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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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鳴らない耳

ネイサン・グレイはガルドの作業場の前でカイを待っていた。


 石壁に背をもたれ、右足に体重を預けて立っている。フード付きのコートの襟元から首筋の手術痕が覗いていた。銀色の細い線。後頭部から頸椎に向かって走るリレー素子の埋設痕。カイの父にも同じものがあったはずだ。カイが覚えているかどうかは別として。


「カイ・セヴァルか」


 ネイサンの声は掠れ、風に削られたようだった。左目だけがカイを捉えている。右目は半開きのままで瞳孔の動きが鈍い。


「ガルドから聞いてるだろう」


「何も聞いていない」


 嘘だった。ガルドが何かを仕組んだことは分かっていた。昨日作業場から戻ったガルドが「明日の朝、作業場の前に来い」とだけ言って理由は言わなかった。ガルドはいつもそうだ。説明より先に行動がある。


「そうか。なら俺から話す」


 ネイサンは壁から背を離した。その動作は緩慢で、36歳の男の動きではなかった。立ち上がる時に右膝が一瞬引っかかり、それを筋力で押し通す。関節の滑らかさが失われている。


「飯、食ったか」


「食った」


「何を食った」


 カイは一瞬答えに詰まった。干し肉と固いパンだった。ストーンクロスの朝食はいつもそれだ。


「干し肉とパン」


「味はどうだった」


 奇妙な質問だった。


「塩が強かった。肉は硬くて、パンの方がまだ噛みやすかった」


 ネイサンは頷いたが、笑わなかった。


「俺も同じものを食った。今朝。干し肉をちぎって口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。それだけだ」


 ネイサンはコートのポケットから干し肉の欠片を取り出した。小指の先ほどの赤黒い肉片。それをカイの前に掲げた。


「これを口に入れても、何も感じない。硬いか柔らかいかは分かる。歯応えは分かる。だが味がない。塩気も、肉の旨みも、何もない。水を飲んでも同じだ。冷たいか温かいかは分かる。味はない」


 ネイサンは肉片を口に放り込んで咀嚼したが、表情は変わらなかった。昨夜ガルドの前で酒を飲んだ時と同じなのだろう。味のないものを噛み砕いて飲み込み、栄養を体に入れる。それだけの動作だ。


「5年になる。最後に味が分かったのは、研究所の食堂で食ったパンの塩気だった」


 同じ言葉を昨夜ガルドにも言ったのだろう。だがカイに向けられた時、その言葉は別の重さを持った。ガルドは技匠であり、鋳脈を設計した側の人間だ。ネイサンの言葉はガルドにとって罪の確認だったが、カイにとっては未来の提示だった。


 * * *


 二人は作業場の裏手に回った。石壁の陰に木箱が二つあり、ネイサンが一つに腰を下ろしてカイももう一つに座った。冬の空気が頬を刺した。灰色の雲が低く垂れ込め、陽の光は届かない。


 ネイサンが右手を持ち上げ、手の甲をカイに見せた。骨張った手だった。指が長く、かつては操縦桿を正確に操ったであろう形をしている。だがその手は微かに、しかし止まることなく震えていた。コップの水面に波紋を作る程度の、小さく持続的な震えだ。


「触ってみろ」


 カイはネイサンの右手に触れた。指先が冷たかったのは冬の空気のせいだけではなく、血行が悪いのだ。手の甲の皮膚は薄く静脈が浮き出ている。


「俺の右手は、温度が分からん」


 ネイサンの声は淡々としていた。


「お前の指が触れている。それは分かる。圧力は感じる。だが温度がない。お前の指が冷たいのか温かいのか、何も伝わってこない」


 カイは手を離した。


 ネイサンは右手を自分の顔へ持っていき、右頬に触れた。頬骨の上を指先がなぞる。


「ここもだ。顔の右半分。触っている感覚が薄い。圧力の半分ぐらいしか来ない。左で触れば分かるが、右では駄目だ」


 右手で右頬に触れている。触れている側も触れられている側も感覚が欠損しているという、二重の喪失だった。


 ネイサンは右手を下ろした。震えは止まっていなかった。


「右目は上部3分の1が見えない。首を回さないと右上が死角になる。寝る時は右側を壁にする。でないと落ち着かない」


 言いながらネイサンの首が右に動き、右側の空間を確認した。無意識の動作だった。作業場の裏手に脅威はなく、石壁と木箱と冬の空気しかない。それでも体が勝手に確認するのだ。


「耳は」


 カイが聞いた。声が乾いていたが、そう聞かずにはいられなかった。


「右耳は3年前に完全に逝った。左は、まだ聞こえる。だが高音域から削れてきてる。鳥の声がもう聞こえん。金属の擦過音も怪しい」


 カイの背筋が冷え、父のカルテに記されていた数値が蘇った。右耳聴覚閾値、完全喪失。テオ・セヴァルの体が辿った道をネイサン・グレイも辿っている。同じ素子を埋め込まれ、同じ神経を削られ、同じ順序で感覚を失っていくのだ。


「鋳脈は借金だ」


 ネイサンが言った。


 視線はカイに向いておらず、左目だけで灰色の空を見ていた。


「体で払う借金だ。利息がどれだけかは、誰も教えてくれない。俺は21で鋳脈を受けた。15年で味覚と右手の触覚と右目の視野と右耳を持っていかれた。利息がいくらだったか。計算してみろ」


 カイは計算しなかった。計算しなくても分かっている。クレアのカルテが数字で全てを示していた。


「お前は冴覚がある」


 ネイサンの声が低くなった。


「鋳脈を入れれば最強になれるだろう。冴覚と鋳脈の両方を持つ操手なんて、俺は2人しか知らない。テオ・セヴァルと、もう1人。どっちも強かった。化け物みたいに強かった」


 ネイサンは間を置いた。


「どっちも壊れた」


 静かな声だった。怒りも悲しみもなく、ただ事実を述べている。壊れた人間が壊れた事実を語るだけの声だった。


「だが5年後のお前は、俺みたいに飯の味も分からなくなる。冴覚持ちは劣化が速い。3倍から5倍だと、クレア先生が言ったろう。俺は冴覚なしで15年かかった。お前なら5年で同じところまで来る。22歳で味覚を失い、25歳で片耳が聞こえなくなり、30になる前に――」


 ネイサンは言葉を切った。


「30になる前のことは、分からん。そこまで保った冴覚持ちの鋳脈者がいないからな」


 クレアと同じことを言った。同じ結論に別の道から辿り着いている。クレアは数字で示し、ネイサンは体で示している。


 カイは何も言えなかった。


 反論の言葉は出てこなかった。鋳脈が欲しいと言った時の覚悟が、ネイサンの震える右手の前で揺らいでいる。覚悟で感覚喪失は止められないし、気合いで神経劣化は防げない。


 ネイサンの右手が膝の上で震えている。微かで持続的な、コップを持てば水面が揺れる程度の震え。だがその震えをカイは知っていた。


 ガルドの手だ。


 ガルドが精密作業をする前に指先を組んで押さえる仕草。あれは癖ではなく、震えを止めていたのだ。ガルドもまた技匠として素子の挙動を自分の神経で確認するため、鋳脈の施術を自分の体で試している。その代償が指先の震えとして残っている。


 同じ震え方だった。


 ネイサンの右手とガルドの右手。鋳脈に触れた者の体は共通の壊れ方をする。


「俺はお前に、やめろとは言わん」


 ネイサンが立ち上がると木箱が軋んだ。


「選ぶのはお前だ。ただ、知らずに選ぶな。俺の口は味を忘れた。俺の目は空の半分が見えない。俺の耳は片方が死んだ。俺の手は、こうやって震えて止まらない。これが利息だ。15年分の利息だ。お前が払う利息は、もっと重い」


 ネイサンはフードを被り直して手術痕を布の下に隠し、首を右に回して右側の空間を確認した。


「飯の味が分からない生活を想像してみろ。5年間、何を食っても同じだ。腹が膨れるか膨れないか。それだけだ。楽しみが一つ消える。次にもう一つ消える。消えたものは戻ってこない」


 ネイサンは歩き出した。右足の歩幅が左より僅かに狭い、体力のない人間の歩き方だった。遠ざかっていく背中。フードの下の手術痕が冬の灰色の光に一瞬だけ光った。


 カイは木箱の上に座ったまま動けなかった。


 * * *


 どれだけそこにいたか分からない。


 冬の空気が指先を痺れさせていた。痺れを感じる。冷たさを感じる。それが当たり前のことだと今までは思っていた。指先が冷たく、耳が痛く、頬が強張る。全てが当たり前のことだった。


 ネイサンの右手はこの冷たさを感じない。


 カイは立ち上がった。冷えた石の上に長く座りすぎたため足が少し痺れており、それが足の裏から脛に広がっている。この痺れも鋳脈を入れればいずれ日常になる。痺れではなく恒常的な感覚の欠損として。


 作業場の裏手から表に回った。鉄扉が閉まっている。ガルドは中にいるはずだが、扉は叩かなかった。


 今はガルドの顔を見たくなかった。彼の右手の震えを、今の自分は正視できない。


 作業場の横の通路を抜け、ケストレルが収められている仮設の格納区画に向かった。天井の低い石造りの建物の中に、鉄紺色の銘殻が佇んでいる。作業灯は点いておらず、天窓から差し込む冬の薄い光がケストレルの胸部装甲を薄く照らしていた。


 カイは操縦席への昇降梯子に手をかけた。金属の冷たさが掌を刺す。その冷たさを感じた。感じられることの意味を今は知っている。


 梯子を上り操縦席に体を滑り込ませた。


 狭かった。背中が座席の背板に密着し、膝が計器盤に近い。銘殻の操縦席は操手の体に合わせて設計されるが、ケストレルはテオの体格に合わせてあるのだ。カイの体はテオより僅かに小さいが、あと数年で追いつくだろう。追いつけるだけの時間があれば。


 左右の操縦桿を握った。金属の表面が掌に食い込むように冷たかった。鋳脈なしではこの操縦桿を通じて機体の状態を感じることはできない。センサーの情報は計器盤の数字として表示され、それを目で読み、頭で処理して手で応答する。0.3秒の遅延。冴覚があってもその遅延は埋まらない。冴覚は外部の情報を感じ取る力であって、機体と神経を直結する力ではないからだ。


 鋳脈があればこの操縦桿が指先の延長になる。機体の関節が自分の関節になり、装甲の表面が自分の肌になる。センサーが捉えた振動がそのまま体性感覚として伝わり、0.3秒の遅延がゼロになる。


 だが5年後、この指先は冷たさを感じなくなる。操縦桿の金属の温度が分からなくなる。10年後には耳の片方が聞こえなくなり、敵機の接近を音で察知できなくなる。


 カイは操縦桿を握り直した。


 力を込めた。冷たい金属が掌に押し返してくる抵抗を感じる。5本の指が操縦桿を包み込んでいる感触を一本ずつ確かめた。親指、人差し指、中指、薬指、小指。全ての指が金属の冷たさと硬さを正確に伝えている。


 鋳脈なしで。

 この手で。

 この体で。


 それしかない。


 操縦席の中でカイは目を閉じた。暗闇の中にネイサンの震える右手が浮かび、ガルドの指先を組む仕草が浮かび、父が常に左側に立っていた記憶が浮かぶ。


 鋳脈を受けた者の体は共通の壊れ方をする。


 目を開けた。計器盤の数字が薄い光の中でぼんやりと見えている。この数字を目で読み、頭で処理し、手で応答する。0.3秒の遅延を技術と判断で埋める。それが鋳脈なしで戦うということだ。


 操縦桿の冷たさが掌から腕へ、腕から肩へと伝わっていた。その冷たさをカイは手放さなかった。

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