決断
ガルド・ヴェッセンの作業場は油と金属粉と赤葉の煙の匂いに満ちていた。
カイ・セヴァルは作業台に広げられた地図を見ていた。ガルドが油で汚れた指でなぞった3つの線は、鉄鴉の予想進入路だ。南東の廃墟群を抜ける最短ルート、旧世界の高速道路跡を回る迂回ルート、そして排水路を伝う隠密ルート。線は地図の上でどこでも交わらずに伸びていた。
「逃がすか、隠すか、戦うか」
ガルドは煙草を咥えたまま言った。
「戦えば集落に被害が出る。隠せばいずれ見つかる。逃がすなら、彼女と一緒にここを出るしかない」
カイは地図の端を指で押さえた。紙の端がめくれてはまた戻り、何度押さえても戻ってしまう。
「彼女に聞いてみる」
カイは作業場を出た。背中でガルドが何か言いかけてやめる気配がしたが、振り返らなかった。
* * *
夜の集落は静かだった。家々の窓に灯る遺灰酒のランプの明かりが土壁にぼんやり滲んでいる。昨日と何も変わらない。その変わらないことがカイの足を重くし、診療所までの道をいつもより遅く歩かせた。
診療所の前に女が立っていた。
壁に寄りかかって左手で右腕の副木に触れている。夜の冷気に白い息が混じり、紺色の目は南の空を見ていた。
「コルヴァスが来る」
カイが告げると、女は振り向かなかった。紺色の目は南の空に向けられたままだ。ガルドの地図にあった南東の線の先である。
「知ってる」
静かな声だった。
「ポラリスの通信で捜索信号を傍受した。PA-07への応答要求が3時間おきに入っている。捜索隊の規模と方位から推定して、到着まで1日か2日」
女は壁から体を離し、右腕の副木を左手でかばいながらカイに向き直る。
「私が出れば、この集落は巻き込まれない」
「お前が出ていけば、コルヴァスは集落を焼いてから帰るかもしれない。俺たちがお前を匿ったことは消せない」
女の顔が歪んだ。目を伏せて唇を噛み、副木に触れていた左手がゆっくりと拳になる。
「……すまない」
女の声は掠れていた。
「謝るな。お前のせいじゃない」
カイの声に怒りはなく、慰めもなかった。
「俺が残殻で出る。先鋒を叩いて、時間を稼ぐ。その間に住民を避難させる」
女が顔を上げ、紺色の瞳を見開いた。
「残殻で汎殻に? 性能差が――」
「知ってる。だがこの辺の地形は俺の庭だ。廃墟の配置は全部頭に入ってる。真正面からやり合うつもりはない」
女は何かを言いかけてやめ、カイの目をしばらく見つめていた。
「……あなたは、戦ったことがあるの。人と」
「ない」
短く、正直な言葉だった。
女は黙った。冷気の中で白い息だけが二人のあいだに昇っては消える。
「やめて」
女の声が変わった。硬い軍人の声ではなく、もっと素朴で切迫した響きを帯びていた。
「あなたが死ぬ必要はない。私がポラリスに乗ってコルヴァスに合流する。それが一番合理的な――」
「お前のポラリスは左脚が死んでる。関節を矯正したがフレームにまだ残留歪みがある。全力稼働は無理だ」
女は口を閉じ、もう反論はしなかった。
しばらくどちらも何も言わなかった。診療所の中で誰かが寝返りを打つ音がし、風が土壁の隙間を細く鳴らして通り過ぎる。女は副木の上に置いた手をもう一方の手で覆った。
カイは踵を返した。背中に女の視線を感じたが足は止めなかった。
* * *
ガルドの作業場に戻ってカイが決断を伝えると、ガルドは赤葉の煙を長く吐いた。
「反対だ」
「分かってる」
「残殻で汎殻に勝てると思うのか。コルヴァスの先鋒は腕利きだ。正規訓練を受けた操手が、汎殻に乗って来る。お前は訓練も受けていない。戦闘経験もない。勝てる要素が一つもない」
「地の利がある」
「地の利だけで性能差は埋まらない」
カイは黙った。ガルドの言葉に返す言葉がなく、膝の上の拳に力がこもる。ガルドは正しいし、いつも正しい。それが今は腹立たしかった。
「じゃあどうする。住民200人を連れて逃げるか。子供と老人を抱えて、鉄殻が追ってくる灰域を走るか。ゲオルグの体で何キロ歩ける。マーサは。リックは」
ガルドが煙草を握り潰した。指先に火が触れて軽い火傷を負ったはずだが、顔色一つ変えない。
長い沈黙が落ちた。
作業場の壁に並んだ工具がランプの光を鈍く反射し、赤葉の残り煙が天井に漂っている。遠くで吠えたのは灰域の野犬だろう。
「……死ぬなよ」
ガルドの声は低く、いつもの飄々とした調子が消えていた。暗い茶色の目がカイを見据え、その奥にはカイが見たことのない色が浮かんでいる。
「テオと同じ目をしやがる」
ガルドは新しい煙草を取り出して火をつけたが、その手が微かに震えていた。
「あいつも、こういう時に同じ目をした。止められなかった。今度も、止められないのか」
カイは答えなかった。テオの名前を出されたことに一瞬苛立った。今それを言うのか。死ぬと決まったわけじゃない。喉の奥まで出かかった言葉を呑み込み、ガルドの震える手から目を逸らす。
* * *
格納庫の隅に残殻が立っていた。装甲のあちこちに継ぎ目の溶接痕が走り、左腕には色の違う板金が当ててある。何度も直した跡が残るきれいとは言えない機体だが、これはカイの機体だった。
昇降用のステップに足をかけてハッチをくぐり、冷えた金属の縁に手をついて体を中へ滑り込ませた。狭いコックピットの座席に腰を落とすと、革の擦り切れた感触が尻に馴染む。沈み込みは思っていたより深いところで止まった。
メインスイッチを入れると計器が順に灯った。燃料は半分と少し。左腕の装甲健全度だけが黄色く点っている。何度も自分で叩き直したが、それでも色は変わらなかった。速射砲弾は32発。先月の補給で詰められるだけ詰めたその全部だ。
操縦桿を握る。手に馴染む金属の感触。長年握り続けた操縦桿はカイの掌の形に僅かに変形しており、右手の親指が握りの上に自然と乗った。
エンジンが唸りを上げた。低い振動がコックピット全体を震わせ、シートを通してカイの体に伝わり腰に響く。これが残殻の脈拍だった。今日の唸りはいつもより半音高い。燃料が減っているせいか、それとも自分の手が固くなっているせいかカイには分からなかった。
機関温度計が青から緑に変わり、暖機が完了した。
ペダルを軽く踏み込むと残殻が一歩前に出た。脚部の駆動音がいつもより大きく耳に届き、格納庫の天井の梁がゆっくり後ろへ流れていく。外に出ると外部マイク越しに風の音が入ってきた。砂粒を巻き上げる乾いた音は、いつもの夜と同じだ。
深呼吸をした。吸って、止めて、吐く。父がそうやって息を整えていたのをまだ覚えている。膝の上にカイを乗せ、操縦桿の握り方を教えてくれた手の節くれだった感触も。「鉄殻は手足の延長だ」とガルドは繰り返していた。力んだら動かない。操縦桿を握る手の力を抜き、指の関節を一つずつ緩めていく。
集落の外縁に、砂塵を巻き上げて接近する鉄殻の影が見える。
一機。
先鋒だ。
指先が冷えて口の中が乾き、心臓が肋骨を内側から叩いている。
カイは操縦桿を握り直した。一度。二度。握り込めば震えは外からは見えない。




