亡霊の通信
作業場の扉が叩かれたのはガルドがケストレルの右膝フレームの研磨を終えた直後だった。
3回。間を置いてもう1回。覚えのある叩き方だった。
ガルドは研磨布を作業台に置いて扉に向かった。鉄扉の覗き窓から外を見る前に誰が来たか分かっていた。あの叩き方をする人間は一人しかいない。グランヴェルトの工廠でネイサン・グレイが整備室の扉を叩く時のリズムだった。15年前と同じだ。
鉄扉を開けた。
冬の灰色の光が差し込んでガルドは目を細めた。その光の中に男が立っている。
痩せていた。15年前よりも、2年前に灰域で再会した時よりも。フード付きのコートが大きすぎてまるで骨に布を被せたようだった。肩にかかる黒髪は手入れされておらず、半開きの右目は瞳孔の反応が鈍い。頬はこけて唇は乾いていた。36歳の男の体ではなかった。
だが左目だけは生きていた。暗い灰色の瞳にはまだ光があった。
「久しぶりだな」
ネイサンの声は掠れていた。風に削られたような声だったが、口元に浮かぶのはあの自嘲気味な笑みだった。
「入れ」
ガルドは扉を開いて脇に退く。ネイサンが作業場に足を踏み入れた。右足を引きずってはいなかったが歩幅は狭く、体力のない人間の歩き方だった。そして作業場に入った瞬間、ネイサンの頭が右に動く。首を回して右側の空間を確認する。見覚えのある動きだ。2年前にも見た。
ネイサンの目がケストレルを捉えた。
鉄紺色の装甲が作業灯の黄色い光を静かに返している。全高9メートルの銘殻が仮設の天井に頭部を近づけるようにして佇んでいた。ネイサンは足を止め、しばらくケストレルを見上げていた。
「アルマナック・フレームか。噂には聞いてた」
「ああ。46番機だ」
「相変わらず、いい仕事するな」
ネイサンの声に皮肉はなかった。技匠の仕事を正当に評価する元操手の目だった。かつてグランヴェルトでガルドが整備した銘殻に乗っていた男の目だ。
ガルドは作業台の隅から瓶を取り出した。ラベルのない濁った液体が入った瓶。灰域の集落で密造される穀物酒だ。原料は灰色の土で育てた麦と旧世界の酵母の末裔。味は荒く喉が焼けるが、それしかない。
金属のコップを二つ出して酒を注ぎ、ネイサンの前にひとつ置く。
ネイサンはコップを右手で取った。手が震えている。コップの中で濁った液体が小さな波を立てていた。15年前この手が操縦桿を握っていた。グランヴェルトのエース部隊で銘殻を自分の体のように操っていた手だ。
ネイサンは酒を口に含んで飲み下したが、表情は変わらなかった。
「味は」
ガルドが聞いた。聞くべきではなかったかもしれないが、それでも聞いた。
「分からん」
ネイサンは短く答えた。自嘲でも嘆きでもなく、ただの事実としてコップの中の酒を見つめていた。
「熱いか冷たいかは分かる。喉が焼ける感覚もある。でも味は何もない。もう5年になるか。最後に味が分かったのは、研究所の食堂で食ったパンの塩気だった。それが最後だ」
ガルドは自分のコップを傾けた。穀物酒が喉を焼く。荒い。ガルドにはその荒さが分かるが、ネイサンには分からない。その差がガルドの胸を抉った。
「灰域連合に合流すると聞いた」
「ああ。バートンに話を通してある。鉄殻には乗れんが、整備の知識はある。グランヴェルトの銘殻の構造は頭に入ってる。コルヴァスが来るなら、あいつらの機体の弱点を知ってる人間がいた方がいい」
ネイサンの声は淡々としていた。自分にできることを数え上げる口調だった。かつて鉄殻に乗って戦場を駆けた男が今は整備の知識で戦おうとしている。その落差をネイサン自身は受け入れているようだった。
ガルドは黙って酒を注ぎ足した。ネイサンのコップにもだ。ネイサンは右手で受け取り、また首を右に回す。右側の死角を確認する無意識の動作だった。作業場の中に脅威はないのに、体が勝手に確認する。視野を失った人間の消えない習慣だった。
「ガルド」
「何だ」
「あんたが鋳脈を設計したことを、俺は恨んでいない」
ガルドの手が止まった。コップを持ち上げかけた右手が宙で硬直する。
ネイサンはガルドの方を見ていなかった。作業灯に照らされた鉄紺色の胸部装甲を左目で見つめている。
「恨むなら、戦争を恨む。あの時代に生まれて、あの場所にいて、鋳脈を勧められて、断れなかった。断れる空気じゃなかった。英雄になりたかったし、機体を完全に操りたかった。自分で選んだと言えば選んだ。選ばされたと言えば選ばされた。どっちでもある。どっちでもない」
ネイサンは酒を飲んだ。味の分からない酒を。
「あんたのリレー素子は、よくできてた。感覚の精度が段違いだった。機体が自分の指先になるような感覚だった。あれを設計した人間を恨むのは筋が違う。包丁を作った鍛冶を恨んで何になる」
ガルドは答えられなかった。
コップを握る手に力が入りすぎている。
「恨まれた方が楽だった」
声が掠れた。自分の声が自分のものではないように聞こえる。
「知ってる」
ネイサンが言った。
「だから恨まない」
沈黙が落ちた。
穀物酒の匂いが作業場に漂っている。鉄と油の匂いの中に発酵した穀物の荒い匂いが混ざっていた。ネイサンにはその匂いも薄いのかもしれない。味覚を失った人間は嗅覚も徐々に鈍くなることがあるとクレアが言っていた。
ガルドは瓶を傾けて自分のコップに酒を注いだ。三杯目だったが酔わなかった。今夜は酔えない気がした。
「ネイサン」
「ん」
「食事はどうしてる」
「食ってるよ。干し肉と固いパン。栄養は摂れる。味が分からないから量の加減が難しいが、腹が膨れたら止めてる」
当たり前のことのように言った。食事が栄養摂取でしかない生活をネイサンは5年間続けている。温かいスープの味も焼いた肉の香ばしさもパンの甘みも、全てが消えた世界でそれでも生きている。
「右の方は」
「変わらん。上が見えない。右に何かあると、首を回さないと分からない。寝る時は右側を壁にする。癖になった」
ネイサンはそう言ってまた首を右に回した。今度は自覚があったのか苦笑する。左目だけで笑う歪んだ笑みだった。
「体が勝手にやるんだ。もう止められん」
ガルドはネイサンの首筋を見た。フードの隙間から薄い銀色の線が見える。後頭部から頸椎に向かって走る手術痕だ。ガルドが設計したリレー素子が埋まっている場所だった。神経との接合が劣化して信号を伝えなくなっており、素子はもう機能していない。だが取り出す手術の方が危険なため、素子自体は体内に残っている。使えなくなった部品がネイサンの体の中で眠っている。
ガルドが設計した部品が。
* * *
瓶が半分になった頃にネイサンが言った。
「カイって子、鋳脈を欲しがってるんだってな」
ガルドの目が伏せられた。コップの中の酒が揺れる。手が震えたのではない。体全体が一瞬だけ強張ったのだ。
「ああ」
「断ったのか」
「断った」
「そうか」
ネイサンは頷き、コップの酒を飲み干した。味の分からない酒を最後の一滴まで。
「理由は聞かない。分かってる」
「ネイサン」
「あんたが断ったのは正しい。だが言葉じゃ伝わらん。あの年頃は、言葉で止まらない。自分が壊れるなんて想像できない。俺もそうだった。21で鋳脈を受けた時、こうなるとは思ってなかった。誰も教えてくれなかったし、教えられても聞かなかっただろう」
ネイサンは空のコップを作業台に置いた。金属が金属に触れる乾いた音がした。
「俺の体を見せてやれ」
ガルドが顔を上げた。
ネイサンは左目でガルドを見ていた。右目は半開きのまま、視野の欠けた目が虚空を向いている。その顔に自嘲はなかった。自分の壊れた体を17歳の少年の前に晒す覚悟があった。
「言葉より効く」
ネイサンの声は静かだった。
ガルドは何も言えなかった。コップを握ったままネイサンの左目を見つめた。そこにまだ残っている光を。かつてグランヴェルトのエースと呼ばれた男の最後の光を。
穀物酒の荒い匂いが作業場の冷えた空気の中に漂っていた。ケストレルの鉄紺色の装甲が二人の影を静かに見下ろしていた。




