灰域連合の最終軍議
作戦室の壁に、旗はなかった。
セルヴィスなら防衛機構の紋章が掲げられている。グランヴェルトなら工業連盟の歯車の意匠が壁を飾る。クレスタなら資源同盟の秤が刻まれた旗が垂れ下がる。だがこの部屋には何もなかった。灰色の石壁と、剥がれかけた旧世界の塗装と、手描きの地図だけがある。
灰域連合には旗がない。国ではないから旗がない。ただそれだけのことだった。
9人が卓を囲んでいた。
バートンが上座についている。いつものスーツに似た上着。背筋を伸ばし、右手の小指のない手を卓上に置いていた。その隣にコンラッドが座っている。袖口にアイアンウェルの鉄粉はもうなかった。今日は手を洗ってきたのだ。この場がそれだけの意味を持つことを、コンラッドは理解していた。
ボルトが壁際に立っている。椅子には座らなかった。巨体を石壁に預け、腕を組んでいた。その右に控えるマイロが手帳を開いている。卓上の地図には、前回より多くの書き込みが追加されていた。ルイから受け取った鋼城の構造情報。弱点の位置。冷却循環路の分岐点。全てがマイロの几帳面な文字で書き加えられていた。
リントが椅子の背もたれに体を預けている。今日は天井を見上げていなかった。赤いスカーフの端を指先で弄びながら、地図の上の駒を見ていた。トワが入口の近くに立ち、壁に肩を預けている。腕を組み、目だけが卓上を見ていた。
ネイサンは部屋の隅にいた。椅子に深く腰を下ろし、フードを被ったまま、左目だけで室内を見回している。右手の震えを左手で押さえていた。
カイは卓の角に立っていた。リオンがその隣に立っている。
「最終確認だ」
バートンが全員を見回した。
「鋼城モノリスの到達まで、残り72時間。ルイの情報が正しければ、現在時速8キロメートルで北進している。経路上にストーンクロスがある。迂回する理由がない以上、正面から来る」
「正面からしか来ない」
コンラッドが静かに訂正した。
「あれは迂回できる大きさではない。全長3.2キロメートルの物体が進路を変えるには、半径2キロメートル以上の旋回空間が要る。渓谷地帯では直進するしかない」
「つまり、来る場所は分かっている」
バートンが頷いた。
「問題は、何で迎え撃つかだ。マイロ」
マイロが手帳から目を上げた。卓上の地図に指を伸ばし、木の駒を並べ始めた。丸い駒が13個。角張った駒がその3倍は置かれていた。
「灰域連合の戦力。銘殻2機、残殻11機。汎殻はなし。操手は全員で13名」
マイロは丸い駒を一つずつ地図の上に置いていった。
「対する鋼城の護衛戦力は、シンダー隊の銘殻3機と汎殻8機から12機。加えてセンチネル・ドールが推定40体以上。鋼城自体の火砲。そして鋼城の行軍中にドールは増産される。時間が経てば経つほど、敵は増える」
角張った駒の数が、丸い駒を圧倒していた。地図の上で視覚化された戦力差は、言葉で聞くより重かった。
「勝てるわけねえだろ、正面からじゃ」
ボルトが壁から背中を離した。
「だが正面以外に道はない。で、マイロ。お前の頭にはもう絵が描けてるんだろう」
「描けている」
マイロはペンで地図の上を指し示した。ストーンクロスの東方、旧世界の高架橋が崩落した渓谷地帯。前回の会議で選定した待ち伏せ地点だった。
「作戦は三段階。第一段階、ドールの排除。第二段階、シンダー護衛隊の突破。第三段階、鋼城への侵入」
マイロは駒を動かしながら説明を続けた。
「第一段階。鋼城が渓谷に入った時点で、前衛のドール群が展開する。これを放置すれば後方の退路を塞がれる。ドールの排除はリントとトワが担当する」
丸い駒を2つ、渓谷の側面に配置した。
「リント。キャリバーの移動射撃で、群れの密集部を削れ。ドールは個体の判断力が低い。密集を崩せば連携が破綻する」
「了解」
リントが背もたれから体を起こした。赤いスカーフから指が離れた。
「トワ。シルフの機動力で散開したドールを各個撃破してくれ。深追いはしなくていい。前衛が崩れた隙に本隊が進む時間を稼げれば十分だ」
「分かった」
トワの声は短かった。
「第二段階。ドールの壁が崩れた時点で、シンダー護衛隊が前に出てくる。ここが最大の山場だ」
マイロは角張った駒を三段に並べた。前衛、中衛、後衛。リオンが前回説明した護衛隊形だった。
「正面防衛はボルトのレイダーズが受け持つ。ボルト、ハウラーの装甲でシンダー前衛の汎殻を引きつけてくれ。ぶつかり合いはあんたの専門だろう」
「任せろ」
ボルトが口の端を持ち上げた。笑みとは言えない表情だった。牙を見せる獣のような、戦いの前の昂揚だった。
「レイダーズ5機で前衛の汎殻4機を止める。釘付けにしている間に、突破役が中列を抜く」
「突破役は」
マイロの視線がカイとリオンに向いた。
「カイとリオン。銘殻2機で、シンダー中列を突破し、リーヴ・シェイドを止める」
卓の上の駒の動きが止まった。部屋の空気が変わった。名前が出ただけで変わる空気だった。
「リーヴの相手は二人がかりでも厳しい。遊肢4基を展開しながら本体の近接戦闘を維持する人間を止めるには、正面から削り合うのではなく、母機と遊肢を同時に揺さぶる必要がある」
マイロはカイとリオンを交互に見た。
「カイ、お前の冴覚で遊肢の動きを読め。リオン、ポラリスの機動力で母機に圧力をかけ続けろ。どちらか一方が欠ければ成り立たない。二人で一つの作戦だ」
カイは頷いた。リオンも頷いた。言葉は交わさなかった。
「第三段階。リーヴを排除できた場合、鋼城への侵入路を開く。鋼城の弱点は下腹部の冷却循環路と、胴体最深部の鋳脈接続中枢。下腹部の装甲は他の部位より薄いが、残殻の火力では貫けない。銘殻の主砲でなければ穴は開かない」
マイロは地図の鋼城を示す大きな長方形を指した。
「侵入役もカイとリオンだ。リーヴを排除した後、速やかに鋼城の直下に入り、冷却循環路の分岐点を破壊する。動力炉の過半数が停止すれば、鋼城は歩けなくなる」
「それで終わりではないだろう」
コンラッドが口を開いた。
「鋼城が止まっても、鋳脈接続中枢が生きている限り、残りの動力炉で火砲とドール生産を維持できる。止めるだけでは足りない。中枢を落とさなければ、鋼城は撃ち続ける」
「中枢の破壊は、第三段階の最終目標だ。だがそこまで辿り着けるかは、第一段階と第二段階の成否にかかっている」
マイロが手帳を閉じた。
「一つでも崩れれば、全て破綻する。余剰戦力はない」
沈黙が落ちた。
* * *
「後方支援はどうする」
バートンが沈黙を破った。視線をネイサンに向けた。
ネイサンは椅子の上でフードの陰から左目だけをバートンに向けた。
「俺に何ができる」
掠れた声だった。
「鉄殻に乗れない。手が震えて操縦桿を握れない。目は半分見えない。耳は片方死んでる。何ができる」
「知識がある」
バートンの声は穏やかだった。
「グランヴェルトの正規軍を内側から知っている人間は、この部屋にはあなたとリオンしかいない。リオンはセルヴィスの知識を持っている。あなたはグランヴェルトの知識を持っている。戦場に出なくても、通信で指示を出すことはできる」
ネイサンの左目が僅かに細くなった。
「後方から口を出せ、ということか」
「出してほしい。シンダーの動きを読める人間が、前線の操手に助言を送れるなら、それだけで戦況が変わる」
ネイサンは黙った。右手の震えが、左手の下で続いていた。
「……分かった」
低い声だった。了承ではなかった。それ以外に自分がここにいる理由がないことを、受け入れた声だった。
「コンラッド。アイアンウェルからの補給物資の最終確認を」
バートンが話を進めた。コンラッドが卓上に帳簿を広げた。何度も開いた痕跡のある表紙が、端から擦り切れていた。
「鉄芯弾4800発。残殻用の汎用弾薬が1万2000発。装甲修復用の鉄板が80枚。動力炉の冷却液が160リットル。予備パーツ類は数えるのが馬鹿馬鹿しいほど足りない。どれも在庫の全量だ。アイアンウェルには何も残らない」
「全量を出すのか」
リントが声を上げた。
「出す」
コンラッドの声に迷いはなかった。
「負けたら在庫も何もない。全部灰になる。出し惜しみして負けるなら、全部出して勝つ方がいい。勘定は簡単だ」
コンラッドは帳簿を閉じた。右手の薬指に嵌まった銀の指輪が、窓からの光を拾って一瞬だけ光った。亡き妻の形見だった。
「ただし、二度目はない。言っておく。これは全てだ」
「一度で決める」
ボルトが言った。前回と同じ言葉だった。だが前回より声が低かった。
* * *
マイロが全体の配置を最終確認し、手帳に書き込んだ内容を読み上げた。
リントとトワがドール排除。ボルトのレイダーズ5機が正面防衛。カイとリオンがリーヴを止め、鋼城に侵入。ネイサンが後方から通信支援。コンラッドが補給物資の輸送管理。バートンが全体の統括と住民の避難指示。マイロ自身は偵察機リレイで戦場全体を俯瞰し、通信を介して各隊に情報を流す。
13名の操手と、2人の非戦闘員。灰域連合の全戦力がそこにあった。
バートンが椅子から立ち上がった。
全員の視線が集まった。バートンは地図を一度見下ろし、それから顔を上げた。旗のない石壁を背にして、右手の小指のない手を卓上に置いた。
「負ければ灰域はなくなる」
バートンの声は静かだった。演説の声ではなかった。事実を述べる声だった。
「だが戦わなければ、灰域は最初からなかったことになる」
部屋の空気が止まった。
旗がなくても、国でなくても、ここに人がいた。30年間、統治機構体に見捨てられた土地で、水を探し、鉄を掘り、壁を直し、子供を育てた人間がいた。その30年を、鋼城は3日で踏み潰す。
戦わなければ、その30年は数字にすらならない。
「各自、持ち場へ」
バートンがそう言った。
椅子が引かれた。靴音が床を叩いた。コンラッドが帳簿を抱えて立ち上がり、バートンに短く目配せした。ボルトが壁から背を離し、マイロが手帳を閉じてその後に続いた。リントが赤いスカーフの端を襟に押し込み、扉へ向かった。トワは音もなく姿を消した。ネイサンがゆっくりと椅子から立ち上がり、震える右手をコートのポケットに入れて部屋を出た。
卓の上に、マイロが集め忘れた駒が一つ残っていた。丸い駒。味方を示す駒だった。
カイはその駒を手に取った。木を削っただけの、塗装もない小さな駒。マイロが夜通し削ったのだろう。13個の丸い駒の一つ。
顔を上げた。
リオンがまだそこに立っていた。
紺色の目と、灰色の目が合った。
言葉は交わさなかった。頷くだけで十分だった。
カイは駒を卓の上に戻し、リオンと共に部屋を出た。
作戦室に、旗のない石壁だけが残った。




