狼の進軍
前哨陣地の構築が終わったのは日が傾き始めた頃だった。
ストーンクロスの西方約12km。旧世界の高架橋が半ば崩れた窪みにボルトが選んだ迎撃陣地がある。崩れたコンクリート片が身を隠せる壁になっていた。左右は鉄根樹の枯れ林。正面だけが開けており、敵が来るとすれば真っ向からだ。
「退路がある陣地は良い陣地だ」
ボルトが腕を組んで地形を見渡しながら言った。
「死に場所を選ぶつもりはない」
カイはケストレルのコックピットに座ったまま正面の荒野を見ていた。凍結した大地が灰色に広がり、地平線の手前で薄い靄に溶けている。風は止み、気温は氷点下8度。計器のバックライトが弱い光を放ち、白く曇った呼吸が正面スクリーンの隅を一瞬だけ覆った。
「本隊まであと6時間」マイロの声が通信に乗っていた。「補給線を叩いて2日稼いだが、連中は護衛を本隊に吸収した。車列を中心に抱え込んで進んでる。もう補給線だけを狙う手は使えない」
カイは荒野から目を離さなかった。
「カイ、見ろ」
トワの声が通信に入った。
カイは正面カメラの倍率を上げた。荒野の向こう、地平線の靄の中に何かが動いていた。小さい。鉄殻ではない。地表から3mほどの高さをゆっくりと水平に移動している。
スカウト・ドール。
全長1mほどの小型飛行体が3機、扇状に散開しながら接近してきていた。暗緑色に塗装されたグランヴェルト製だ。機体の上面にセンサーアレイが張り出し、下面の推進ノズルからかすかな排気が白く尾を引いている。音はほとんどしない。灰色の空を背景に虫のように低く這う影が、こちらの陣地に向かって真っ直ぐ進んでくる。
「偵察だ。位置を取られるぞ」
トワが言った。
「撃ち落とすか」
リントが通信に割り込んだ。キャリバーのファルケがスカウト・ドールの一つに照準を合わせている。
「やめろ」
ボルトが制した。
「撃てばこちらの火力と射程を教えることになる。見せたくないものを先に見せるな」
スカウト・ドールが3機とも陣地の上空を通過していった。センサーアレイの面が下を向いた瞬間、カイの背筋に冷たいものが走った。見られている——何もかも向こうに筒抜けだ。
3機は陣地を1周するように旋回し、北西の方角に戻っていった。
「やられたな」
ボルトが吐き捨てた。
* * *
スカウト・ドールが消えた方角にカイは冴覚を伸ばした。
距離は遠い。4km以上先に複数の意識がかたまりになって移動しているのが感じ取れた。10以上。操手たちの意識が重なり合い、一つの大きな塊のように進んでくる。その中心にひときわ太い意識があった。揺るぎなく感情の波がない、任務を遂行する機械のような精神だ。
カイはメインカメラの倍率をさらに上げた。靄の向こうに影が現れた。
汎殻の縦隊だ。暗緑色の装甲が靄の中に列を成し、凍結した大地を踏んで進んでくる。先頭の2機が前衛。左右に各2機が展開し、中央に補給車列が収まっている。その後方にさらに4機。整然とした行軍隊形だった。
そして隊列の先頭から3番目に一回り大きな影があった。
カイの目がそこに釘付けになった。
汎殻とは違う。
まず厚みが違った。胸から腹にかけて装甲が斜めに重なりこちらの弾をことごとく逸らす構えに、うなじの奥がざわりと粟立った。腕は太く短く、右に突撃銃、左に盾——隙を作る気がない。
背部にある3基の懸架アームのうち2基は空だった。スカウト・ドールではない、遊肢だ。偵察型遊肢2基が展開され、残り1基には防御型遊肢が控えていた。
全体のシルエットは鈍重な番犬のようで派手さはない。だが堅牢さが見ただけで伝わってきた。傷だらけの装甲表面に修復痕が何層にも重なり、暗緑色の塗装の上に戦場ごとの迷彩が重ね塗りされた痕跡が残っていた。
銘殻。
「あれがライムだ」
ボルトの声が低く通信に響いた。
「ゼルマ・ヴォルフの搭乗機。グランヴェルトが誇る『穴のない万能機』。あの遊肢で索敵網を敷いて、こちらの位置を全部把握してやがる」
カイは冴覚であの太い意識をもう一度探った。静かだった。あまりに静かでそこに何があるのか読み切れない。怖がってもいなければ昂ってもいない——それだけが分かった。
ライムの歩みは止まらなかった。隊列ごとゆっくりと、確実にストーンクロスの方角に向かって進んでいる。
* * *
日が沈んだ。
陣地の中でボルト、トワ、カイ、マイロの4人が地図を囲んだ。蝋燭が1本。マイロが書き込んだシンダーの行軍経路の上に偵察で確認した情報が追加されていた。
「汎殻12機、銘殻1機。スカウト・ドール少なくとも3機。補給車列4台。護衛はもう分離していない。全部隊が1塊で動いている」
マイロが淡々と報告する。
「このまま正面から受ければ壊滅する。数が違いすぎる」
地図の上のマイロの指が旧市街の廃墟群を示した。
「引き込む。ここだ。旧市街は建物の残骸が密集している。鉄殻1機がやっと通れる幅の路地がいくつもある。隊列を組んだまま進入できない地形だ。ここに誘い込めば、数の優位を潰せる。1対1の遭遇戦に持ち込む」
「引き込むには、まずこの陣地で接触して後退しなければならない」
トワが言った。
「わざと負けるのか」
ボルトは眉を寄せ、腕を組んで蝋燭の火を睨んでいた。
「逃げながら戦うのは性に合わん」
「逃げるんじゃない」
カイが言った。
4人の視線がカイに集まった。
「勝つためにやるんだ」
ボルトはしばらくカイを見つめていた。蝋燭の火が揺れ、ボルトの顔に影を落とす。
「テオと同じことを言いやがる」
ボルトは鼻を鳴らした。だがその口元にはかすかな笑みがあった。
「いいだろう。お前がそう言うなら乗ってやる。だが、引き際を誤るなよ。深追いされて壊滅すれば、ストーンクロスを守る奴がいなくなる」
マイロが地図に赤い線を引いた。陣地から旧市街までの後退経路だ。途中に3箇所の中間陣地が書き込まれた。
「中間陣地で足止めしながら後退する。各陣地で2分以上は留まらない。それ以上留まれば、ライムの遊肢に位置を固定されて間接砲撃が飛んでくる」
「2分か」
トワが目を閉じる。
「短いな」
「生きていれば十分だ」
マイロが応じた。
* * *
深夜。陣地の外に出た。
カイはケストレルの足元に立って空を見上げた。雲が厚く星はない。闇の中に鉄根樹の枝が黒い骨のように伸びている。自分の呼吸と遠くで凍った地面が軋む音だけが聞こえた。
ケストレルを見上げる。猛禽の頭部を思わせるバイザーが闇の中でかすかに光を反射していた。10.4mの機体が夜の中に立ち、装甲の表面には夜露が凍りついている。
カイはケストレルの脛の装甲に手を触れた。金属は指先を刺すほど冷たく、熱を奪われた指の腹からちりちりとした凍えが骨の芯まで染み込んだ。
この機体に乗って明日、あの隊列の前に立つ。12機の汎殻と銘殻ライム。感情のない軍人が率いる歴戦の部隊。
手が震えた。脛の装甲を握る指に力を込めても止まらなかった。
カイは装甲から手を離さなかった。冷たい金属の感触がかえって意識を引き締めた。
——勝つためにやるんだ。
ケストレルの装甲に張りついた氷の膜が闇の中でかすかに白く光っていた。




