焚き火の傍で
焚き火の光が揺れていた。
野営地の中央に組まれた焚き火は崩れた建材の木枠を燃料にしている。乾き切った木材に脂気はなく、炎は低く色も薄い。煙ばかりが立ち上って風に流され、テントの方へ這っていく。灰域の夜風は管区内より冷たく、風が焚き火の炎を横に引いて火の粉が地面を転がった。
野営地は静かだった。
ハルの機体を回収した整備班が作業を終えてテントに引き上げている。回収といっても使える部品を引き剥がしただけだ。コックピットは潰れていた。中にあったものは――考えるのをやめた。
ナディルが焚き火の傍に座っている。
膝を抱えて地面を見ている。配給の携行食は手つかずのまま足元に置かれ、封すら開いていない。リーヴが野営地に戻ってから2時間が経った。ナディルはその間一度も動かず、顔を上げもしなかった。ハルとナディルは訓練時代からの同期だ。互いの故郷や家族のことを知り、携行食を交換し合う仲だった。その片方が今日、鉄の箱の中で潰れて死んだ。
「食え」
シーラが言った。焚き火の反対側に立って腕を組んでいる。炎の揺らぎがシーラの顔を照らしては消すが、表情は読めない。
ナディルは答えなかった。
「聞こえなかったのか。食え、と言った」
「……食えません」
「食えないのは甘えだ。補給の機会は限られている。食える時に食わない人間から死ぬ」
シーラの声は平坦だった。いつも通り感情を削り落とした声だが、最後の一語がほんの僅かに掠れた。咳のせいか、乾燥のせいか。あるいはそのどちらでもないのか。
ナディルの肩が震えた。
「ハルは――」
「戦場で死ぬのは当然のことだ」
シーラが遮った。
「操手は死ぬ。それが仕事だ。ハルもそれを分かっていた。分かっていて乗った。泣くのは勝手だが、明朝の出撃には間に合わせろ」
シーラはそれだけ言って焚き火に背を向け、テントの方へ歩いていく。一定の歩幅で背筋は伸びている。足音だけが乾いた土を叩いて闇の中に消えた。
リーヴはそのやり取りを少し離れた場所から見ていた。ソルスティスの足元に背中を預け、腕を組んだままだ。シーラの言葉は正しい。操手は死ぬ。それが仕事だった。コルヴァスに入る前も入ってからも死んだ隊員はいる。そのたびにリーヴは淡々と報告書を書いて補充要請を出し、部隊編成を組み直してきた。
だが今夜は報告書を書く手が動かなかった。
ナディルの背中を見る。丸まった肩と震える指。あれは以前の自分だったかもしれない。あるいは一度もああなったことがないのかもしれない。リーヴには分からなかった。
* * *
ソルスティスのコックピットは暗かった。
計器類の電源を落としている。非戦闘時にコックピットで過ごす理由はないので整備員が不審に思うだろうが、リーヴは今ここ以外にいたくなかった。
操縦席に座ってハッチを閉じる。外界の音が遮断された。焚き火の爆ぜる音も風がテントを叩く音もナディルの沈黙も、全てが分厚い装甲の向こう側へと押しやられる。
暗闇の中で水筒の蓋を開け、右手で口元に運んで一口含んだ。
水だった。冷たいはずだった。液体が口腔を満たすが味がない。昔は金属の水筒の水にほんの僅かな鉄の味がしたが、今は舌が何も拾わない。
水筒を膝の上に置く。
左手が震えていた。
膝の上で意志とは無関係に指が細かく痙攣している。感覚はない。触覚が失われた指が自分の意志を離れて震え続けている。止めようとして右手で左手首を掴んだ。掴んだ力は伝わっているはずだが左手は止まらない。掴まれていることすら分かっていないかのように指先が揺れ続けた。
リーヴは左手を見つめた。暗闇の中で輪郭だけが見える。この手でソルスティスの副操縦桿を握る。遊肢4基の制御をこの手が担う。震える感覚のない手で。
14歳で鋳脈を受けて6年が経った。味覚が消えて左手の触覚が消え、今度は聴覚だ。代償の順番は教えられていた。だが教えられていたことと実際に失うことは別だった。失う痛みすらも鈍い。
耳の奥でノイズが鳴っていた。
ざらついた音。砂嵐の中にいるようだ。昨日よりはっきりしている。左耳だけではなくなり、右耳の奥にも薄い膜のように張りついている。世界の音が一枚のフィルターを通して聞こえ、鮮明さが削がれていた。
その中でハルの声が聞こえた。
幻聴ではないと思う。記憶だ。昨夜の格納庫で聞いた声が聴覚の奥にこびりついている。
「隊長。昔の話、聞いてもいいですか」
掠れた人懐こい声。ノイズが全ての音を侵食し始めているのにハルの笑い声だけが鮮明だった。高くもなく低くもない少し掠れたあの声。安い蒸留酒を飲みながら「いいなあ、隊長の話」と笑った声。
「戦争終わったら、隊長の灰域を案内してくださいよ」
リーヴは目を閉じた。
ハルの遺品は機体の残骸から回収された。大したものはなかった。データパッドと身分証、それから――小さな結び目の紐。漁網に使う太い糸を何重にも結んで作った拳ほどの大きさのお守りだ。ハルの故郷の漁村の風習だと以前本人が言っていた。海に出る者が帰ってこられるように家族が結ぶ。結び目の数が多いほど帰りたい理由が多いということだ、と。
ハルの結び目は12あった。
リーヴはその紐を制服の内ポケットに入れていた。今も胸の内側で布越しにその硬さを感じている。右手で感じている。左手ではもう分からなかっただろう。
ハルの笑い声がまだ聞こえていた。ノイズの中で。砂嵐の中で。消えない。消えてくれない。
リーヴの中で何かが軋んでいた。
ハルは23歳だ。漁村の出で、家計を助けるために軍に入って手当のために鋳脈を受けた。崇高な理想も復讐心もない。ただ生きるために。ただ帰るために。結び目を12個持って灰域に来て死んだ。
最後の通信を思い出す。「隊長、ごめ――」。途切れた声。ハルは何を謝ろうとしたのか。死ぬことをか。約束を守れなかったことをか。それともただの反射だったのか。灰域の傭兵2機に挟撃されて遊肢を2基同時に失い、幻肢痛で操縦が止まった一瞬。その一瞬で全てが終わった。
コックピットの側壁に通信装置があった。灰色の金属筐体で、電源を入れればセルヴィス本部への暗号通信が可能だ。
リーヴは右手を伸ばす。
通信機の表面に指が触れた。金属の冷たさ。
掌に食い込むざらつきだけを残して、胸の奥の熱がふつりと消えた。
通信機の電源を入れる。
「灰域の冴覚持ちを、全員見つけ出す」
声は低く平坦だった。シーラの声に似ていた。
「ハルの代わりを探す」
通信機を握る右手に力が入った。結び目の紐が胸の内側で押し潰されるのを感じる。
左手はまだ震えていた。




