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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄の鳴く夜

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シーラの刃

管区外縁部を越えてから4時間が経っていた。

 ポラリスの計器は安定していた。燃料残量62%。機関温度は巡航域。エマが持たせてくれた整備データのおかげで、離脱後も機体の調子は崩れていなかった。コックピットの中は薄暗く、計器の淡い光だけがリオンの顔を照らしている。


 灰域の丘陵地帯が広がっていた。

 凍結した草が一面を覆い、風が吹くたびに白い粉が舞い上がる。草の根元は灰色に変色していて、枯れているのか凍っているのか区別がつかなかった。丘の稜線が幾重にも重なり、視界の奥で灰色の空と溶け合っている。所々に旧世界の道路標識が傾いて突き立っていた。文字は剥落し、何を示していたのかはもう誰にも分からない。


 地図の上では、ストーンクロスまで残り120km余り。このまま巡航速度を維持すれば、日没前には到着できる計算だった。

 軍服はもうない。身に着けているのは、出発前にアイリスが用意してくれた灰域仕様の防寒着だけだ。セルヴィスの士官番号も、アスフォードの名前も、ここでは何の意味も持たない。


 冴覚が鳴った。


 計器が反応するより先に、リオンの背筋を冷たいものが走り抜けた。右後方。距離は――近い。1km以内。

 振り返る前に操縦桿を倒した。ポラリスが左に飛び退る。足首の関節が限界まで曲がり、凍結した地面を蹴って斜めに跳んだ。


 一拍遅れて、リオンがいた場所に弾丸が着弾した。

 地面が爆ぜた。凍った草と泥が飛散し、直径2mほどの穴が穿たれる。速射砲の弾痕だった。


 丘の稜線の向こうから、白い影が姿を現した。


 霜のような灰白色の装甲。華奢な四肢。糸の切れた人形を思わせる、壊れそうなほど細い胴体。背部から伸びる3本の懸架アームに吊られた、卵型の兵装ポッドが既に展開を終えていた。遊肢の前面には速射砲の砲口が据えられ、その黒い穴がこちらを見つめている。

 ヴァーグラス。

 コルヴァス副隊長、シーラ・フレイズの銘殻だった。本体の小ささと、展開した遊肢の広がりの対比が異様だった。


 通信回線が開いた。ノイズが一瞬走り、声が入ってきた。


「アスフォード少尉。いえ――元少尉、ですか」


 低い声だった。感情の起伏が削り取られたような声だ。演習でも、廊下ですれ違うときも、いつもこの声だった。


「脱走の確認が取れた時点で、追撃の許可が下りました。私が志願しました」


 3基の遊肢がヴァーグラスの背後から扇状に展開していく。左に1基、右に1基、そして1基が上方に浮き上がった。遊肢の前面に据えられた速射砲の砲口が、全てポラリスを向いていた。


「裏切り者を始末します。リーヴ隊長のために」


 リオンは穿月銃を構えた。右腕がスムーズに持ち上がり、照準がヴァーグラスの胴体を捉える。だが引き金には指をかけなかった。


「シーラ。戦う気はない。道を空けてほしい」


 2秒の沈黙があった。


「道は空きません」


 左の遊肢が動いた。

 横方向に滑るように移動し、リオンの左側面に回り込む。同時に右の遊肢が逆方向に展開し、上方の遊肢がさらに高度を上げた。包囲の形が作られていく。


「あなたは甘い。鋳脈を拒み、管区を捨て、灰域に逃げる。それで何が変わるのか」


 リオンは答えなかった。答えている余裕がなかった。冴覚が遊肢の動きを追っている。3基が異なる軌道で移動している。速い。リーヴのときとは動き方が違う。追うのでなく、囲んでくる。


 左の遊肢が火を噴いた。

 甲高い音が空気を裂いた。金属を引き裂くような速射砲の連射音が、凍った丘陵に反響する。30mm弾が凍結した地面を抉りながらポラリスに迫る。弾着点から泥と氷の破片が噴き上がり、白い粉塵が視界を汚した。リオンは右に跳んだ。足首の関節が地面を蹴り、ポラリスの23tの機体が横方向に滑る。軽い。


 右の遊肢が撃った。

 回避軌道の先に、すでに射線が横たわっていた。読まれた。弾丸がポラリスの右肩をかすめ、装甲表面の白銀の塗装が弾け飛んで下地の金属が露出する。火花が散った。浅い。だが被弾した。衝撃がコックピットに伝わり、リオンの体がハーネスに押しつけられた。


 リオンは穿月銃を右の遊肢に向けた。引き金を引く。90mm弾が凍った空気を切り裂いて飛んだ。遊肢は横に逸れた。命中しなかった。遊肢は小さく、動きが速い。当たるわけがない。


 上方の遊肢が降下してきた。真上からの射撃。リオンは前方に駆けた。背後で地面が弾けた。3方向からの射撃。回避するたびに退路が狭まっていく。


 丘を2つ越えた。

 凍結した草原の上を、ポラリスの足が不規則な軌道で駆け抜ける。踏み潰された草が砕け、氷の粉が脚部の関節に張りついた。

 リオンは走りながら戦況を整理していた。ポラリスの装甲は薄い。回避を前提にした設計だ。直撃を受ければ致命傷になる。穿月銃の残弾は14発。STARLINGの残弾は36発。煙幕は6基残っている。


 3基の遊肢がリオンの周囲を旋回し、一定の間隔で射撃を加えてくる。射撃の精度は高い。回避しなければ確実に当たる弾道だった。だが全弾が直撃を狙っているわけではなかった。リオンの移動方向を制限する弾もあった。遊肢の1基が撃ち、リオンが回避した先にもう1基の射線が通っている。追い込み猟だった。


 ヴァーグラス本体は丘の稜線の向こうに留まっていた。遊肢だけで狩りをしている。本体を晒す必要がない。


 リオンは丘の斜面を駆け下りながら、右肩の装甲を確認した。塗装が剥げ、下地の金属が露出していた。装甲そのものは貫通していない。かすり傷だ。だが次は浅くないかもしれなかった。次は塗装じゃ済まない。


 冴覚を研ぎ澄ませた。

 意識を絞り込む。視覚だけでは足りない。聴覚で遊肢の駆動音を捉え、皮膚感覚で空気の流れの変化を読む。ポラリスのコックピットは密閉されているが、機体のフレームを伝わる振動から外部の情報を拾える。


 遊肢の動きを追う。左。右。上。3つの軌道が脳裏に描かれる。


 左の遊肢が急旋回した。速射砲が唸る。リオンは右に飛び退り、同時にSTARLINGを左手で引き抜いた。60mm速射銃を左の遊肢に向けて撃つ。3発。2発が外れ、1発が遊肢の外殻をかすめた。遊肢は一瞬姿勢を崩したが、すぐに立て直した。


 通信が入った。


「STARLINGで遊肢を落とせると思いますか」


 シーラの声は平坦だった。


 リオンは答えなかった。

 答える代わりに、冴覚で追い続けた。遊肢の動きを。ヴァーグラスの動きを。全てを。


 気づいたのは、3度目の回避の直後だった。


 遊肢が射撃パターンを切り替える瞬間がある。3基が同時に動くのではなく、一瞬だけ1基の動きが遅れる。0.3秒ほどの隙間。本体の操縦がその瞬間、止まる。


 ヴァーグラスが丘の陰から動かないのは、戦術的な判断だけではなかった。動けないのか? 遊肢に意識を集中している間、本体を動かせない?


 0.3秒。

 それがシーラの癖だった。遊肢の指令を更新する瞬間、ヴァーグラスは無防備になる。


 だが0.3秒で何ができる。遊肢の包囲を抜けてヴァーグラスに到達するには、丘を1つ越えなければならない。距離にして400m以上。ポラリスの最大加速をもってしても、0.3秒では50mも進めない。


 考えを巡らせる暇もなく、右の遊肢が旋回した。速射砲が火を噴く。リオンは左に跳んだ。凍った地面が足元で砕け、氷片がポラリスの脛を叩いた。上方の遊肢が降下してくる。前に駆けた。背中を弾丸がかすめ、背部スラスターの外装カバーが金属片になって吹き飛んだ。推力に影響はない。だが次の被弾がスラスター本体に届けば、回避機動そのものが死ぬ。


 包囲が締まっていく。

 3基の遊肢がリオンを中心にした円を描き、その円が少しずつ狭くなっている。逃げ場が減っていく。


 穿月銃を構えた。上方の遊肢に照準を合わせる。引き金を引いた。90mm弾が飛ぶ。遊肢は横に逸れた。外れた。だが遊肢が回避動作を取った瞬間、射撃のパターンが一瞬途切れた。


 やはりそうだ。


 1基が逸れた瞬間、他の2基の射線がぶれた。3基を同時には捌けない。


 リオンの頭の中で、一つの形が結ばれ始めた。


 煙幕。穿月銃。0.3秒の空白。

 煙幕で遊肢の目を潰し、穿月銃で1基に意識を引きつける。0.3秒の穴が開く。そこを抜けて、本体へ。


 だが失敗すれば終わりだ。煙幕を抜けた瞬間に3基の集中射撃を浴びれば、ポラリスの装甲では耐えられない。


 通信にシーラの呼吸が微かに混じった。


 左の遊肢が接近してきた。距離40m。速射砲の砲口がポラリスの胸部を狙っている。右の遊肢が後方に回り込み、退路を塞いだ。上方の遊肢が高度を下げ、頭上から見下ろしている。


 3方向。

 逃げ場がない。


 リオンは操縦桿を握り直した。

 手袋の中で汗が滲んでいた。心臓の音が聞こえる。

 冴覚が三基の位置を点で掴んでいた。左、40m。右、55m。上、70m。丘の向こうのヴァーグラス本体が、そこにいる。


 煙幕の射出ボタンに親指を添えた。


 0.3秒。


 それに全てを賭けるしかなかった。

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