ケストレル初陣
白い世界だった。
ストーンクロスの西方に広がる凍結平原では、雪粒を含んだ風が地表を舐め続けていた。視界の半分が白く潰れ、残る半分も灰色の空と凍った地面の境界が曖昧に溶けている。メインカメラの倍率を上げても500m先は白い霧に吞まれ、何も見えなかった。
コックピットの計器に目を落とす。燃料残量87%。機関温度は巡航域の下限で安定し、装甲健全度は全セクション緑。弾薬は右手のファルケが残弾28発、左前腕のヴェスペが180発、両腰のドナーが各1発。白く曇った呼吸が計器のバックライトに薄い光の幕をかけて消えた。
4機は凍結平原の窪地に身を潜めていた。前方に枯れた鉄根樹が数本、風に軋みながら立っている。その向こうにシンダーの前衛部隊がいる。
「4機だ」
トワの声が通信に入り、シルフのセンサーが先行偵察で捉えた情報が共有される。
「ヴァルカン4機。本隊から約6km前方に展開した哨戒部隊。隊列は菱形陣。先頭の1機が索敵、後方3機が射撃態勢を維持しながら前進している」
「昨日の補給線襲撃で、哨戒を増やしたんだろう」
ボルトの声は低く落ち着いていた。ハウラーの通信は常にわずかな雑音を含んでいる。通信系統が古いのだ。
「迂回できるか」
カイが訊いた。
「無理だ。この平原は遮蔽物がない。迂回すれば視界が開けた場所を横切ることになる。向こうのセンサーに引っかかる」
トワが即答した。
「やるしかないってことだな」
リントの声には押さえきれない昂りが混じっている。
「昨日の2機とは違う。4機だ。しかも哨戒任務に就いている連中は練度が高い。正面から殴り合うな」
ボルトが言い、腕を操縦桿から離して首の骨を鳴らす音が通信に乗った。
「俺が正面から出る。ハウラーの装甲で弾を受ける。リント、右翼から射撃で撹乱しろ。トワ、左から回り込んで後方を取れ。カイ」
一拍の間があった。
「お前はケストレルの速さで突っ込め。俺が引きつけた隙に、1機を落とせ」
「了解」
カイは操縦桿を握り直した。手袋の下の掌が湿っている。昨日の補給線襲撃ではトワが隣におり、護衛は2機で撤退も事前に決まっていた。今日は違う。4機。正面からの交戦。ケストレルで初めて敵を斬りに行く。
右腰に懸架された鍛翼刀の重量をコックピットの振動から感じ取った。3.8mの片刃。振動機構が内蔵された実体剣。テオ・セヴァルのためにガルドが鍛えた刃だ。
「行くぞ」
ボルトの声と同時にハウラーが窪地から飛び出した。
* * *
33tの重量が凍った平原を踏み砕いた。ハウラーの足がアンカーボルトを打ち込み、砕けた氷が白い破片となって舞い上がる。継ぎ接ぎの装甲が風を切り全速で前進する。
シンダーの哨戒部隊が反応し、先頭のヴァルカンが停止して上下二段のデュアルセンサーがハウラーを捉える。通信が飛び交っているのが分かった。冴覚で4人の操手の意識が一斉に緊張するのを感じた。
ハウラーが吠え、ファルケの75mm弾が先頭のヴァルカンに向かって飛ぶ。弾丸は装甲に当たり火花を散らしたが弾かれた。正面装甲は厚い。
後方の3機が菱形陣から展開を始めた。2機がハウラーに銃口を向け、残る1機が側面に回ろうとする。
リントが動いた。キャリバーが右翼から姿を現して走りながらファルケを撃ち、75mm弾が展開中のヴァルカンの左肩に命中する。装甲がひしゃげて機体が横によろめいた。リントの移動射撃は正確だった。黄土色の機体が白い平原の上を駆け、一定のリズムで銃声が刻まれていく。止まらない。
3機のうち1機がリントに向き直り、残る2機がハウラーに集中する。先頭のヴァルカンと後方の1機がボルトの正面に銃口を揃えた。
ハウラーが走った。弾丸が装甲を叩く。右肩と胸部に各1発。火花が飛んで装甲の塗膜が剥がれ白い煙が立ち上ったが、ハウラーは止まらない。ボルトの残殻は33tの重量を盾にして前進する。壁だ。
トワのシルフが左翼から音もなく滑り出している。
カイはケストレルを発進させた。
操縦桿を前に倒すとファルターが噴射し、機体が跳ね出した。凍った地面を蹴り白い粉塵を巻き上げながら加速する。残殻とは次元が違う加速だ。背部の2基のスラスターが翼のように展開して推力が背中を押し、計器の速度表示が跳ね上がっていく。
速い。速すぎる。
3歩目で足が滑った。凍結した地面の上でケストレルの足裏のグリップが氷を捉えきれなかったのだ。残殻なら重量で押し切れる滑りだがケストレルは25.2tと軽く、その分足場の状態に敏感だった。機体が右に流れて姿勢が崩れかける。
カイは操縦桿を左に捻って右脚のペダルを踏み込んだ。足首の関節が補正をかけ、腰部のサブスラスターが一瞬だけ噴射して機体を立て直す。心臓が跳ねた。訓練で何度も経験した過剰入力だ。頭では分かっているのに体がまだケストレルの応答速度に追いついていない。
立て直し、走り、前を見る。
ボルトが2機を引きつけ、リントがもう1機を牽制している。残る1機、菱形陣の右翼にいたヴァルカンがカイの接近に気づいて銃口を向けた。
冴覚が反応した。
操手の意識が動く。照準を合わせ、トリガーに指をかけ、右肩が沈み砲口がこちらを向く。
撃つ。
カイは左に跳んだ。ファルターが横方向に噴射し、ケストレルが地面すれすれで横跳びする。75mm弾が右脇を通過して風圧が装甲を叩き、通過音が骨に響いた。
距離300m。まだ遠い。冴覚が敵の意識を読み続けていた。次弾装填、照準微修正。焦っている。こちらの速度に追いつけていないのだ。
距離200m。
ヴァルカンが2発目を撃ち、カイは右に身をかわす。弾が左肩の装甲を掠めて火花が散った。装甲健全度のインジケーターが左肩セクションだけ黄色に変わるが、掠っただけで貫通はしていない。
距離100m。
灰色が落ちた。
世界から色が消え去り、凍結平原の白もヴァルカンの暗緑色も灰色の濃淡に沈んだ。音が遠ざかる。エンジンの唸りも銃声も通信の雑音も水底に沈んでいく。残ったのは自分の心臓の鼓動と、ヴァルカンの右腕の関節が次弾装填のために微かに動く音だけだった。
来る。3発目。だが装填が間に合わない。
カイは右腰から鍛翼刀を抜く。
操縦桿の入力と同時にケストレルの右腕がマニピュレータで柄を掴み、引き抜く一連の動作は訓練で染み込ませた手順だった。3.8mの片刃が凍った空気を裂き、振動機構が起動して柄からの低い唸りが操縦桿に伝わってくる。
ヴァルカンの操手が反応した。銃を構え直す動きを捨て、ライターで近接武装を引き抜こうとしている。背部懸架の合金剣だ。だが遅い。冴覚が教えている。相手の手が柄に届くまで0.8秒、ケストレルが到達するまで0.4秒。
間に合う。
ケストレルが踏み込んだ。右脚が凍った地面を蹴って全身の推力が前方に集中する。ファルターが一瞬だけ吹き、機体が弾丸のように突進した。
鍛翼刀を横薙ぎに振り、刃がヴァルカンの腕に喰い込んだ。
金属が裂ける音が世界を引き裂いた。振動機構が高周波で唸り、刃先が装甲の繋ぎ目を切削していく。合金が火花を散らして装甲片が飛散した。オレンジ色の火花が灰色の静寂の中で唯一の色だった。ケストレルの腕に伝わる衝撃。操縦桿を握る手に金属の断裂が振動として叩きつけられる。硬く、重く、抵抗がある。だが刃は止まらなかった。
ヴァルカンの右腕が肘関節の上で切断された。
切り落とされた腕がファルケごと凍った地面に落下する。装甲片と配線と油圧液が飛び散り、断面から黒い煙が噴き出した。ヴァルカンの機体が右に傾き、バランスを崩して後退する。
汗ばんだ掌の中で操縦桿がひきつるように震えていた。断ち割った金属の抵抗が指先に残っている。
操縦桿を通じて伝わった金属断裂の振動がまだ掌に残っている。人を斬った。ケストレルの刃で、あの腕の中にある操手の乗った機体の腕を。コックピットには斬り込んでおらず殺してはいない。だが、あの腕が落ちた瞬間の衝撃は操縦桿を通じて自分の骨を伝い、背骨の芯まで届いていた。
灰色が薄れ、色が戻った。
銃声が耳に飛び込んでくる。エンジン音、通信の雑音。世界が元に戻った。
「カイ、離脱しろ!」
トワの声が鋭く通信を切った。
カイはケストレルを後退させ、鍛翼刀を振り払って刃に付着した油と装甲片を散らす。ヴァルカンは右腕を失ったまま後退し、左腕のヴェスペを乱射してきた。30mm弾が凍った地面を抉り、破片がケストレルの脚部装甲に当たって弾ける。照準は定まっておらず、操手は動揺していた。
背後ではトワのシルフがもう1機のヴァルカンの背後に回り込んでいた。戦闘短刀が右膝裏の関節に突き立てられて金属の裂ける音が響き、ヴァルカンの右脚が折れて機体が片膝をつく。
ボルトのハウラーが正面の2機と組み合っていた。左腕で1機のシールドを掴み、右腕のファルケを至近距離から叩き込んでいる。75mm弾が胸部装甲を抉って火花と煙が巻き上がった。もう1機がハウラーの側面から射撃を加えるが、リントのキャリバーが横合いから3発叩き込んで牽制し射線を逸らす。
4機対4機。だが勝負は既についていた。
右腕を失ったヴァルカンが後退する。片膝をついたヴァルカンが立ち上がろうとするが、損傷した右脚が荷重に耐えきれずにまた崩れた。正面の2機もハウラーの圧力とリントの射撃に押されて後退を始めている。
「撤退する。深追いするな」
トワの指示が飛んだ。
4機が反転した。ネーベルを1基ずつ射出し、白い煙幕が凍った平原に広がる。風が煙を東に流して4機の姿を覆い隠した。ケストレルのファルターが噴射し、煙幕の中を駆け抜ける。背後で75mm弾が2発煙幕を貫通して飛んできたが、既に射線からは外れていた。凍った地面に着弾する音が遠ざかっていく。
* * *
合流地点は凍結平原の東端にある鉄根樹の林だった。枯れた枝が風に軋み、幹の表面に張った霜が白く光っている。
4機が林の中に身を潜めた。
「被害報告」
トワが言った。
「ハウラー、右肩と胸部に被弾3発。装甲にめり込んでるが貫通してない。動作に問題なし」
ボルトが報告する。
「キャリバー、被弾なし。弾薬残量、ファルケ19発」
リントの声には高揚が残っていた。
「シルフ、被弾なし。戦闘短刀の刃先に欠損あり。交換が必要」
トワが淡々と報告する。
「ケストレル」
カイは計器に目を落とした。
「左肩に被弾1発、装甲健全度は黄色。貫通なし。弾薬残量、ファルケ26発、ヴェスペ180発、ドナー2発。燃料残量79%。機関温度は巡航上限付近」
「上出来だ」
ボルトの声に満足げな響きがあった。
「ヴァルカン4機のうち、1機は右腕喪失で戦闘不能。もう1機は右膝関節損傷で機動力半減。残り2機も士気が折れてる。シンダーの哨戒網に穴が開いた」
「本隊が穴を埋めに動く。その間に進軍が止まる。半日は稼げた」
トワが計算するように言った。
通信が途切れ、林の中に風の音だけが残った。
カイは操縦桿を握ったまま右手を見た。
震えていた。手袋の下の指が細かく震え、操縦桿を握る力が揺れている。戦闘の振動でもファルターの余震でもない。体の内側から来る震えだった。
あの瞬間の感触が消えない。鍛翼刀がヴァルカンの腕に喰い込んだ時の操縦桿を通じて掌に伝わった抵抗と、金属が裂ける振動。硬く、重い。切断が完了した瞬間のぷつりと抵抗が消える感覚。そしてファルケを握ったまま凍った地面に落ちていくヴァルカンの腕。
あの腕の中に人がいた。
コックピットに刃は届いておらず、操手は生きている。だが、あの衝撃は向こうにも届いたはずだ。自分の機体の腕が切り落とされる衝撃が。
刃を振った瞬間、体の底から何かが湧き上がった。生きていると思った。その熱がいま、胃の裏側で冷たい鉛の塊となって沈んでいく。
昨日は銃だった。30mm弾が飛んでいく間、自分の手と相手の間に空間があった。今日は操縦桿一つ向こうに金属があり、その向こうに人がいた。刃が喰い込んで振動が手に伝わり、腕が落ちる。その全部を体で感じた。
右手の震えが止まらない。操縦桿を離せば止まるかもしれないが、指が動かなかった。握っていればまだ操手でいられる気がしたのだ。機体を動かして敵の腕を落としただけのことだ——そう思おうとして、思いきれなかった。
通信が開き、ボルトの声がした。
「カイ」
カイは応じなかった。
「震えてるだろう」
声は穏やかだった。
「最初はそうだ。俺もそうだった。15の時に初めて残殻の腕を落とした時、次の日まで飯が食えなかった」
カイは操縦桿を握り締めた。震えを止めようとしたが、止められなかった。
「慣れろとは言わない。慣れちまったら、人間じゃなくなる。だが、震えながらでも次に動けるなら、お前は操手だ」
ボルトの通信が切れた。
林の中で風が吹き、鉄根樹の枯れ枝が擦れ合って乾いた音を立てている。雪粒が装甲の修復痕に入り込み、白い粒が金属の傷跡に溜まっていく。
カイはケストレルの操縦桿を握ったまま右手の震えを見つめていた。熱さと冷たさが、指先から肩まで交互に来る。
止まらない。まだ止まらない。
風が雪粒を巻き上げ、4機の鉄殻の影を白く覆い始めていた。




