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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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コルヴァスの牙

報告書は簡潔だった。

 リオン・アスフォード元少尉、管区離脱。追撃に出たシーラ・フレイズ副隊長、交戦の末に敗北。ヴァーグラスは中破。リオンの現在地は不明。


 リーヴ・シェイドはデータパッドの画面を消して、整備台に置いた。

 格納庫の天井灯が白い光を落としている。ソルスティスが直立姿勢で固定され、胸部装甲のメンテナンスハッチが開いていた。4基の遊肢が背部の懸架アームに折り畳まれ、漆黒の装甲が天井灯を鈍く反射している。


 リーヴは工具を手に取った。

 遊肢の第3基、左下の懸架接続部。前回の演習で微かな振動を感じていた。0.02mmの誤差。放置しても実戦に支障はない。だが放置する気にはなれなかった。


 六角レンチを接続部のボルトに当てた。右手で回す。滑らかに緩んだ。左手でボルトを受け取る。指先にボルトの冷たさが触れた。触れたはずだった。金属の温度が、以前ほど鮮明に伝わってこない。


 リーヴはボルトをトレイに置き、次の作業に移った。

 懸架接続部の内壁に潤滑油を塗り直す。指に油が滲んだ。ソルスティスの整備は技匠の仕事だが、遊肢の微調整だけは自分でやる。4基の遊肢は自分の四肢の延長だ。他人に触らせたくない場所がある。


 格納庫には他に誰もいなかった。

 コルヴァスの専用格納庫だ。ソルスティスの隣にはヴァーグラスの格納スペースがあるが、今は空だった。中破したヴァーグラスは修理区画に搬送されている。その向こうに、ダリオの機体、ハルの機体、ナディルの機体が並んでいる。6機分のスペースに5機。フィンの機体が抜けた場所は空のままだ。


 リーヴは手を止めなかった。


 * * *


 格納庫の入口で足音がした。

 ナディル・コールが立っていた。肩を強張らせ、所在なさげに入口の柱に片手をかけている。


「隊長。報告書は――」

「読んだ」


 ナディルは口を閉じた。数秒の間があった。


「シーラ副隊長が、自室に」

「知っている」


 リーヴは懸架接続部の内壁を布で拭いた。潤滑油の汚れが布に移る。


「ハルが、食堂で待ってます。一緒にどうかって」

「先に行っていろ」


 ナディルは頷いて去った。足音が格納庫の外に消える。リーヴは布を新しいものに替え、接続部の清掃を続けた。


 シーラは自室に籠もっている。報告書を提出した後、一言も発さずに廊下を歩いていったと、ナディルから聞いていた。シーラの歩き方は知っている。背筋を伸ばし、視線を正面に据え、表情を消す。


 リーヴは遊肢の接続部を組み直し、ボルトを締めた。規定トルクまで回す。右手の感触は正確だった。


 * * *


 食堂は駐屯地の中央棟にあった。

 コルヴァスの専用食堂。壁に窓はなく、天井の蛍光灯が均一な光を落としている。長テーブルが2列。席は12。今使われているのは3席だけだった。ハルとナディルが向かい合って座り、リーヴが入ると、ハルが手を上げた。


「隊長、お疲れ様です。今日は煮込みですよ。芋が多めです」


 ハル・ブレントの声は変わらなかった。何があっても、食堂ではこの調子だ。配属初日に「精鋭部隊って、こんなに暗いんですか」と真顔で言った男だ。以来、この食堂の温度はハルが決めている。

 リーヴはトレイを受け取り、席についた。煮込み。白い皿に茶色の煮汁。角切りの芋と人参。干し肉の切れ端がいくつか沈んでいる。管区の管理食だ。カロリーと栄養素が計算され、操手の体調維持に最適化されている。味は後回しだ。


 匙で一口すくった。口に入れる。芋の食感はある。柔らかく煮えている。だが味がない。舌の上で温度だけが広がり、芋の甘みも煮汁の塩気も、薄い膜の向こうにある。


 食べた。黙々と。量は減っていく。胃に入れば栄養になる。それでいい。


 ハルがコーヒーのカップを差し出した。

「どうぞ、隊長」


 リーヴは受け取った。左手で。カップの持ち手に指をかけた。陶器の感触が遠い。持ち上げようとした瞬間、ふつりと指の芯が抜け落ちた。カップが傾き、コーヒーが揺れた。


 裏切るな。

 右手で支えた。


 一瞬だった。コーヒーは零れなかった。リーヴはカップを右手に持ち替え、何事もなかったように口をつけた。温かい液体が喉を通る。苦味があるはずだった。あるはずの苦味は、もう届かなかった。


 ナディルの視線を感じた。だがナディルは何も言わなかった。


 ハルが煮込みの皿を空にして、椅子の背にもたれた。

「リオンさんのこと、聞きました」


 ナディルが顔を上げ、ハルを見てからリーヴを見る。


「何か理由があるんだろうな、って思うんですよ。リオンさんって、意味もなく動く人じゃないじゃないですか」


 ナディルが小さく眉を寄せ、口を開きかけてやめた。


「ハル。それは」

「いや、別に脱走を肯定してるわけじゃないけど」


 ハルは両手を上げて見せる。


「ただ、リオンさんが何も考えずにやったとは思えないって話。あの人、演習の時もいつも冷静だったし。何かあったんだろうなって」


 リーヴは空のカップをトレイに戻した。


「食事中だ」


 二人が黙った。

 食堂に沈黙が落ちた。蛍光灯の微かな唸りだけが耳に届く。ナディルが匙を動かす音がして、ハルが小さく息を吐いた。


「すみません、空気読めてなかったですね」


 ハルは頭を掻いた。だが目は笑っていなかった。


 リーヴは立ち上がり、トレイを返却口に持っていった。返却口の前で1秒、立ち止まった。何もなかった。皿は空だった。味のしない食事を、残さず食べた。それが習慣だ。体は燃料を必要としている。味覚が何を感じようと感じまいと、体は動かなければならない。鉄殻と同じだ。燃料を入れれば、動く。


 * * *


 夜のコルヴァス駐屯地は静かだった。

 消灯後の廊下を、リーヴは自室に向かって歩いた。ブーツの底が床を叩く音だけが響く。等間隔に並ぶ非常灯が廊下の壁を薄緑色に染めている。

 シーラの部屋の前を通った。ドアの下に光はなかった。暗い部屋の中で、シーラは何を考えているのだろうか。「裏切り者に負けた」という事実が、シーラの中でどう処理されているのか。


 自室に入った。簡素な部屋だ。ベッド、机、ロッカー。私物はほとんどない。机の上にデータパッドが1台。ロッカーの中に予備の制服が2着。それだけだった。


 窓に近づいた。

 カーテンは引いていない。外は暗かった。駐屯地の外灯が雪混じりの地面を照らし、その先は闇だ。管区の外。灰域の方角。


 左手を見た。指を開き、閉じた。動く。ただ、指先が薄い。


 リオンは管区を出た。鋳脈を持たないまま。冴覚だけを頼りに。シーラの遊肢3基を退け、灰域へ消えた。

 士官学校で隣にいた。演習場で何度も向き合った。鋳脈がなくても、あの反応速度は本物だった。だからこそ何度も問いかけた。「なぜ鋳脈を拒む」と。リオンは一度も答えなかった。——管区を出ていくまでは。


 窓の外を見つめた。灰域の方角。光のない闇。


「リオン」


 声は小さかった。自分にしか聞こえない音量だった。


「お前は正しいのかもしれない。だが、俺はもう戻れない」


 左手を握った。指先の感触は薄く、遠く、確かめるように力を込めても、返ってくるものは少なかった。

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