鉄の沈黙
呼吸が荒かった。
カイはそのことに戦闘が終わってから気づいた。コックピットの中で自分の息が反響し、計器パネルの表示が呼吸のたびに揺れて見える。吸って、吐いて、また吸う。肺が狭くなったように空気が足りない。ケストレルの生命維持装置は正常に動いており、酸素濃度も温度も問題はない。体に異常はないのに、息が止まらなかった。
操縦桿から手を離した。
指が震えている。最初のポーンの群れと戦った時も橋梁での防衛戦でも、握っている間は気が紛れていた。今は握るものがなく、指先に震えだけが残っている。
機械を壊しただけだ。
カイは自分にそう言い聞かせた。人は殺していない。ポーンには血が流れておらず、悲鳴も断末魔もなかった。壊れた部品と散った油と動かなくなった灰色の金属。それだけなのに手が震えている。胸の奥に重いものが沈んでいる。
冴覚が効かなかった。
その恐怖の残滓が戦闘の終わった今になって溢れてきた。ゼルマと戦った時は怖かったが相手の殺意が読め、対処できた。ポーンの群れには何もなかった。灰色の静寂が灰色のまま広がり、カイの知覚はどこにも触れられなかった。その空白が今も背中に張りついている。
正面カメラの映像を切り替えた。橋梁の周囲にはポーンの残骸が散乱していた。逆関節の脚が折れ曲がり、千切れたケーブルが地面を這い、センサードームの破片が砂利に埋もれている。動力炉から漏れた油が凍りかけた地面に黒い染みを広げていた。染みの輪郭がゆっくりと広がっていくのが見える。油が凍結する前に地面の亀裂へ入り込んで伸びていく。人間の血ならもっと早く凝固するのだろうか。冷え切った思考にこびりつく連想を振り払えない。カイはモニター越しの黒い染みをただ見下ろし続けていた。
* * *
コックピットのハッチを開けて外に出た。
凍った空気が肺を刺す。灰域の夜は冷える。日没から2時間も経てば金属に触れた指が張りつくほどの冷気が荒野を覆う。カイは作業着の襟を立ててケストレルの足元に降りた。鳥足型の脚部が地面に深い足跡を刻んでおり、その足跡の横に腰を下ろす。
珍しく雲が切れていた。
灰域の空は大抵が灰塵の層に覆われている。太陽は薄い光を落とすだけで星はほとんど見えない。だが今夜は違った。雲の裂け目から月光が差し込み、荒野を青白く照らしている。ポーンの残骸に月の光が当たり、金属片が鈍く反射した。壊れた機械の破片が宝石のように光る。皮肉なものだ。
トワが歩いてきた。
シルフから降りたトワはブーツの底で凍った地面を踏みしめながら音もなく近づいてきた。カイの隣に立ち、同じ方向を見た。月光に照らされた残骸の野。風が吹いて金属片が微かに鳴った。
しばらくはどちらも何も言わなかった。
「怖かったか」
トワが訊いた。事実の確認だった。責めてもいないし慰めてもいない。
カイは答えなかった。答えの代わりに自分の手を見た。月光の下でも指が震えているのが分かった。
「機械を壊しただけだ。人は殺してない。なのに、手が止まらない」
カイは自分の声が掠れていることに気づいた。
「それでいい」
トワが言った。視線は荒野に向けたままだ。
「慣れるな。慣れたら終わりだ」
風が吹いた。ポーンの残骸の間を通り抜け、折れた橋脚の錆びた鉄骨を鳴らす。
「機械を壊すのに慣れた人間は、そのうち人間を壊すのにも慣れる。怖いと思っているうちは、まだ人間だ」
カイはトワの横顔を見た。月光が顔の半分を照らし、もう半分は影に沈んでいる。その影の深さにカイの知らない年数が沈んでいる気がした。
「トワは、慣れたのか」
問いが口をついて出た。訊くべきではなかったかもしれないが、訊かずにはいられなかった。
トワは答えなかった。数秒の沈黙があった。風が砂を巻き上げ、ポーンの残骸の上に薄く積もった。
「慣れないように、してる」
それだけ言ってトワは踵を返した。シルフに戻っていく背中が月光の中で小さくなる。カイはその背中を見送った。
* * *
夜が深まった。
リントはキャリバーのコックピットで仮眠を取っている。力の入らない右腕を庇うように左腕だけでハッチを閉め、通信だけを開いたまま眠りに落ちた。仮眠に入る前にリントは「右腕の駆動系、朝までに応急できるか」とだけ訊いたが、答えは出なかった。ここには技匠がいない。ガルドがいればとカイは思った。ガルドならキャリバーの肩関節を分解し、砕けたアクチュエータの代わりにポーンの残骸から使える部品を抜き出してくるだろう。だがガルドはここにいない。
ボルトは後方のハウラーから周辺の監視を続けている。動けない右脚の代わりにセンサーの範囲を広げ、マイロのリレイと連携していた。
カイは眠れなかった。
ケストレルの足元に背中を預けて荒野を見ていた。月光が残骸の野を照らし続けている。ポーンの胴体に空いた穿孔から凝固しかけた油が鈍く光っていた。動力炉の残熱はとうに消え、金属が夜の冷気に晒されて収縮する微かな軋みだけが聞こえる。
人が作った機械だ。
誰かが図面を引いた。誰かがボルトを締め、誰かが完成品を検査して「合格」の判を押した。そうして生み出された機械がプログラムに従って荒野を歩き、人を殺すために前進した。
それを壊した自分もまた機械に乗っている。
ケストレルも誰かが設計して組み上げ、誰かが整備した機械だ。旧世界のアルマナック合金で鋳造されたフレーム。父が乗り、父が消えた後もガルドが整備し続けた機体。カイはその機械の中に座って別の機械を壊した。
機械が機械を壊す。その中に人間が座っている。
ポーンの中には誰も座っていなかった。穿孔から覗いた内部に操縦席はない。フレームと配線と動力炉だけ。人間が入る余地などない構造だった。
風が止んだ。
荒野が静まり返った。灰域の夜は風がなければ恐ろしいほど静かになる。エンジンの音も金属の軋みも虫の声もない。月光だけが音もなく降り注いで残骸の上に影を落としている。ポーンのセンサードームの破片が地面に転がり、中の配線が露出していた。赤と黒のケーブルが千切れた断面を晒している。その断面にも月光が当たり、銅線が細く光った。
静けさの中でカイは自分の心臓の音を聞いた。息は落ち着いてもそれだけが止まらない。冴覚が届かない相手と戦った記憶が、意識の底でまだ脈打っている。
ケストレルの装甲に手を置いた。金属が冷え切っており、掌から体温が奪われていく。父もこの装甲に触れたのだろうか。父も戦闘の後に手が震えたのだろうか。トワの言葉が頭に残っていた。慣れるな。慣れたら終わりだ。父は慣れていたのだろうか。それとも慣れないようにしていたのだろうか。
答えは出なかった。出るはずがない。父は帰ってこなかったのだ。訊くことはもうできない。
カイは目を閉じてケストレルの脚部に額を預けた。冷たい金属が額を冷やす。呼吸がようやく落ち着き始め、震えも少しずつ収まっている。消えたわけではなく体の奥に沈んだだけだ。次にポーンの群れと対峙した時、この震えはまた浮かび上がってくるだろう。
それでいい。
トワの言葉を借りるなら、怖いと思っているうちはまだ人間だ。
* * *
その音が聞こえたのは目を開けた直後だった。
低く重い振動が地面を伝わってくる。ケストレルの脚部装甲に触れている掌が微かな震動を拾った。
エンジン音だった。
カイは立ち上がって東の地平線を見た。月光に照らされた荒野の果て、灰色の稜線の向こうに光は見えない。だが音は確かにあった。内燃機関の低い唸り。鉄殻のエンジンだ。
一機ではなかった。
複数の駆動音が重なり合い、低周波の振動となって荒野を渡ってくる。個々のエンジン音を聞き分けられるほど近くはないが、空気を震わせる圧力の厚さが数の多さを物語っていた。
通信が入った。ボルトだった。
「聞こえるか」
「ああ。東だ」
「マイロのセンサーに反応が出始めた。まだ距離がある。だが熱源の数が多い。ポーンじゃねえ。出力が違う」
ポーンではない。もっと大きな機体で、もっと重い足音。もっと高い出力のエンジン。
コルヴァスの本隊が来る。
カイはケストレルのコックピットへ駆け上がり、ハッチを閉じた。計器パネルに火が入る。正面カメラが東の闇を映した。まだ何も見えないが、エンジン音は確実に近づいていた。地面の震動が大きくなっている。
操縦桿を握った。
指はまだ震えていた。




