傭兵たちの夜
焚き火の煙が真っ直ぐに昇っていた。
風のない夜だった。湿った薪が燻り、鉄錆の混じった煙が灰色の空に溶けていく。ストーンクロス西方の凍結平原に設営された野営地は旧世界の通信塔の基礎コンクリートを風除けにし、鉄殻4機の間に焚き火を囲む形で作られていた。
フランが鍋の中身をかき混ぜている。
干し肉を刻んで根菜と一緒に煮込んだスープだった。鉄の鍋が焚き火の上で低く唸り、湯気が夜の冷気に触れて白く散る。フランは木の匙で肉の固さを確かめると首を傾げた。
「まだ固い」
誰に言うでもなく呟いて鍋に水を足した。水筒の水が鍋に落ちる音だけが夜に大きく聞こえる。
ジップは焚き火の反対側に座り、膝を抱えて薪を1本ずつ火にくべている。赤茶けた髪が炎に照らされて銅色に光っていた。薪が爆ぜるとジップは身を引き、また同じ姿勢に戻る。
「ジップ、薪を一度にくべるな。火が大きくなりすぎる」
フランが注意した。
「分かってます」
ジップはもう1本くべた。フランは溜息をつき、鍋に視線を戻す。
カイは焚き火から少し離れた位置に座っていた。ケストレルの脚部の影に腰を下ろし、背中を装甲に預けている。金属の冷たさが防寒着を通して背骨に伝わってきた。昼間の戦闘の振動がまだ手に残っており、指を閉じると関節が軋んだ。
フランが鍋から匙を引き上げて味を見る。
「できた。持ってこい」
ジップが鉄のカップを4つ並べ、フランがスープを注ぐ。干し肉の塩気と根菜の甘みが混じった湯気が立ち上り、灰原草の苦い香りがその奥に潜んでいた。
カイはカップを受け取った。両手で包むと金属越しの熱が冷えた指先にじんと染みた。一口飲む。干し肉はまだ固かったが煮込んだ分だけ繊維がほぐれ、噛めば旨味が広がった。体の芯に温かいものが沈んでいく。
「まだ固いじゃないですか」
「文句があるなら自分で作れ」
「いや、うまいっす。うまいけど、固い」
ジップがカップを両手で抱えながら言った。フランは答えない。
* * *
リントは焚き火の端に座り、ファルケの分解整備をしていた。
照準器を外し、銃身の内部を布で拭いて薬室の汚れを爪でこそぎ落としている。手つきは淀みなく、視線は手元に固定されたまま動かない。赤いスカーフが首元で揺れていた。
ボルトは焚き火の向こう側で胡座をかき、革の水筒から酒を飲んでいた。一口飲むたびに息を大きく吐く。白い息が炎に照らされて赤く染まった。
「昔、テオと飲んだことがある」
ボルトが言った。唐突だった。誰に向けた言葉なのか分からない。焚き火を見つめたまま酒を一口含み、言葉を続ける。
「あの男は強かった。俺が見た中で一番だ。ケストレル1機で傭兵団を壊滅させた。血鉄のレオーネを超えたと、俺は本気で思った」
カイの手が止まった。父の名前がボルトの口から出た。
「だが、テオは壊れた。鋳脈のせいだ」
ボルトの声に酔いの気配はなかった。酒を飲んでいるのに目は醒めていた。
「テオは俺と最後に会った時、左手が震えてた。本人は隠してたが、俺には見えた。酒を注ぐ手が揺れてた。あの男がだぞ。あのケストレルの操縦桿を1ミリの狂いもなく動かす男が、コップに酒を注げなかった」
焚き火の薪が爆ぜた。火の粉が舞い上がり夜の闇に吸い込まれる。
リントが手を止めずに口を開く。
「鋳脈なんてもんに頼るから壊れるんだ」
照準器を銃身に戻しながら淡々と言った。
「俺たちは自分の腕だけで生き延びてきた。鋳脈もない、冴覚もない、銘殻もない。それでも灰域の人間は戦えてる」
「簡単に言うなよ、若造」
ボルトが酒を含んだ。
「鋳脈がなきゃ勝てない相手がいる。テオはそれを知ってたから、代償を承知で使い続けた。選べなかったんだよ、あの男は」
「選べなかったんじゃない。選ばなかっただけだ」
リントの声は平坦だった。
ボルトは黙って酒を飲み、それから低く笑った。
「お前みたいな奴がいるから、灰域はまだ保ってるんだろうな」
リントは何も答えずファルケの撃針を布で拭いた。
沈黙が落ちた。焚き火の薪が崩れる音だけが凍った空気を震わせている。カイはカップの中のスープを見つめた。干し肉の脂が表面に薄い膜を作り、炎の光を映している。コップに酒を注げなかったあの左手。かつてはケストレルの操縦桿を握り込んでいた手だ。
* * *
トワは野営地の外縁に立っていた。
通信塔の残骸に背を預けて腕を組み、暗闇を見ている。焚き火の光が届かない場所にいた。何を見ているのか分からない。索敵なのか、ただ立っているだけなのか。トワの沈黙はいつも判別がつかなかった。
微かな音が聞こえた。
電波の雑音だった。焚き火の傍に置かれた旧式の携帯無線機が途切れ途切れの信号を拾っている。焦土の声ラジオだ。灰域の独立放送局。タリアが整備した中継網を使い、灰域の各集落にニュースと天気を伝えている。
雑音の隙間から女の声が聞こえた。
「――明日の灰域中部は曇り。気温は氷点下8度から――」
途切れた。ノイズが声を呑み込み、砂を噛むような音だけが残る。ジップが無線機に手を伸ばして周波数を微調整したが声は戻らなかった。
「ここじゃ電波が弱いんだな」
ジップが呟いた。カップのスープを飲み干して口元を袖で拭う。
「ストーンクロスなら、もうちょっとましに聞こえるのに」
フランがジップのカップにスープのおかわりを注いだ。ジップは「あ、どうも」と受け取り、また両手で包んだ。
焚き火の明かりが揺れている。
カイはスープを啜りながら焚き火の周りの顔を見ていた。フランは鍋の傍に座って自分の分のスープを静かに飲んでいる。元は麦を作っていたと言っていた。3年前に畑が灰に埋まった。ジップは17歳でカイと同い年。カード賭博が好きで、干し肉の文句を言いながらもフランが注いだおかわりを嬉しそうに飲んでいる。ボルトは酒を飲みながらテオの話をした。リントは武器の手入れを終え、ファルケを膝の上に置いたまま目を閉じている。
英雄ではなかった。干し肉のスープを分け合い、壊れた鉄殻を直し、焚き火の番をして酒を飲み、死んだ仲間の話をする。ただそれだけの人間たちだった。
この人たちが灰に埋もれるのを見たくなかった。畑を失ったフランも、カードを並べるジップも、妹を奪われたリントも、仲間の名前を覚え続けるボルトも。ケストレルに乗る理由がまたひとつ増えた。
* * *
夜が深くなった。
気温が下がって吐く息が白く凍った。焚き火の薪が赤い熾になり、炎は低く這うように揺れている。
ジップが眠りに落ちていた。
膝を抱えたまま頭を腕の上に預け、体を丸めている。赤茶けた髪が額にかかり、寝息が微かに聞こえた。フランがジップの肩に自分の防寒布をかけた。何も言わずに。ジップは起きなかった。
カイは焚き火の向こうを見た。
南東の方角。ラストヘイムがある方向だった。ゲオルグがいる。タリアがいる。ガルドがいる。400km先の灰の中の小さな集落。
空を見上げた。
星はなかった。灰色の雲が全てを覆っている。焦土紀の空はいつもそうだった。大崩落が巻き上げた塵が30年経った今も大気圏を漂い、星の光を遮っている。
カイが最後に星を見たのがいつだったか思い出せなかった。
思い出せないまま焚き火の熾を見つめる。赤い光が脈打つように明滅している。薪の隙間から灰が落ち、風のない夜に音もなく崩れていった。




