。閉じた窓。明日ここに戻ってこられるかどうか、誰にも分からない。
陣地の外、石壁の崩れた場所にカイは座っていた。
石壁の上に腰を下ろし、足をぶらさげている。東の地平線は見えない。雲が低すぎて、空と地面の境が溶けている。どこかで風が唸っている。嵐が近い。
隣に、リオンが座った。
音もなく来て、何も言わずに座った。同じ石壁の上に、30センチほどの間隔を空けて。紺色の目が、同じ暗い東の空を見ていた。
白い息が二つ、並んで立ち昇った。
しばらく、どちらも話さなかった。風の音と、遠くで残殻が動く金属音だけが聞こえていた。ボルトの部隊が夜通しで防衛線を仕上げている。
「怖い?」
リオンが言った。
前を向いたまま。声は静かだった。問いかけというより、確認するような響きだった。
「怖い」
カイは答えた。嘘をつく理由がなかった。明日、リーヴが来る。鋼城が来る。13機で迎え撃つ。数字は変わらない。恐怖も変わらない。
リオンは頷いた。小さな動きだった。
「私も」
二つの白い息が、暗い空に溶えた。
リオンの横顔が、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。風が前髪を揺らしている。紺色の目は東を見ている。あの方角からリーヴが来る。かつての同期が、鋳脈と遊肢を纏って、真っ直ぐに。
カイもまた東を見た。
暗い空の下に、何も見えなかった。鋼城の灯りも、コルヴァスの影も、まだ地平線の向こうだ。だが明日には見える。見えた時が、始まりだ。
風が強くなった。石壁の上で体が冷えていく。白い息が風に千切られて消えた。
リオンの肩が、かすかに震えていた。寒さか、恐怖か、その両方か。カイの肩も同じだった。
二人とも立ち上がらなかった。
もう少しだけ、この静けさの中にいたかった。嵐が来る前の、最後の静けさに。明日からは止まれない。銘殻に乗り、操縦桿を握り、冴覚を研ぎ澄ませ、リーヴの遊肢を掻い潜り、鋼城の腹に潜り込む。止まったら死ぬ。だから今だけは、止まっていたかった。
雲の向こうに星があるはずだった。見えないだけで、在るはずだった。
カイは息を吐いた。白い靄が闇に溶けた。
隣で、リオンも同じように息を吐いた。
嵐の前の夜が、二人の上に降りていた。




