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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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戦術の卓

作戦室は旧世界の事務所だった。

 壁に残ったボルト穴の痕跡が、かつてそこに棚や掲示板があったことを示している。今はその壁面いっぱいに灰域の手描き地図が貼られていた。等高線の代わりに「坂あり」「崩落地帯」「通行不可」といった走り書きが散らばり、集落の位置は丸で囲まれて名前が添えられている。正確な縮尺はない。灰域には測量を行う人間がいないのだ。だが地図を描いた人間の足が踏んだ道だけは太い線で確かに引かれていた。


 長方形の作業台が部屋の中央に置かれている。旧世界の会議机だろう。天板の合板が剥がれかけ、鉄製の脚が錆びている。その上に灰域地図の縮小版が広げられ、木の駒が幾つか載っていた。マイロが部隊の位置を示すために削り出したものだ。丸い駒が味方で角張った駒が敵。それ以上の区別はない。


 8人がその卓を囲んでいた。


 バートンが上座についている。スーツに似た上着の襟を正し、顔には読めない笑みを浮かべていた。その隣にコンラッドが腕を組んで立っている。アイアンウェルから運ばれた鉄鉱石の粉がコンラッドの袖口にまだ付着していた。ボルトは壁に背中を預けて腕を組み、巨体で壁の一角を占拠している。マイロはボルトの右に控えて手帳を開いていた。リントは椅子の背もたれに片腕を掛け、退屈そうに天井を見上げている。トワは入口に近い場所で壁に肩を預け、無言で卓上の地図を見つめていた。


 カイは卓の角に立っていた。


 リオンはその隣に並んでいる。灰域の厚手コートの下に暗色の戦闘服を着込み、背筋を伸ばしていた。軍服を脱いでも変わらない姿勢だ。だが手元には自ら書き綴った何枚かの紙が握られている。セルヴィスの軍事教練で叩き込まれた知識を灰域の人間に伝えるために整理した書き付けだった。


「始めよう」


 バートンが穏やかな声で言った。8人を見回し、視線をリオンに向ける。


「リオン。シンダーの護衛隊形について説明してくれ」


 リオンが一歩前に出た。


 卓上の地図に手を伸ばして角張った駒を3つ取り上げ、グランヴェルトの鋼城の予想進軍ルート上に並べる。前衛、中衛、後衛の3段構えの配置だ。


「シンダーは鋼城モノリスの護衛部隊です。構成は銘殻3機、汎殻8機から12機。加えてセンチネル・ドールの群れが鋼城の周囲を固めます。護衛隊形は3層で、最前列に汎殻4機が横一列、中列に銘殻2機と汎殻が左右に展開、最後列に隊長機が位置します」


 リオンの声は淡々とした報告の響きを帯びていた。セルヴィスの軍務会議で幾度も聞いてきた形式の、簡潔で正確な説明だ。だがリオンは途中で言葉を止め、部屋の中を見回した。ボルトの目が半ば閉じかけ、リントは天井を見ている。


「前列は壁です。近づく敵を潰す壁。中列が本当の殺し手で、前列が受け止めた隙に横から刺す。後列の隊長機は全体を見ていて、どこが崩れても駆けつけられる位置にいる」


 リオンが言い直す。軍事用語を削ぎ落として傭兵の言葉に換えると、ボルトの目が開いた。


「要するに三枚盾ってことか」


 ボルトが壁から背中を離した。


「正面からやり合えば、壁に弾かれてる間に横から食われる。そういう話だろう」


「その通りです」


 リオンが頷く。


「ボルト、あんたの経験と一致するか」


 マイロが手帳にペンを走らせながら聞いた。


「2年前にグランヴェルトの護衛隊とやり合った。あの時は五角形に展開してやがった。今の話と形は違うが、考え方は同じだ。正面を受け止めて、横から食う。教科書通りの連中だよ」


「正規軍の強さは教科書通りに動けることです」


 リオンが応じる。


「傭兵団のように個人の判断で動かない。全員が同じ手順で動くから、穴が少ない。一人が崩れても、隣の機体が手順通りに穴を塞ぐ」


「だが逆に言えば」


 マイロが顔を上げた。


「手順にない状況を作れば、対応が遅れるってことだ」


「はい。正規軍は想定外に弱い。ただし――」


 リオンの声が一段低くなった。


「コルヴァスは正規軍ではありません。特務遊撃隊は教科書を捨てた人間の集まりです。リーヴ・シェイドはその中でも、最も予測が難しい」


 部屋の空気が変わった。リーヴの名前が出た瞬間にトワが壁から肩を離し、リントが天井から視線を下ろす。


「リーヴは遊肢4基を全力で展開します」


 リオンが書き付けの紙を卓上に広げた。手描きの図が記されている。中央に鉄殻の簡略図があり、その周囲に4つの点が配置されていた。


「シーラ・フレイズとは違います。シーラは遊肢3基に感覚帯域のほぼ全てを注ぎ、本体は最低限の回避だけに絞る。だから本体に隙ができる。しかしリーヴの場合、遊肢と本体の連携が完全に統合されている。遊肢を4基動かしながら、本体の近接戦闘も手を抜かない。感覚帯域の配分が常人とは根本的に異なります」


「化け物だな」


 ボルトが低く呟いた。皮肉ではなく純粋な評価だ。


「対処法は」


 トワが初めて口を開く。短い言葉だった。


「遊肢の対処法は、母機を揺さぶることです」


 リオンがトワに目を向けた。


「遊肢は操手の感覚の延長です。母機に大きな衝撃を与えれば、操手の集中が揺らぎ、遊肢の精度が落ちる。トワさん、以前カイに教えた戦法と同じ原理です」


 トワが僅かに目を細める。リオンがそれを知っていることへの反応だった。


「ただし、リーヴに対してそれが通用するかは分かりません。リーヴの集中力は、私が知る限り、衝撃で簡単に途切れるものではない」


「だったら一人じゃ無理だ」


 マイロが地図の上に指を走らせた。


「数で揺さぶる。カイとリオンが突破役として正面からリーヴを拘束し、その間にボルトとリントが側面から陽動をかける。トワが遊撃に回り、隊形が崩れた箇所を突く」


「二人で正面か」


 リントが椅子の上で姿勢を変えた。退屈そうな顔が消え去り、傭兵の目になっている。


「テオの息子とセルヴィスの脱走兵が、灰域のために並んで戦うってのは、なかなか見ものだな」


「皮肉はいい。腕で黙らせろ」


 トワが言った。リントは肩をすくめたが、口元には悪意のない笑みが浮かんでいる。


「待ち伏せの場所はここだ」


 マイロが地図の一点を指した。シンダーの予想進軍ルート上、旧世界の高架橋の廃墟が残る渓谷だ。


「高低差がある。上から奇襲すれば、護衛隊形を維持する余裕を奪える。3層が崩れた瞬間が、唯一の好機だ」


 バートンが腕を組んで頷き、コンラッドが口を開く。


「鉄材と弾薬はアイアンウェルから出す。だが量に限りがある。一度の戦闘で全てを使い切る覚悟でやるなら、勝ち筋は見える。だが二度目はない」


「一度で決める」


 ボルトが言った。


 バートンが全員を見回した。


「異論はあるか」


 沈黙が答えだった。


「では、各自準備に入ってくれ。詳細はマイロが詰める。リオン、引き続き頼む」


「了解しました」


 リオンが答えた。それは脱走しても消えない、体に染み付いた軍人の返答だった。


 椅子が引かれ、靴音が床を叩く。ボルトが扉に向かってリントがその後に続く。コンラッドがバートンに何か耳打ちして二人で部屋を出た。トワは無言で消え、マイロは手帳を閉じて地図の上の駒を一つ一つ集めている。


「ボルト」


 カイが声をかけた。扉の前でボルトが振り向く。


「あんたは、リオンを信用してるのか」


 ボルトは一瞬だけカイを見つめ、それから視線をリオンに向けた。リオンは卓上の書き付けを片付けている。その手つきは几帳面で、紙の端を揃えてから折り畳んでいた。


「信用してるかどうかは知らん。だが使える知識を持ってる奴を使わないのは馬鹿だ」


 ボルトはそれだけ言って部屋を出た。


 * * *


 作戦室にカイとリオンだけが残った。


 マイロの集めた駒が卓の端にまとめられ、地図の上には何もない。部屋の窓から冬の灰色の光が差し込んでいる。壁の灰域地図がその光を吸い込んで薄く見えた。


 カイは卓の縁に手を置いた。


「リオン」


「何」


「鋳脈なしで、あいつに勝てるのか」


 リオンの手が止まる。書き付けを折り畳む途中で右手の指が紙の上で静止した。


 肺の底で冷気が重く固まり、息を吐き出すことすら忘れていた。


 リオンがカイの方を向く。紺色の目がカイの灰色の目を見据えた。


「分からない」


 リオンの声は静かだった。


「でも、試すしかない」


 その声に震えも嘘もなかった。分からないと正直に言い、それでも退かないという意志だけが簡潔な言葉の中に込められていた。


 カイは頷いた。


 窓の外で北風が吹いている。灰域の冬はまだ終わらない。

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