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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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綻びの一瞬

灰色が落ちた。

 音が消える。速射砲の連射音も凍った地面を蹴るポラリスの足音も、全てが水底に沈んでいく。残ったのはリオン自身の心拍と、3基の遊肢が空気を裂いて移動する微かな駆動音だけだった。


 冴覚が世界を剥ぎ取っていく。


 左の遊肢は距離38m、旋回速度が0.1秒前より落ちている。右の遊肢は距離52mで高度を2m下げた。上方の遊肢は距離65m、降下軌道に入っている。

 3つの軌道が脳裏に線を描く。遊肢の動きには規則があり、軌道が切り替わるたびにヴァーグラス本体の動きが一瞬だけ凪ぐ。その橋の上の0.3秒。

 前の丘で4回、この丘で3回。計7回の射撃パターンの切り替えをリオンの冴覚は全て記録していた。


 0.3秒。


 それだけあればいい。


 リオンは左手で煙幕の射出ボタンを押した。

 肩部のディスペンサーから2基の煙幕弾が放たれる。白い煙が凍った空気の中で急速に膨張してポラリスの周囲を覆い、視界を白く塗り潰していく。遊肢の光学センサーにとっても同じはずだった。


 右の遊肢が撃ち、煙幕の中に弾丸が突き刺さる。だが照準は甘い。視覚を封じられた状態での射撃はシーラほどの精度を持ってしても着弾点がばらける。30mm弾がポラリスの左腕をかすめて装甲表面に火花が散ったが、浅い。


 リオンは煙の中を走った。右でも左でもなく前方へ、ヴァーグラス本体がいる丘の向こうに向かって。

 穿月銃を上方の遊肢に向けると、煙幕の切れ目から覗く空に降下してくる卵型の影が見えた。引き金を引く。90mm弾が白煙を裂いて飛んだ。

 命中させる必要はない。脅かせればいい。


 遊肢が回避機動を取り、横に跳ねるように軌道を変える。


 今だ。


 冴覚がシーラの意識の流れを捉えた。上方の遊肢が回避した瞬間に残り2基の射撃が途切れ、その一瞬だけヴァーグラス本体の操縦が空白になる。


 0.3秒。


 ポラリスの脚部が凍った地面を蹴り、背部スラスターが全力で噴射する。23tの機体が丘の斜面を一気に駆け上がる。足首の関節が限界まで屈曲して不整地の凹凸を吸収し、速度を殺さない。エマのチューニングがリオンの冴覚に機体を追従させている。


 煙幕を抜けた。


 丘の頂上を越えた瞬間、眼下にヴァーグラスが見えた。

 距離80m。霜白色の装甲が灰色の空に溶け込むように佇み、華奢な四肢は動いていない。


 リオンが丘を越えたことにシーラが気づいた。

 ヴァーグラスの頭部カメラが跳ね上がるようにリオンを捉え、脚部が動き始める。だが遅い。リオンの方が半拍早い。


 ポラリスが斜面を駆け下り、距離が縮まっていく。80m、60m、40m。


 シーラが遊肢を呼び戻し、3基の遊肢が丘の向こうから弧を描いて旋回してくる。だが間に合わない。遊肢が射撃位置につくより早く、ポラリスはヴァーグラスの懐に入った。


 ヴァーグラスの右前腕に内蔵されたWESPEが火を噴き、30mm弾がポラリスの左肩に直撃した。衝撃がコックピットに叩きつけられてハーネスがリオンの体に食い込む。装甲が割れて白銀の塗装の下から歪んだ金属が露出し、左肩の関節駆動系がダメージを受けて左腕の応答が鈍くなった。


 だが止まらない。


 リオンは右手で穿月銃を手放した。射撃武器では近すぎる。右腰のラックからSTILETTを引き抜くと、近接短刀の刃が灰色の光を反射した。

 距離15m。ポラリスが跳ぶ。足首の関節が地面を蹴り、機体が前方へ突進する。


 ヴァーグラスの右腕がWESPEの銃口をポラリスに向ける。至近距離での射撃に対し、リオンは機体を右に捻った。30mm弾がポラリスの右脇腹をえぐり、装甲が剥がれてフレームの一部が露出する。痛みはない。痛みが来るのはもっと後だ。


 STILETTを振り下ろした。


 金属が金属を断つ音が凍った丘陵に響き渡った。

 ヴァーグラスの右腕が肘の関節から切断される。WESPEごと霜白色の腕が凍った地面に落ち、切断面から噴き出した油圧液が装甲を黒く汚した。


「――っ」


 通信にシーラの息を呑む音が混じる。


 遊肢が戻ってきた。

 3基の卵型の兵装ポッドが丘を越えて飛来しポラリスを囲もうとするが、リオンはヴァーグラスの至近距離にいる。距離5m。遊肢の速射砲が火を噴けば弾道の延長線上にヴァーグラス本体がいる。


 遊肢は旋回しながら射線を探るが、どの角度からもヴァーグラスが射線に入ってしまい精密射撃ができない。


 1基の遊肢が強引に撃った。

 速射砲の弾丸がポラリスの右脚をかすめると同時に、流れ弾がヴァーグラスの左肩装甲を叩く。


 だがリオンは読んでいた。


 弾丸がポラリスの脚をかすめた瞬間、リオンは機体を半回転させてヴァーグラスの背後に回り込んだ。遊肢の射線がまた塞がる。背部の懸架アームが邪魔をして母機の背面側からは撃てない。


 ポラリスのSTILETTがヴァーグラスの背部懸架アームの1本を切り裂いた。


 接続を失った遊肢が1基落下し、凍った地面に激突して卵型の外殻が割れ、内部機構が散乱する。


 シーラの体が痙攣し、通信に短い悲鳴が漏れた。血の味がするほど奥歯を噛み潰す音がしたが、その一瞬だけ残り2基の遊肢の動きが止まる。


 リオンは見逃さなかった。


 STILETTを構え直し、ヴァーグラスの左脚の膝関節を斬る。華奢な脚部装甲は一太刀で断たれ、ヴァーグラスが膝をついた。凍った地面にめり込むように霜白色の機体が崩れ落ちる。


 残った2基の遊肢が再び動き出し、膝をついた母機の周囲を旋回しながらポラリスに照準を合わせようとする。だが至近距離で母機の周囲を飛ぶ遊肢は射線の確保に苦慮していた。ポラリスがヴァーグラスに張りついている限り撃てない。


 リオンはSTILETTの刃先をヴァーグラスのコックピットハッチに突きつけた。


 静止。


 遊肢が止まった。2基の卵型の兵装ポッドが射撃姿勢のまま空中に浮いている。速射砲の砲口がポラリスを向いているが引き金は引かれない。


 通信が開いた。


 * * *


 シーラの呼吸が聞こえた。

 荒く乱れている。あの均質で冷たい声が、今は喉の奥で引っかかるように震えていた。


「鋳脈がないのが、信じられない」


 歯を食いしばる音が通信に混じる。


「遊肢も持たず、冴覚だけで。ここまで――」


 言葉が途切れた。悔しさか怒りか、リオンには分からなかった。


 リオンはSTILETTを引かず、突きつけたまま静かに言った。


「止めは刺さない」


 沈黙が落ちた。2秒、3秒。遊肢の駆動音だけが微かに聞こえている。


「帰れ、シーラ」


「リーヴに伝えてほしい。私はもうセルヴィスの人間じゃない。追ってくるなら、何度でもこうなる」


 シーラは答えなかった。

 通信越しに歯を噛み締める音が聞こえ、長い沈黙の後に遊肢が動いた。2基の兵装ポッドが射撃姿勢を解いてゆっくりとヴァーグラスの背部に戻っていき、残った2本の懸架アームが遊肢を回収する。


 リオンはSTILETTを引き、ヴァーグラスのコックピットハッチから刃先を離した。


 ヴァーグラスが立ち上がろうとする。左脚の膝関節が断たれているため右脚だけで不安定に体を支えた。右腕もない。霜白色の装甲のあちこちに傷が走り、油圧液が凍った地面に黒い染みを作っていた。


 それでもシーラは立った。


 片脚で、片腕で。熱を吹く遊肢が崩れかける母機の両脇を支えながら、ヴァーグラスは丘の向こうへ歩を刻み始める。


 その背中にリオンは声をかけなかった。


 ヴァーグラスが丘の稜線を越え、霜白色の影は灰色の空に溶けて消えた。


 * * *


 リオンはポラリスのコックピットで荒い息をついた。


 冴覚が解けていく。灰色に沈んでいた世界に色が戻り、音が戻り、凍った丘陵の風の冷たさが体に染みてくる。同時に戦闘中は後回しにされていた体の信号が一気に押し寄せた。


 左肩が痛い。WESPEの直撃を受けた箇所だ。ポラリスの装甲が割れ、衝撃がコックピットのフレームを伝わってリオンの左肩に打撲を残していた。動かせるが鈍い痛みが腕全体に広がっている。

 右脇腹も痛い。装甲をえぐられた時の衝撃だ。ハーネスの金具が脇腹に食い込んだ跡がじくじくと熱を持っている。


 計器を確認した。

 装甲健全度。左肩、赤。右脇腹、赤。右脚、黄。それ以外は緑。エンジン温度は許容範囲内。燃料残量48%。穿月銃の残弾は12発。STARLINGは36発、未使用。煙幕は4基残っている。


 無傷ではない。

 だが動ける。


 リオンは操縦桿を握ったまま目を閉じた。

 手袋の中の汗が冷えていく。心臓の鼓動がまだ速く、呼吸を整えようとしてもうまくいかない。


 勝った。


 シーラの声がまだ通信に残っているような気がした。「帰れ」と言った自分の声も。どちらが先に消えるのか分からなかった。


 エマのポラリスと、この冴覚だけで。


 それだけで足りた。


 目を開けると、コックピットの正面モニターに灰色の丘陵地帯が広がっていた。ストーンクロスまで残り120km。ポラリスの脚は動く。燃料もある。


 リオンは操縦桿を前に倒した。ポラリスが歩き始める。左肩と右脇腹が動くたびに痛んだが、足は止めなかった。


 灰域の風が冷たかった。

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