借金の利息
診療所の扉は木の枠に鉄板を貼り付けただけのものだった。
蝶番が錆びており、押すと甲高い音がする。カイが中に入ると消毒液の匂いが鼻を突いた。灰域では貴重な匂いだ。アルコールの蒸留には穀物が要る。その穀物を消毒液に回せるということは、クレアが集落に対してそれだけの発言力を持っているということだ。
診療所は旧世界の事務所を改装した建物だった。壁はコンクリートの打ちっぱなしで、ところどころに配管の跡が走っている。棚が三つ。そのうち二つには薬瓶と包帯と縫合用の器具が整然と並び、残りの一つには本が詰まっていた。旧世界の医学書だ。背表紙が焼けて文字が読めなくなったものや水に濡れて波打っているものもあるが、一冊として汚れてはいなかった。読んだ後に丁寧に拭かれ、元の位置に戻されている。
奥の診察台の横にクレアが立っていた。
クレア・アシュバーン。41歳。短く切った黒髪に白髪が混じり始めている。痩せた顔に深い皺。目の下の隈が濃く、灰域で13年間一人で医療を担ってきた年月がその顔に全て刻まれていた。白衣は着ていない。灰域に白衣などない。厚手の作業着の上から使い古した革のエプロンをかけている。ガルドのものとは違い、血の染みが所々に残っていた。
「座りなさい」
クレアは診察台を指さした。声に抑揚がなく、世間話をする気はないという意思表示だった。
カイは診察台に腰を下ろした。鉄板の上に薄い布が敷かれているだけで、座ると冷たさが尻から背中へ抜けていく。
「ガルドから聞いた」
クレアは棚に手を伸ばし、一冊のファイルを抜き出す。茶色の厚紙を二つ折りにして紐で綴じたものだ。表紙には何も書かれていないが、クレアの手がそのファイルに触れた時、指先が一瞬だけ止まった。
「鋳脈が欲しいと言ったそうね」
「言った」
カイは短く答えた。視線を逸らさない。ガルドに言った時と同じで、声も震えていない。
クレアはファイルを診察台の横に置き、紐を解いて中身を広げた。
紙の束だった。手書きの文字がびっしりと並んでいる。数値の羅列や日付、測定結果。折れ線のグラフが描かれたページもあった。縦軸が数字で横軸が年。線は右に向かって下がっている。
「これは、あなたのお父さんのカルテよ」
カイの目が紙面に吸い寄せられた。
テオ・セヴァル。その名前がカルテの最初のページに書かれていた。几帳面な文字だ。クレアの字ではない。もっと角張った技術者の字だ。ガルドの字だとすぐに分かった。ケストレルの整備記録と同じ筆跡だった。
「ガルドが記録を取り、私が分析した。テオの鋳脈に関する医学的記録は、これが全てよ」
クレアがページを繰った。数値が並んでいる。カイには半分も読めないが、読めるものもあった。
右耳聴覚閾値。
焦土紀3年、正常値。
焦土紀5年、軽度低下。
焦土紀7年、重度低下。
消息不明時――完全喪失。
右手触覚。
焦土紀4年、正常値。
焦土紀6年、指先の感圧低下。
焦土紀7年、指先の温度感覚喪失。
消息不明時――右手全域の触覚完全喪失。
「鋳脈の代償は個人差が大きい」
クレアの声が変わった。さっきまでの抑揚のない声ではなく、低く硬くなっている。医師としての説明ではなく、何かもっと個人的なものが滲んでいた。
「通常の鋳脈者の場合、感覚喪失は施術後15年から20年で始まる。最初は味覚。次に末端の触覚。その次に聴覚。ゆっくりと、少しずつ。多くの場合、本人が気づかないほどの速度で進行する」
クレアは折れ線グラフのページを指で示した。
「でも冴覚持ちは違う」
グラフの線は途中から急激に角度を変えていた。緩やかな下降がある時点から崖のように落ち込んでいる。
「冴覚は神経を拡張する。リレー素子が接続する神経系と、冴覚が使用する神経系は重複している。冴覚持ちの鋳脈者は、その重複した神経に二重の負荷がかかる。劣化速度は通常の3倍から5倍」
3倍から5倍。
カイはその数字を頭の中で転がした。通常が15年から20年。3倍なら5年から7年で、5倍なら3年から4年だ。
「あなたのお父さんは、施術から10年で右耳と右手を完全に失った」
クレアの指がカルテの数値をなぞる。爪が短く切られた骨張った指だった。
「34歳。消息不明になった時の年齢よ。その時点で、右耳の聴覚と右手の触覚は完全に喪失していた。完全に、というのは文字通りの意味よ。右耳は何も聞こえない。右手は何も感じない。熱いものに触れても、刃物で切っても、何も」
カイは口を開こうとしたが開かなかった。
「テオはそれを隠していた」
クレアの声がさらに低くなる。首筋の皮膚が動いた。鎖骨の上、首の右側に刺青の跡がある。数字の羅列は軍医識別番号だ。その上を覆うように火傷の痕が広がっていた。焼いて消そうとしたのだろう。だが数字は完全には消えず、引き攣れた皮膚の下にうっすらと残っている。
「右耳が聞こえなくなってからも、会話の時は左耳を相手に向ける癖で対処していた。右手の触覚がなくなってからも、操縦桿を握る力加減は筋肉の記憶で補っていた。私がカルテの数値をガルドに突きつけるまで、ガルドですら気づいていなかった」
カイの背筋に冷たいものが走った。
父を思い出した。記憶は曖昧で、10歳の時にいなくなった男の断片的な像だ。だが一つだけ鮮明に覚えていることがある。父はいつもカイの左側に立っていた。話しかける時も歩く時も必ず左側。カイはそれを父の癖だと思っていた。
癖ではなかった。
右耳が聞こえなかったのだ。
「カイ」
クレアの声がカイの名前を呼んだ。カイは顔を上げる。クレアの目が自分を見ていた。冷静で理知的な目だが、その奥に怒りに似た何かが燃えている。鋳脈の話題になると声のトーンが変わる理由を、カイは今初めて理解した。
「あなたが鋳脈を受ければ、テオより速く壊れる。17歳の神経は可塑性が高い。リレー素子との結合が深くなる分、劣化も加速する。冴覚の負荷を加味すれば、5年以内に最初の感覚を失う。10年で複数の感覚が崩壊する。その先は――」
クレアは言葉を切った。
「その先のデータは、存在しない。冴覚持ちの鋳脈者でそこまで生きた人間がいないから」
診療所の中は静かだった。消毒液の匂いと鉄板の冷たさ、そして紙の上の数字。父の体がどれほど壊れていたか、数字が全てを語っていた。笑っていたとガルドは言った。痛くないと言っていたと。大丈夫だと。
大丈夫ではなかった。
カルテの数字がそれを証明していた。右耳の聴覚閾値がゼロになったページ。右手の感圧値がゼロになったページ。ガルドの角張った字で記された数値の横に、別の字で書き足された注釈がある。丸みはあるが震えのないクレアの字だ。
――「テオは痛みを訴えなかった。痛覚の喪失が先行している可能性」
痛みすら感じなくなっていたのだ。
カイはカルテを閉じる。
紐を結び直す指が僅かに震えていた。震えを止めようとしても止まらなかった。
沈黙が落ちた。
クレアがカルテを受け取って棚に戻した。元の位置へ正確に。戻す動作は手慣れており、何度も出しては戻してきたのだろう。ガルドに見せ、自分でも読み返し、そのたびに同じ位置に戻す。テオ・セヴァルの体が壊れていく記録を。
「選ぶのはあなたよ」
クレアは棚に背を向けたまま言った。
「でも、知らずに選ぶのと、知って選ぶのは違う」
カイは診察台から立ち上がった。
何も言えなかった。礼を言うべきなのか反論すべきなのか分からなかった。分かっていたのは、カルテの数字が頭から消えないということだけだ。右耳聴覚閾値、ゼロ。右手感圧値、ゼロ。折れ線グラフの崖。冴覚持ちの鋳脈者の劣化速度は通常の3倍から5倍。
診療所の鉄板の扉を押し開けた。蝶番が甲高い音を立てた。入った時と同じ音だが、同じ人間が出ていく気がしなかった。
外は灰色だった。冬のストーンクロスの空。石壁と石畳と灰色の雲。吐く息が白い。
カイは足を止めなかった。どこへ向かっているのか自分でも分からない。冷気が左半身を打つ。父がいつも塞いでいた側だった。




