灰域の壁
夜明けとともに陣地を捨てた。
ボルトの指示で4機が後退を始めた時、シンダーの前衛はすでに2km先に迫っていた。マイロの通信が耳に入る。
「前衛6機、ヴァルカン。本隊から分離して加速している。ゼルマのライムは本隊中央、動いていない」
「予定通りだ。前衛だけを旧市街に引き込む」
ボルトの声は低く落ち着いていた。
中間陣地を2箇所使い、足止めしながら後退した。各陣地で90秒。マイロが設定した限界より30秒短いが、それでもライムの偵察型遊肢がセンサーの網を広げるのを冴覚で感じ取れた。上空のどこかで扁平な円盤型の機体が旋回し、静音推進の排気が微かに大気を震わせている。
3つ目の中間陣地を捨てた時、前方に旧市街の輪郭が見えた。
* * *
崩れたビル群が灰色の空の下に歯のように並んでいた。
旧世界の市街地の残骸だ。大崩落の砲撃と30年に及ぶ風化で建造物の半分以上が原形を留めていない。コンクリートの断面から骨のように突き出した鉄筋と、壁面に穿たれた無数の弾痕は大崩落時の痕跡だ。壁を貫通したものもあれば表面をえぐっただけの浅い傷もあり、30年前にここで何が起きたのかを壁が代わりに語っていた。
ケストレルが旧市街の路地に踏み込むと、足裏がコンクリートの瓦礫を踏み砕き、乾いた破砕音が建物の壁に反響した。ケストレルの肩幅ぎりぎりしかない狭い路地だ。左右の壁面が迫り、上を見れば崩れかけた渡り廊下の鉄骨が頭上を横切っている。
「全機、旧市街内に入った。ここからは通信を最低限に絞る。マイロ、後方監視を頼む」
トワが短い声で指示を出した。
「了解。ライムは動いていない。前衛6機のうち4機が旧市街の西端に到達。残り2機が南側に回り込もうとしている」
マイロの通信が途切れる。
カイは路地の奥でケストレルを停止させ、メインカメラの倍率を上げた。西側の通りの向こうに暗緑色の影が見える。ヴァルカンが2機、縦列で旧市街に進入してきた。先頭の機体が慎重に周囲を警戒しながら崩れたビルの角を曲がると、足元のコンクリート片を踏む音が廃墟の静寂を破って響いてくる。
冴覚を伸ばすと、6人の操手の意識が感じ取れた。緊張してはいるが揺れてはいない。前に哨戒で当たった四機の意識はもっと細かく震えていた。これは訓練で削ぎ落とした静けさだ。
「ボルト、正面」
トワの声。
「見えてる」
ボルトのハウラーが通りの正面に姿を現した。33tの残殻が廃墟の路地から歩み出ると、足元のコンクリートが重量で砕けて粉塵が舞い上がる。ファルケを構え、先頭のヴァルカンに向けて引き金を引いた。
75mm弾が通りを貫き、ヴァルカンの正面装甲に命中して火花を散らして弾かれた。だが衝撃で歩みが止まる。すかさず後続の1機が左に身を寄せ、ビルの壁を背にして射撃姿勢を取った。
2機が同時にハウラーへ向けて撃ち、75mm弾が2発胸部と左肩に叩き込まれた。装甲が軋み塗膜が剥がれて白い粉塵が舞うが、ハウラーは止まらない。ボルトの残殻は弾を受けながら前進し、通りの中央に立ちはだかる。壁だ。この通りを通るならハウラーを越えなければならない。
リントが動いた。
キャリバーが南側の路地から姿を現し、移動しながらヴァルカンの側面に向けてファルケを撃つ。75mm弾が後続のヴァルカンの右脇腹に命中して側面装甲がひしゃげた。ヴァルカンが振り向くより早く、リントは撃った直後に路地へ引き返し建物の壁に身を隠していた。
開けた平原なら6機で包囲できるが、この廃墟では狭い路地と崩れた壁が射線を断ち、一度に向き合える数が限られる。上空の遊肢もビルの残骸に視界を塞がれていた。
カイはケストレルを走らせた。
* * *
路地を抜けて南側の通りに出る。
マイロが報告した2機が南から旧市街に入ろうとしており、カイは冴覚でその位置を捉えた。100m先、ビルの角を曲がったところに1機目がいる。2機目はさらに50m後方だ。
1機目に仕掛ける。
ケストレルのファルターが噴射し、コンクリートの壁を左右に流しながら路地を一気に駆け抜けた。足元の瓦礫を蹴散らして加速し、ビルの角を曲がった瞬間にヴァルカンの背中を捉える。
こちらには気づいておらず、ヴァルカンは正面のビル群を警戒しながら前進していた。背後からの接近を想定していない敵の右膝裏に照準を合わせ、カイは右手のファルケを構える。
撃った。
75mm弾が膝裏の関節に吸い込まれ、装甲の薄い部分を抉ってヴァルカンの右脚をへし折った。機体が片膝をついてバランスを崩し右に傾く。操手の意識が冴覚の中で跳ねた。驚愕と痛覚だ。
ただちに離脱する。
ケストレルを反転させて来た路地に飛び込むと、背後で旋回したヴァルカンの左腕からヴェスペの30mm弾が追いかけてきた。弾丸がビルの壁面を抉ってコンクリート片が飛び散るが、射線は路地の角で遮断される。建物が盾になった。
2機目が来る。
冴覚の警告通り、50m後方にいた2機目が味方の被弾を聞いて加速していた。カイは路地を走りながら右に折れ別の通りに出る。頭の中に描くのはマイロが事前に用意した旧市街の地形図だ。崩れたビル群の隙間を縫う路地の網目に従い、この通りを北に抜ければボルトの位置に戻れる。
だが通りの先にヴァルカンがいた。
3機目だ。
西側でハウラーの正面に来ていた2機のうちの1機が、路地を抜けてこちら側に回り込んでいた。正面にヴァルカンが立ち塞がり、背後からは2機目が追ってくる。挟まれた。
背すじを冷たいものが走った。
冴覚が捉える2つの意識のうち、正面の操手は冷静だ。次弾の装填を終えようとする銃口がこちらを向いている。一方の背後の操手には怒りと焦りが混じっていた。
正面のヴァルカンが撃つ。
カイは左に跳んだ。ファルターが横方向に吹き、ケストレルが路地の壁際に飛ぶ。75mm弾は右脇を通過して背後のビルの壁に着弾し、崩れたコンクリートの塊が路地に雪崩れ落ちた。
続いて背後からも銃声。
追いついた2機目のヴァルカンが通りの入口から撃ってきたのだ。カイが右脚のペダルを踏み込んでケストレルを壁際に押しつけると、弾丸が左肩の装甲を掠め、計器のインジケーターが黄色に変わる。
挟まれて動けない。
正面か背後のどちらかを突破しなければこの路地で撃ち抜かれる。正面のヴァルカンは冷静に次弾の装填を終えようとしており、背後のヴァルカンも銃口をこちらに固定していた。
ケストレルの速さでも2方向からの射撃を同時にかわすことはできない。冴覚が両方の操手の意識を読んでおり、トリガーのタイミングもどちらが先に撃つかも分かっていた。だが分かっていても、同時に2つの弾丸はかわせない。
これが届かないということか。
ケストレルの性能は汎殻を上回り、冴覚は敵の動きを先読みできる。1対1なら負けないが、2対1で挟まれた瞬間に冴覚も機動力も意味を失って数に押し潰される。操縦桿に食い込んだ指が他人の肉のようにこわばって動かなかった。
銃声が響いた。
背後からではなく、上からだった。
崩れかけたビルの屋上から降ってきた40mm弾が背後のヴァルカンの頭部センサーを直撃し、デュアルセンサーの上段を粉砕する。火花と破片が飛び散り、ヴァルカンがたまらず後退した。
トワのシルフだった。
黒ずんだ灰色の機体がビルの屋上の縁に立ち、逆関節の脚で崩れかけたコンクリートの端を掴んでいる。左腕のルークから硝煙を吐き、装甲のない骨格のような機体が廃墟の上から見下ろしていた。
「正面を抜け。背後は押さえる」
トワの短い声が響く。
カイはケストレルを正面に向けた。ヴァルカンの銃口がこちらを向き次弾装填も完了しているが、今度は1対1だ。
冴覚が操手の意識を読んだ。トリガーに指がかかり、右肩が沈む。
カイは右に跳んだ。
75mm弾が左脇を通過するなか、ファルターを噴射してケストレルが一気にヴァルカンとの距離を詰める。右腰から抜いた鍛翼刀の振動機構が唸りを上げ、刃が空気を裂いた。
ヴァルカンの操手が反応してファルケを盾のように構え、後退しようとする。だが路地が狭く背後にはビルの壁があり、退がれなかった。
その左脇腹に鍛翼刀を叩き込んだ。
刃が側面装甲に喰い込み金属の裂ける音が路地に反響する。振動機構が装甲の繋ぎ目を削り切断すると、オレンジ色の火花とともに装甲片が地面に落ちた。胴体左側を大きくえぐられて内部フレームを露出させたヴァルカンは、右に傾いて壁にもたれかかった。
カイが鍛翼刀を引き抜いてケストレルを後退させると、ヴァルカンは壁に寄りかかったまま動かなくなった。戦闘不能だ。
* * *
通信が入った。
「南側、制圧。脚を折った1機が撤退中。もう1機はセンサーを潰されて後退した」
トワが報告する。
「西側も押し返した。2機ともハウラーの正面で動けなくなってる。リントが片方の肩関節を撃ち抜いた」
ボルトの声には荒い息が混じっている。
「残り1機、旧市街の北側から回り込もうとしている」
そこへマイロの通信が重なった。
「北側は建物の崩落が激しくて、鉄殻が通れる路地がほとんどない。回り込むには時間がかかる」
「それなら放っておけ。こっちが先に片付く」
ボルトが吐き捨てる。
カイは路地の壁に背を預け計器に目を落とした。まず巡航上限を超えかけている機関温度が目を引く。路地での急加速と急停止のツケだった。装甲は左肩と右脇が黄色だが、燃料は60%残っており刃に欠けもない。まだ戦える。
息を吐く。操縦桿から引き剥がした掌には冷えた汗がまとわりついていた。冴覚で両方のトリガーのタイミングまで全部見えていたのに、それでも手が二つに割れてはくれなかった。
トワがいなければあの路地で撃ち抜かれていた。
「カイ」
トワの通信だった。
「次はない。挟まれたら、仕掛ける前に退け。路地で止まるな」
短い。トワはいつもそうだ。——だが、あのタイミングで屋上にいた。俺の動きをずっと追っていたのか。
「了解」
カイは応じた。
* * *
前衛6機のうち戦闘不能が2機、機動力を喪失したのが1機。残る3機は損傷を受けて後退を始めていた。旧市街の路地を抜けて西に撤退していく暗緑色の影を、カイはビルの隙間から見送る。
廃墟が静まり返った。
銃声の残響が消えてコンクリートの粉塵がゆっくりと沈んでいき、ケストレルの排気音だけが崩れたビルの壁に反射している。
カイはメインカメラの視線を上げた。
目の前のビルの壁面に何かが見える。色褪せた広告看板の残骸だった。壁に打ちつけられた鉄の枠組みに薄い金属板が嵌っている。表面の塗装はほとんど剥げ落ちていたがかすかに文字が読めた。青い背景に白い文字で、何かの飲料の広告だったのかもしれない。文字の大半は風化して消えていたが一語だけ残っていた。
読めなかった。旧世界の言語だ。30年前にこの街に人が住んでいた頃の言葉。この看板の下を人が歩き車が走っていた。鉄殻ではない普通の暮らしがあった。
大崩落が全てを灰に変えた。
広告看板の枠組みに弾痕があった。75mm弾が貫通した跡だ。30年前の弾丸が広告を打ち抜いて壁に突き刺さっている。看板の飲料を買っていた人間と弾を撃った兵士が、同じ街にいた。
カイは視線を看板から外す。
そして通信を開いた。
「マイロ。ライムの位置は」
「変わらない。本隊中央。前衛の後退を確認しているはずだが、動いていない」
「前衛を捨てたのか」
「違う」
マイロの声に緊張が走る。
「温存だ。前衛で偵察を終えた。次に来る時は、ゼルマ自身が来る」
通信が切れた。
カイはケストレルのコックピットの中で正面のスクリーンを見つめた。旧市街の向こうに広がる凍結平原の彼方にシンダーの本隊がいる。ゼルマ・ヴォルフはまだ動いていない。
前衛を退けた。だがそれだけだ。
本隊はまだ来ていない。




