決断
選択肢は尽きた。残されたのは、壊れかけの残殻と、この手だけ。
ガルド・ヴェッセンの作業場は、油と金属粉と赤葉の煙の匂いに満ちていた。
カイ・セヴァルは作業台の上に広げられた地図を見つめていた。ガルドが指で示した3つの線。鉄鴉の予想進入路。南東の廃墟群を通る最短ルート、旧世界の高速道路跡を使う迂回ルート、そして排水路を経由する隠密ルート。
「逃がすか、隠すか、戦うか」
ガルドは煙草を咥えたまま言った。
「戦えば集落に被害が出る。隠せばいずれ見つかる。逃がすなら、彼女と一緒にここを出るしかない」
3つの選択肢。どれを選んでも、何かを失う。
「彼女に聞いてみる」
カイは作業場を出た。
* * *
診療所の前で、女が立っていた。
壁に寄りかかり、左手で右腕の副木に触れている。夜の冷気に白い息が混じる。紺色の目が、南の空を見ていた。
「コルヴァスが来る」
カイが言った。女は振り向かなかった。
「知ってる」
静かな声だった。
「ポラリスの通信で捜索信号を傍受した。PA-07への応答要求が3時間おきに入っている。捜索隊の規模と方位から推定して、到着まで1日か2日」
女は壁から体を離し、カイに向き直った。
「私が出れば、この集落は巻き込まれない」
「お前が出ていけば、コルヴァスは集落を焼いてから帰るかもしれない。俺たちがお前を匿ったことは消せない」
女の顔が歪んだ。目を伏せ、唇を噛む。自分の存在が、この人たちを危険に晒している。その事実が、女の肩に重くのしかかっているのが見えた。
「……すまない」
女の声は掠れていた。
「謝るな。お前のせいじゃない」
カイの声は平坦だった。怒りも慰めもない。ただ事実を述べている。
「俺が残殻で出る。先鋒を叩いて、時間を稼ぐ。その間に住民を避難させる」
女が顔を上げた。紺色の瞳が見開かれている。
「残殻で汎殻に? 性能差が――」
「知ってる。だがこの辺の地形は俺の庭だ。廃墟の配置は全部頭に入ってる。真正面からやり合うつもりはない」
女は何かを言いかけて、やめた。カイの目を見ている。灰色の瞳の奥に、覚悟が座っていた。無謀ではない。計算した上で、それでも行くと決めた目だった。
「……あなたは、戦ったことがあるの。人と」
「ない」
短い。正直な。
女は黙った。戦闘経験のない17歳の少年が、残殻一機でセルヴィス最精鋭の部隊に立ち向かおうとしている。
「やめて」
女の声が変わった。硬い軍人の声ではない。もっと素朴な、切迫した声。
「あなたが死ぬ必要はない。私がポラリスに乗ってコルヴァスに合流する。それが一番合理的な――」
「お前のポラリスは左脚が死んでる。関節を矯正したがフレームにまだ残留歪みがある。全力稼働は無理だ」
女が口を閉じた。カイの指摘は正確だった。操手である自分よりも、この少年のほうがポラリスの現状を正確に把握している。
* * *
ガルドの作業場に戻った。
カイが決断を伝えると、ガルドは赤葉の煙を長く吐いた。
「反対だ」
「分かってる」
「残殻で汎殻に勝てると思うのか。コルヴァスの先鋒は腕利きだ。正規訓練を受けた操手が、汎殻に乗って来る。お前は訓練も受けていない。戦闘経験もない。勝てる要素が一つもない」
「地の利がある」
「地の利だけで性能差は埋まらない」
カイは黙った。ガルドの言うことは全て正しい。反論の余地がない。だが、それでも。
「じゃあどうする。住民200人を連れて逃げるか。子供と老人を抱えて、鉄殻が追ってくる灰域を走るか。ゲオルグの体で何キロ歩ける。マーサは。リックは」
ガルドが煙草を握り潰した。指先に火が触れ、軽い火傷。だがガルドは顔色を変えなかった。
長い沈黙が落ちた。
作業場の壁に並んだ工具が、ランプの光を鈍く反射している。赤葉の残り煙が天井に漂う。遠くで犬が吠えた。灰域の野犬だ。
「……死ぬなよ」
ガルドの声は低かった。いつもの飄々とした調子が完全に消えている。暗い茶色の目がカイを見ている。その奥に、カイが見たことのない感情があった。恐怖。この男が、恐れている。カイを失うことを。
「テオと同じ目をしやがる」
ガルドは新しい煙草を取り出し、火をつけた。手が微かに震えていた。
「あいつも、こういう時に同じ目をした。止められなかった。今度も、止められないのか」
カイは答えなかった。ガルドの震える手を見て、胸の奥で何かが痛んだ。だが言葉にはならなかった。
* * *
残殻のコックピットに座った。
起動シークエンスを開始する。メインスイッチを入れると、計器類が順番に点灯した。燃料残量計、52%。機関温度計、青。装甲健全度表示、左腕が黄色、他は緑。弾薬残量、速射砲弾32発。
操縦桿を握った。手に馴染む金属の感触。長年握り続けた操縦桿は、カイの掌の形に僅かに変形している。右手の親指が操縦桿の上に乗る。父から受け継いだ癖だと、ガルドが言っていた。
エンジンが唸りを上げた。低い振動がコックピット全体を震わせ、シートを通じてカイの体に伝わる。腰に響く振動。これが残殻の脈拍だ。
機関温度計が青から緑に変わった。暖機完了。
カイは深呼吸をした。父に教わった通りに。吸って、止めて、吐く。操縦桿を握る手の力を抜く。「鉄殻は手足の延長だ」とガルドは繰り返し言った。力んだら動かない。
集落の外縁。砂塵を巻き上げて接近する鉄殻の影が見える。
一機。
先鋒だ。
カイの心臓が跳ねた。恐怖が腹の底から這い上がる。指先が冷たくなる。口の中が乾く。
だが操縦桿を握る手は、震えなかった。




