遠い声
ストーンクロスの通信室は、旧世界の郵便局の地下にあった。
地上の建物は砲撃で半壊していたが、地下室は無事だった。石とコンクリートの壁に囲まれた8畳ほどの空間に、タリアが改修した通信機材が並んでいる。旧世界の無線機を3台分解して1台に組み直した受信機。手作りのアンテナは地上の瓦礫の隙間から突き出ており、銅線と鉄パイプを繋ぎ合わせた不格好な代物だった。それでもタリアが調整した周波数帯は灰域の集落間通信を安定して拾う。
カイが通信室に入った時、焦土の声ラジオが低い音量で流れていた。
「――南東部の集落オールドベリーで食糧備蓄の共有が始まった模様。アイアンウェルからの鉄材輸送は予定通り。天候は明日から悪化、北西の風が強まる見込み――」
事実だけを淡々と読み上げる声。灰域の耳。タリアが整備した中継網がなければ、この声はどこにも届かなかった。
受信機の前に、マイロが椅子を引いて座っていた。メモ帳を膝に載せ、放送の内容を書き留めている。カイに気づくと、ペンを止めずに顎で奥を示した。
「繋がってるぞ。30分だ」
通信室の奥、壁に据え付けられた送受信機の前に空いた椅子があった。スピーカーからは微かなノイズが漏れている。カイは椅子に座り、マイクの前に体を寄せた。
「タリア」
ノイズが途切れた。一瞬の沈黙の後、声が返ってきた。
「遅い」
タリアの声だった。ノイズ越しでも分かる。明るくて、少し怒っていて、その奥に安堵が滲んでいる。16歳の声。ラストヘイムから、灰域の通信網を経由して、ストーンクロスまで。タリアが自分で敷いた回線を通って、タリア自身の声が届いている。
「3日も連絡しなかったでしょ。こっちは毎日定時に回線開けてるのに」
「悪い。軍議が続いてた」
「軍議ね」
タリアの声に、一拍の間があった。
「大きい話なんでしょ。ゲオルグじいちゃんがずっと渋い顔してる。クレアさんが医療品の在庫を二重に確認してた。リックが双眼鏡を持って屋根の上に登ろうとして怒られてた」
ラストヘイムの光景が浮かんだ。ゲオルグが眉間に皺を寄せて火の前に座っている。クレアが棚の薬品を数えている。リックが屋根から引きずり降ろされている。カイがいない場所で、いつもの暮らしが続いている。
「そっちの様子を教えて」
タリアが言った。声の調子が変わっていた。軽口ではなく、通信技術者としての声だった。情報を求めている。
「鋼城が動いた」
カイは言った。
ノイズが走った。タリアが息を飲んだのか、回線が揺れたのか、区別がつかなかった。
「方角は」
「北西。ストーンクロス方面だ。時速8キロで進軍してる。止まらない。昼も夜も動き続けてる」
「時速8キロ……」
タリアが呟いた。計算しているのだろう。通信技術者の頭が数字を処理している。
「ラストヘイムまでの距離は」
「直線で500キロ以上ある。すぐには来ない。だがストーンクロスには――」
「2日半で届く」
タリアが先に答えた。声が固かった。
沈黙が落ちた。回線のノイズだけが、石壁の通信室に満ちている。
「あたしの通信網が拾ったのも同じ情報だった」
タリアが言った。
「南東のサーラからも入ってる。グランヴェルトの管区境界付近で、鋼城の排熱を計測したって。地面が震えてるって報告もある。3.2キロメートルの鉄の塊が歩いてるんだから、そりゃ地面も揺れるよね」
声は冷静だった。だが最後の一文で、ほんの僅かに揺れた。
「カイ」
「何だ」
「早く帰ってきなさい」
軽口ではなかった。「ちゃんと帰ってきなさいよ」でもなかった。いつものタリアなら付け加える冗談も皮肉もなかった。ただ5つの言葉が、ノイズの隙間を通り抜けて、カイの耳に届いた。
カイはマイクの前で黙った。
タリアの声を聞いている。ノイズ越しの、少し歪んだ、だが間違いなくタリアの声を。この声が聞こえる場所が、カイの帰る場所だった。ラストヘイムの廃墟の屋上で並んで座った夜。テオのジャケットを肩に羽織って、通信機の配線をいじっていた指先。あの場所が、まだ在る。
「分かった」
カイは答えた。短い言葉だった。約束とも誓いとも言えない、ただの返事だった。だがそれ以上の言葉を、カイは持っていなかった。
「……うん」
タリアの声が小さくなった。
「回線、閉じるね。電力の問題があるから。次は明日の同じ時間に開ける」
「分かった」
「カイ」
「何だ」
「壊れたら直せないからね。ケストレルじゃなくて、あんたの方」
ノイズが増えた。タリアの声が遠くなった。回線が細くなっている。
「また明日」
通信が切れた。
スピーカーからノイズだけが流れている。カイは椅子に座ったまま、しばらくその音を聞いていた。砂嵐のような音。何も伝えない音。だが1分前まで、この音の隙間にタリアの声があった。
* * *
通信室の階段を上がると、ボルトが待っていた。
旧郵便局の崩れた壁に肩を預け、腕を組んでいる。巨体が入口を半分塞いでいた。コートの襟元から覗く首は太く、顎髭に白いものが混じっている。39歳の傭兵頭は、カイの顔を見た瞬間に口を開いた。
「いい話と悪い話がある」
「どっちが先だ」
「悪い方だ。いい話なんてない」
ボルトは壁から背を離した。右手に紙を持っていた。マイロの筆跡だった。
「リーヴ・シェイドが動いた」
カイの足が止まった。
「東から真っ直ぐこちらに向かっている。コルヴァス特務遊撃隊の先行部隊。ドールの群れを引き連れて、ストーンクロスに向けて進軍中だ。マイロのリレイが偵察衛星の残骸から拾った電波データと、タリアの通信網の情報が一致した」
カイは紙を受け取った。マイロの几帳面な文字が、敵部隊の推定位置と進軍速度を記している。東から80キロ。リーヴの速度なら、明後日には届く。
鋼城モノリスが北西から。リーヴ・シェイドが東から。
二つの影が、ストーンクロスに向かって収束している。
「挟み撃ちか」
カイが言った。
「偶然か計算かは分からん。だがどちらにしても、俺たちは二正面で戦うことになる」
ボルトの声には焦りがなかった。15年間灰域で戦い続けてきた男の声だった。状況が悪いことを認め、その上で次の手を考える。それが傭兵の生き方だった。
「バートンにはもう伝えた。マイロが配置を組み直してる。明日の朝までに最終案を出す」
ボルトは踵を返した。3歩進んで、足を止めた。振り向かなかった。
「テオの息子」
「何だ」
「帰る場所があるってのは、いいことだ」
ボルトは歩き出した。崩れた壁の向こうに消えていく。巨体が夕暮れのストーンクロスの通りに溶けた。
* * *
カイは格納区画に向かった。
仮設格納庫の鉄扉を開けると、薄暗がりの中にケストレルが立っていた。鉄紺色の装甲が、天窓から差し込む夕光を受けて鈍く光っている。整備灯は消えていた。ガルドが今日の作業を終えた後だろう。工具箱が壁際に並べられ、油の匂いが残っている。
梯子を上り、操縦席に座った。
計器盤の電源を入れた。薄い青色の光が操縦席を照らした。数字が並ぶ。燃料残量、弾薬残量、関節部の負荷係数、装甲の損耗率。全てが数字だった。鋳脈があれば体感で分かるものを、カイは一つ一つ目で読む。
操縦桿を握った。金属の冷たさが掌に伝わった。この冷たさを感じられる。指が5本とも動く。耳が両方とも聞こえる。目が両方とも見える。ネイサンの震える右手を思い出した。この体を、このまま持って帰る。
計器の明かりが、操縦席の中を青く染めている。
明日が来る。
鋼城の影が北西から迫り、リーヴの刃が東から走ってくる。その間に挟まれた小さな集落に、カイは座っている。
明日が来る。避けられない明日が。
カイは計器の光を見つめていた。タリアの声が耳に残っていた。早く帰ってきなさい。その声が消えないうちに、目を閉じた。




