霧氷の狩人
凍結湿地帯に踏み込んだ瞬間足元が沈んだ。
ケストレルの右脚が氷の層を踏み抜き、その下の泥水に脛まで埋まった。計器に表示される接地圧の数値が跳ね上がった。駆動系が負荷に喘ぐ低い唸りをコックピットに伝えてくる。左脚で踏ん張り右脚を引き抜くと、砕けた氷の破片が泥水と一緒に飛び散った。
「足元に気をつけろ。ここは地盤が死んでる」
ボルトの声が通信に入った。ハウラーは湿地帯の縁を選んで進んでいた。33tの重量で湿地に足を取られれば動けなくなる。ボルトはそれを経験で知っていた。
凍結湿地帯はストーンクロスの西方約8kmに広がっていた。旧世界の人工湖の跡地だ。大崩落で堤防が決壊し、水が低地に広がったまま凍結と融解を繰り返して湿地になった。表面は薄い氷に覆われているが、その下は泥と水の混合物が深さの分からない層を成している。氷の下で水が流れる音がケストレルの外部マイクを通じてかすかに聞こえていた。ぐるぐると低い、生き物の腹が鳴るような音だった。
前衛の汎殻部隊を旧市街で退けてから3時間。シンダーの本隊は後退せず陣形を再編成しながら西方に展開した。マイロの通信が伝えた情報では汎殻8機が2手に分かれて側面を迂回中。そして中央にライムが1機単独で前進している。
「出てきやがった」
ボルトが低く呟いた。
カイは冴覚を前方に伸ばした。1.5km先。太い意識がゆっくりと近づいてくる。揺るがない。感情の波がない。旧市街で交戦した汎殻の操手たちの意識は恐怖と緊張で揺れていた。ゼルマにはそれがなかった。水底の岩のように動かない精神がただ前に進んでいる。
メインカメラの倍率を上げた。凍結湿地帯の白い靄の中に暗緑色の影が見えた。
ライム。
角張った頭部のスリット状カメラが真っ直ぐこちらを見ていた。分厚い胴体が靄の中に沈み、太い脚が凍った地面を踏んで一歩ずつ進んでくる。歩幅が一定だった。速くも遅くもない。追いかけてくるのではない。こちらが逃げるとも思っていない。ただ任務を遂行する速度で歩いている。
その背後に3つの影が浮かんでいた。
遊肢だった。ライムの肩の高さから左右と背後に三角形を描くように展開している。前方ではなく周囲を覆うように。攻め手ではなく死角を消す配置。三角翼の扁平な機体が低い推進音を立てて浮遊している。前面のセンサーが全方位を走査していた。
通常の構成とは違うとカイは気づいた。偵察型ではない。三角翼の形状はグランヴェルト制式の戦闘型。前面に速射砲の砲口が見えた。索敵と射撃を兼ねた運用。守りながら撃つ。
「ボルト」
「見えてる」
ボルトの声に苛立ちが滲んでいた。
「遊肢が3基。全方位をカバーしてやがる。正面だけじゃない、側面も後方も塞がれてる。あの配置を崩さないと、本体に近づけない」
「俺が正面から行く」
ボルトが言った。
「ハウラーの装甲で弾を受けて、本体の注意を引く。その間にお前が横から――」
「無理だ」
カイは即座に否定した。冴覚が伝えている。ゼルマの意識は分散していなかった。3基の遊肢を操りながらも注意が一箇所に集中することがない。全てを均等に見ている。正面に気を取られて側面が開くような相手ではない。
「注意は引けない。あの男は、全部を同時に見てる」
「だったらどうする」
「分からない。だが、正面から行けば撃ち抜かれる」
ボルトは短く舌打ちした。
「俺に止まれと言ってるのか」
「撃ち抜かれるなと言ってる」
沈黙が落ちる。ハウラーの通信の雑音だけが凍った空気を震わせていた。
「行くぞ」
ボルトが言った。
* * *
ハウラーが走った。
33tの残殻が凍結した地面を蹴り湿地帯の縁を直線で駆ける。継ぎ接ぎの装甲が風を切り右腕のパイルバンカーが前方を向いた。左手のファルケが火を噴いた。75mm弾が白い靄を裂いてライムに向かう。
弾丸はライムの胸部傾斜装甲に当たり火花を散らして弾かれた。装甲の表面に新しい傷がひとつ刻まれただけだった。
ライムは止まらなかった。足を止めもしなかった。ゼルマの意識が冴覚の中でわずかに動いた。右手の操縦桿が動く。照準が合う。
ライムの右腕のファルケが応射した。75mm弾がハウラーの正面装甲を叩いた。ボルトの機体が衝撃で揺れたが増加装甲の多重層が弾を止めた。ボルトは構わず突っ込んでいく。距離が縮まる。800m。600m。
ゼルマの意識がまた動いた。今度は遊肢だ。
左翼に展開していた1基が位置を変えた。ライムの左側面から前方に滑り込む。ハウラーの接近角を計算した配置換えだ。いま突っ込めばハウラーは本体の正面砲撃を受けながら遊肢の速射砲を横から受ける。
「ボルト、止まれ!」
カイが叫んだ。
ボルトが急停止した。凍った地面にアンカーボルトを打ち込み、33tの慣性を無理やり止める。靴底が地面を抉り、白い粉塵が舞い上がった。その直後、ライムの正面砲と遊肢の速射砲が同時に火を噴いた。弾丸が止まったハウラーの頭上を通過した。1mも開いていなかった。
「クソッ」
ボルトが吐き捨てる。
ゼルマの意識が動いていた。ハウラーが止まったことを捉え、次の射線を計算している。間を置かない。感情なく照準が修正される。
カイはケストレルを走らせた。ボルトとは逆方向、左側面に向かって。冴覚が伝える——ゼルマの注意がハウラーに向いている。この瞬間だけ。
ケストレルが湿地帯の縁を飛ぶように走り、ライムの左側面に回り込もうとした。そこに遊肢がいた。速射砲が向きを変えケストレルを捉える。
冴覚が警告を発した瞬間カイは右に跳んだ。ファルターが噴射し機体が横に飛ぶ。速射砲の20mm弾が左肩装甲を掠めて火花を散らした。掠っただけだが衝撃で体勢が崩れる。
着地した地面が沈んだ。
湿地だった。踏み込んだ右脚が氷を踏み抜き泥水に埋まる。脱出しようとするが重量と吸着力が脚を離さない。駆動系が悲鳴を上げた。機関温度の警告が点滅する。
「ケストレル、止まった。脚が湿地に嵌まってる」
カイが通信で報告した。
ゼルマの意識がケストレルに向いた。
ライムが向きを変え始めた。
* * *
「引け!」
ボルトが吼えた。
「引けないと言ってる!」
カイは操縦桿を最大入力で引いた。ケストレルの腰部スラスターが噴射し、脚を引き抜こうとする。泥水の抵抗が凄まじかった。25tの機体が引いても、吸着した泥は離さない。計器の警告が増える。駆動系過負荷。燃料消費急増。
ライムが近づいてくる。ゆっくりと。確実に。
右腰の鍛翼刀に手が伸びた。だが使えない。鍛翼刀は近接武装だ。ライムが射程内に入る前に速射砲か正面砲で撃ち抜かれる。刃が届く距離まで生き延びられない。
「カイ、冴覚で遊肢を潰せるか」
トワの声だった。静かで冷静だった。
「潰せれば本体の死角ができる」
カイは冴覚を遊肢に向けた。3基の意識は感じ取れるが、遊肢は自律型だ。操手の意識とは種類が違う。感情の層がない。機械的な判断だけがある。それは読める。次の動作の兆候が分かる。
「右翼の1基、次の射撃タイミングが分かる。だが撃てる武装がない。ヴェスペは30mmで、あの装甲には通らない」
「撃たなくていい」
トワが言った。
「フェイントをかけろ。遊肢が反応した瞬間に俺が抜く」
カイはトワの位置を冴覚で確認した。右後方150m。旧市街の廃墟の影に潜んでいる。
「分かった」
カイはケストレルの上半身を右に向け、右腕のファルケをライムの右翼遊肢に向けた。脚は湿地に嵌まったままだが上半身は動く。遊肢のセンサーがケストレルの砲口の動きを捉えた。射撃の兆候を検出した反応が走る。遊肢の速射砲がケストレルに照準を変えようとした。
その刹那にトワが飛び出した。
シルフが廃墟の影から疾走し、空いた右翼の死角にまっすぐ突っ込んだ。逆関節の跳躍で崩れたコンクリート片を足場にしながら高度を上げ、右翼遊肢の直上から戦闘短刀を突き下ろす。
遊肢の推進ユニットに刃が突き立てられ、爆発的な火花が散った。速射砲が制御を失いながら発射し、弾丸が虚空に散らばる。遊肢が推力を失って落下し、凍った地面に叩きつけられた。砕けた機体の破片が飛び散り、煙が上がる。
ゼルマの意識が動いた。遊肢の喪失を補正しようとして、注意がわずかに揺れた。
ボルトが突っ込んだ。
ハウラーが全速で走り、パイルバンカーをライムの胸部に叩きつけた。炸薬が爆発して杭が装甲に突き刺さる。傾斜装甲がパイルの角度を逸らしたが、衝撃でライムが後退した。ゼルマの意識が揺れる。初めて揺れた。
カイは操縦桿を引いた。ケストレルの腰部スラスターと脚の駆動系が同時に全力で引き抜きにかかる。泥水の吸着が弛んだ。この瞬間だ。
右脚が抜けた。
機体が不安定なまま湿地帯の縁に踏み出し、カイは操縦桿を総動員して姿勢を整えた。コックピットが大きく揺れ、計器類が一斉に警告を出している。機関温度赤域。燃料残量41%。装甲健全度は左肩と右脚が赤に近い黄色。
立った。
ライムの注意がまだボルトに向いていた。ゼルマが冴覚の中でケストレルの復帰を捉える前に、カイはファルターを噴射した。




